ここ20~30年で宅地化が進み、年を追うごとにバス路線網が拡充されていく葛西駅の南側の地域。最初はたった1本の系統から始まった。江戸川区の小島から雷(いかずち)にかけては、現在の整然と縦横に区画された道の中で不自然な斜めの道路が突っ切っているが、この道がこの地域の旧道かつメインストリートだった。
1. 戦前の話
この地域のバスは、城東地区の都電を経営していた城東電軌のバス部門が昭和10年代の前半に開業したところから始まった(昭和14年にバス部門は東京地下鉄道(現在の東京メトロの母体の一つ)に譲渡)。その路線が陸上交通事業調整法により、一定エリア内のバスは全て東京市が運行することになり、昭和17年1月より運行を開始した。当初は[57]系統(洲崎~境川~浦安国民学校)という系統番号を名乗った。
この時点で小島・宇喜田・雷など、現在の停留所の名前がそのまま残っているのは興味深い。
ただし、この形態は長く続かなかった。戦争も末期に向かい、燃料は枯渇し疲弊していく中でバス路線の維持も難しくなり、段階的に縮小・廃止が行われ、停留所も路線も必要最小限に絞られた。それでも浦安乗り入れは終戦直前の昭和20年頭まで残り、境川~新田(現・葛西駅通り)は最後まで生き残った区間になったので、かなりの需要があったのだろう。何せ終戦時には都営バス全体で12路線しか残っていなかったのだから。
2. 昭和20年代の話
終戦直後より、何回かの路線の組み替えが行われた。雷方面へは基本的に亀戸駅から葛西橋を通る路線が経由したのだが、昭和22年9月のカスリーン台風で葛西橋(旧)は破壊され、一時期は[22]系統(新小岩駅~今井、現在の[新小22])が浦安橋・雷を経由して小島まで大回りしてこの地域をカバーしていたこともあった。
これが元に戻るのは昭和24年8月のことである。このとき、[29]系統(現在の[亀29])、錦糸町駅~境川~雷~浦安が開通し、[22]は新小岩駅~今井~浦安に変更され、現在の路線網の原型が作られた。しかしながらこの時点ではまだ停留所の数は少なく、宇喜田から新田までは無停車となっていた。
3. 昭和30年代の話
その後、停留所の数も年を経るごとに増えていき、昭和30年には戦前と同レベルの間隔に戻った。このうち、「東宇喜田」「葛西一丁目」については現存しないが、前者はスポーツセンターの目の前、後者は東西線とクロスするあたりにあったようだ。
しかし、[29]系統については別の問題が出てきた。葛西橋の問題である。葛西橋(旧)は現在の旧葛西橋~小島の間にかかっていたが、修復したとはいえ老朽化が進み大型バスが通るのは危険な部分もあったらしく、葛西橋の両側で折り返し運転を行い間を徒歩連絡する時代もあったようで、昭和30年代には、亀戸駅~宇喜田について、京葉交差点・船堀街道経由で迂回運転をすることが多くなっていようだ。昭和36年には経路が完全に船堀街道経由に固定され、同時に宇喜田~船堀間には安楽寺(船堀街道経由)と棒茅場経由が誕生した。後者は今の[新小21](新小岩駅~西葛西駅)のルーツとなる路線である。
▲昭和35年10月現在
4. 昭和40年代の話
▲昭和49年2月現在
葛西地域を通るのが[22]と[29]の2系統だけという状況が変わるのが、昭和38年11月の新葛西橋の開通と昭和44年3月の東西線開業、そして昭和47年10月の葛西車庫開設である。新葛西橋の開通により、[29]系統は新葛西橋経由に切り替わったが、同時に小島を経由しなくなる補償もあったのか[22丙]新小岩駅~小島~宇喜田~浦安が開通(現在の[新小21])、東西線の開業で三角止まりであった[15][34](それぞれ現在の[錦25][平23])系統が葛西駅に延長、そして葛西車庫の開設で葛西橋止まりの[26](現在の[秋26])が葛西車庫まで延長された。ちなみに葛西駅の部分は環七が未開通だったため、往復とも共栄橋(今の[平23][錦25]の葛西中学校からそのまま道なりに南下した道)から旧道経由で回っていた。開通したばかりの葛西駅ターミナルは今とは比べ物にならないくらい小さなターミナルで、宇喜田~雷の旧市街地を除き辺りは区画整理だけされた荒涼とした土埃舞う終点だったという。
相変わらず東西線より南側に行く系統は[29]の1系統だけであったが、昭和48年9月に新田から先、新田終点(現、新田)まで伸びる枝線が誕生する。これが現在の[亀29]の本線である。なお、新田終点には、同時に旧[新小20](東新小岩四丁目~行船公園~新田)も延長されている。
