都営バス資料館

目黒駅の一通と中丸と

 JR目黒駅とクロスする目黒通りは、目黒駅手前の権ノ助坂(ごんのすけざか)で二股に分かれてそれぞれが一方通行となり、白金台の庭園美術館前でまた合流する。といってもこの一方通行に従っているのは目黒駅を貫通する[東98](東京駅南口~目黒駅~等々力)だけで、他の系統は目黒駅→白金台まで、バス専用の一方通行逆走ルートが備えられているために経路はシンプルになっている。しかし、ここもまた、現在のような経路になるまでは色々な変化があった。特に興味深いのは、今はなき中丸経由の存在である。ここでは目黒駅付近の経路変更を追うことにする。

開通~昭和42年

 昭和20年代から33年までの最初期は、全ての系統は目黒駅~白金台町(現、白金台五丁目)まで往復とも同じ経路を通っており、一方通行等の違いはなかった。違いが出るのは昭和33年6月のことである。このとき、[3](現在の[品93])系統の上大崎→目黒駅の間が経路変更され、現在の首都高下を通り、山手線とクロスする手前で左折して目黒駅に戻るという循環経路になった。左折するあたりには「中丸」停留所が新設された。今までより1kmほど遠回りをすることになったのだが、意図はよく分からない。住民の請願があったのか(確かにこの地域は目黒・五反田の両駅から離れており、バス路線もなかった)どうか、謎である。
 ちなみに、当時の目黒駅には[113](東京駅南口~自由ヶ丘、現[東98])系統、[71](目黒駅~東京駅北口、現[橋86])系統が通っていたが、経路変更を行ったのは[3]だけであった。また、図の通り、[113]は急行運転を行っていたため、上大崎は通過していた。(図は、上から[113]、[71]、[3])

昭和42年~43年

 まず、昭和41年に住居表示変更で上大崎中丸町の名前が消滅したため、東五反田五丁目に改称がなされた。
 そしてこの状況が変化するのが、昭和42年12月の第一次都電廃止である。城南地区の都電がまとめてバス転換され、目黒駅には新たに2路線が開通した。都電5系統の代替[505](目黒駅~永代橋、後の[黒10])と、3系統の代替[503](目黒駅・品川駅~四谷見附・飯田橋、後の[四92])である。このうち、[503]については品川駅発着が本線だったが、目黒営業所が担当することになったため、出入として目黒駅~五反田駅~品川駅~四谷見附という運転系統が設定された。
 ここでも不思議なのは、新設した[503]・[505]がいずれも上大崎・中丸を経由する設定だったことである。[503]は目黒駅を出ると五反田駅に向かわず、上大崎を経由してから首都高下を通り、[505]も上大崎からわざわざ中丸経由としたのが興味深い。そうしなければいけない運行上の理由か要請があったのかは不明だが。
 ※昭和43年2月までは都電代替は異なる系統番号をつけていたが、ここでは割愛する
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昭和43年~44年

 昭和43年12月、目黒駅周辺の目黒通りが一方通行化され、現状と同じようになる。違いは目黒駅→白金台に今のようなバス専用道路がなかったことで、目黒駅から都心方面に向かう系統は全て北側の通りを使って折り返すよう変更された。このとき、[505]系統は中丸を経由せず単純に目黒駅に行って帰ってくる経路に変更され、[503]系統は一方通行化で先に上大崎を回ってから目黒駅へと達するように経路が逆転したようだ。[113]系統は今と同じ運行方法になったが、当時は目黒駅の乗り場は山手線を越えた先、東急バスの乗り場側にあったようだ。北側の道路には上大崎停留所は設けられず、片方向停車の停留所となった。
 ここで分からないのが[3]系統の扱いで、都の資料を見る限り[505]と同じように単純に目黒に行って帰ってくる経路に変更されたが、昭和45年頃の路線図では[3]が中丸を経由しているものもあり、詳細なところは分からない。
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昭和44年~51年

 昭和44年10月の都電代替に伴う改編で、[503]は品川営業所が担当することとなり、品川駅~五反田駅~目黒駅の区間は廃止される。もしかしたら、この時点で[3]系統がもう一度中丸を経由するようになったのかもしれないが、いずれにせよ昭和45年内にはこの経路はなくなっていたことは確実だ。
 ただし、[504](後の[橋99]、五反田駅~目黒駅)の出入庫として五反田駅~目黒駅という運転が当時も行われていたとすると、このときに東五反田五丁目停留所がどうなったのかはよく分からない。[橋99]の廃止は昭和54年11月なので、このときまではもしかしたら停留所が亡霊のように残っていた可能性もある。
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昭和51年~57年

 その後、昭和51年12月の目黒駅~白金台のバス専用道の開通に伴い、目黒駅を発着する[品93]・[橋86]・[黒10]については往復とも南側の経路に戻されたが、上大崎停留所は片方向停車のままであった。昭和51年3月には[黒77](目黒駅~千駄ヶ谷駅)が開業したが、目黒駅側の経路は[橋86]と全く同じである。ちなみに、[東98]が上大崎に停車するのはもう少し後年の昭和61年頃の話である。
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昭和57年~平成10年

 昭和57年12月には、路線改編で[反96]一ノ橋循環(五反田駅~一ノ橋~赤羽橋~田町駅~五反田駅)が誕生し、目黒営業所が所管することになったため、出入庫として五反田駅~目黒駅が設定されたと考えられる。昭和54年11月で五反田駅を発着する目黒営業所の路線は一旦消滅したため復活とも言えるが、この時点では、目黒駅~五反田駅は無停車であった。その後も五反田駅発着の系統は何回かの変化があったが、一貫して目黒営業所が担当したため、この出入庫は路線図にも載らない系統として走り続けた。目黒駅の乗り場も駅前ロータリーにはなく、線路沿いの営業所脇の出入口にポールがあった。
 この系統が廃止されるのは平成10年4月のことである。港南車庫の開設時に品川営業所と担当路線交換を行うことになり、五反田駅発着路線がまとめて品川営業所に移管されたため、廃止されてしまった。今では目黒営業所自体が廃止されてしまったため、この区間に路線バスが走る可能性はあまりなさそうだ。
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▲今はなき目黒車庫の脇の出入口。門の右側に五反田行のポールがあった
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▲かつての目黒車庫出庫口(北)

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