5. 昭和50年代前半の話
昭和50年12月には[新小29](葛西駅~東新小岩四丁目)が開通して環七部分にバスが引かれ、昭和51年9月には[亀29]が新田終点から先、堀江町(現、堀江団地)まで延伸。昭和52年3月には旧[新小20]を廃止して、西葛西地域を回る[葛西20](葛西駅~新田~堀江町(新)(現、なぎさニュータウン))が開通したが、何といっても大きなトピックは浦安からの撤退だろう。東西線が開通して浦安駅が開業した後は千葉県に乗り入れる必然性が薄いということになったのか、まず昭和48年9月に[東28](東京駅北口~京葉交差点~今井~浦安)が今井までに短縮、昭和50年8月に[新小22]が現在と同じ新小岩駅~今井~葛西駅に短縮され、浦安側は[浦22]浦安→新川口→環七→今井→浦安という循環路線に分割された。
しかし、設定に必然性のほとんどない[浦22]は乗客が非常に少なく、また浦安橋の改修が完成し、取り付け道路が立派になったために雷・今井側の土手沿いから直接浦安橋に抜けられなくなるため、昭和53年11月限りで浦安からは都営バスは全て撤退することになった。最後まで浦安に乗り入れていた路線は[新小21][浦22][亀29]の3路線だったが、[新小21]は葛西駅止まりに、[浦22]は葛西駅~長島新道~浦安橋経由の環七・今井循環に、そして[亀29]は浦安橋を左折して長島新道経由の葛西駅止まりとなり、かなり大回りの路線設定となった。
6. 昭和50年代後半の話
▲昭和56年12月現在
もう一つ、昭和50年代の大きな出来事が西葛西駅の開業である。昭和54年10月に西葛西駅が開業すると、まず[新小21]が西葛西駅発着に変更され、[葛西20]は西葛西六丁目~第七葛西小学校で西葛西駅を発着するように変更され、西葛西駅~堀江町折り返しが主流になる。
そして、[亀29]が経路変更されるのはその8ヶ月後、昭和55年6月のことである。宇喜田から西葛西駅を経由して葛西駅通りに至る現行の経路に変更され、東宇喜田・葛西一丁目の各停留所は廃止され、葛西駅通りの停留所は新道上に移設された。さらに新田方面の枝線がなぎさニュータウンまで延長され、現行の路線が完成した。葛西駅附近でも環七が開通し、昭和56年頃から葛西駅から北向きに出る系統は現在と同じ環七経由に改められた。
雷・仲町付近では経路変更などは特になく、相変わらず[亀29]が走っていることには変わりがなかった。これが変わるのが、昭和61年9月の都営新宿線篠崎開業のことである。このときには一之江・瑞江・篠崎の各駅が誕生し、都営バスでも改編が行われた。この時槍玉に上がったのが[葛西22]で、葛西駅と今井・一之江地域を循環してくる路線形態ではただでさえ少ない乗客がもっと少なくなってしまうことも予想された。そこで、葛西駅から今までとは逆に南に出て、雷・浦安橋・今井を回り、一之江駅を終点とする現行の形態に改め、どちらかというと長距離を走る[亀29]の雷経由の本線を大幅に減回することとした。昭和62年のデータでは平日12往復、休日8往復とおまけレベルの本数に落ち込んでいる。この時期は唯一雷に2系統が走った時期でもあり、両方向に葛西駅ゆきが走っているという面白い状態でもあった。
また、昭和58年12月には[葛西24]葛西駅~なぎさニュータウンが、昭和59年6月には[西葛27]西葛西駅~陸上競技場がそれぞれ開通し、昭和62年5月には臨海営業所が開所し、東西線より南側の路線網が大きく充実していく時代でもあった。ちなみに前述の葛西駅近辺の道路であるが、昭和59年11月には往復とも環七経由に変更され、現在と同じルートになった。
7. そして現在へ……
▲平成3年1月現在
[亀29]の状況が最終的に変わったのは、平成2年3月のことである。平成元年度には五月雨式にさまざまな路線改編を行ったが、[亀29]の本線も廃止対象に入り、3月をもって葛西駅ゆきの本線は廃止され、枝線のなぎさニュータウンゆきのみ残る結果となった。長島新道・長島橋の各停留所は廃止され、葛西駅通り~仲町西組の路線はなくなり、雷地域を走る路線は[葛西22]のみとなった。以来、葛西駅より東側の部分を走る路線は[葛西22]だけとなっている。近年の平成11年になって、雷方面の南側をカバーする[葛西21](葛西駅~葛西臨海公園駅)が開通したものの、北側に関しては特に変化がないままとなっており、長島地区はややバスが不便な状態となっている。今後も何か変化が出てくることはあるのだろうか……。