都営バス資料館

江北橋と豊島橋と

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▲平成初期の豊島橋[tomi]

 [王45](王子駅~北千住駅)は隅田川と荒川放水路に囲まれたエリアを走る系統だが、その途中に「豊島橋」という停留所がある(写真)。豊島橋といえば豊島五丁目団地と宮城二丁目の間を結ぶ隅田川に架かる橋で、大幹線の[王40](池袋駅東口~西新井駅)が通っているが、当の豊島橋バス停とは相当離れている上、土手通りの切り通しの中にあり目立たず、付近はほとんどが川沿いの緑地ということもあって利用人数は1日に一桁だろうという停留所だ。なぜここが豊島橋と名乗っているのかを追ってみると、かつてはジャンクションだった歴史が浮かんでくる。今回はこの辺りの変遷を追ってみることにする。
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▲豊島橋停留所

両方とも旧橋の時代

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▲宮城付近の路線図(昭和35年)

 そもそも結論から言うと、橋の架け替わりがあったためである。古い橋だと交通量の増加に耐えられなかったり、老朽化したりで架け替えられることもあるが、隅田川の豊島橋と荒川放水路の江北橋はどちらも架け替わった際に、数百メートル位置が移動したのが原因である。
 まず最初の図は昭和35年現在。このとき、宮城付近を走る系統は[10](池袋駅東口~西新井駅、後の[王40])、[17](東京駅北口~西新井駅、後の[東43])、[73](王子駅~足立区役所、後の[王45])と荒川放水路の北側の土手を走る[118](東京駅八重洲口~浅草雷門~川口駅)の4系統が存在した。豊島橋も江北橋も旧橋で、いずれも現在の位置より上流側に架かっていた。豊島橋は木造橋で、末期は老朽化が進んでいたようだ。
 当時は[10]は豊島五丁目を出た後、現在は団地になっている日産化学の工場を左手に見ながら土手を回り込み、しばらく進んだところにあった豊島橋を渡っていた。渡りきると豊島橋の停留所があった。現在は土手通りのトンネルの出入口になっている辺りである。江北橋はさらに上流側に架かっており、(旧)江北橋を渡ったところには「荒川土手下」停留所があった。橋への取り付け道路の所にあったようで、西新井方面のみの停車だった。土手下を走る[118]はそちらには停まらず、すぐ近くにあったと思われる「江北橋」停留所に停車していた。
 当時はもう一つ現在と異なる点がある。[73]が宮城地区で土手通りを走らず、宮城小学校から住宅・工場街を経由して小台町に抜けていた点である。当時はここを[10]が通っていなかったので、王子方面への足の確保として大回りしていたのかもしれない。

豊島橋が切り替わる

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▲昭和40年の路線図

 昭和38年8月、2代目の豊島橋がほぼ現在の位置に架かる。それとともに経路変更が行われ、[10]については豊島五丁目から直進するように宮城町(新設、現宮城二丁目)に抜け、土手通りに入り豊島橋停留所を経由するよう変更された。このとき、現在の宮城土手上停留所の辺りにあった宮城町ゴルフ場停留所が消えている。この時点で豊島橋バス停と豊島橋そのものは離れてしまったが、適当な停留所名もなかったのか、そのままになった。

江北橋が切り替わる

 次いで昭和41年12月、江北橋も新橋に架け替わり、同時に経路変更を行った。宮城町から直進するように江北橋を渡り、左折して土手下の道路に下りるというものである。[10][17]が経路変更され、「荒川土手下」停留所は廃止され、[118]の停車していた江北橋停留所に統合された。現在はこの部分の停留所名が、江北橋は荒川土手に、荒川土手は荒川土手操車所にそれぞれ変更されている。同時に[73]は土手通りを直進するようになり、現在とほぼ同じ経路になった。「宮城町土手上」停留所が正確な時期は不明であるものの、この時期に増設されている。経路変更と同時と思われる。
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▲昭和44年の路線図
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▲現在の江北橋を渡る[tomi]

 ちなみに昭和41年9月には[10乙](王子駅~宮城町都営住宅循環)が開通したこともあり、[10]本線と合わせて宮城地区には少し前と比べるとバスの便がかなり充実することとなった。なお、[118]については昭和46年11月に廃止されている。

現在の江北橋下の話

 上が現在の路線図である。豊島六丁目の増設や豊島五丁目団地の開設による需要の増大、[王40]豊島循環の開設などの変化はあるが、ここではそれ以外のポイントとして荒川土手側の変化を述べておこう。
 今までの図にあるとおり、現在の荒川土手は江北橋、荒川土手操車所が荒川土手という名称だった。といっても改称は同時ではなく、荒川土手→荒川土手操車所は昭和48年頃なのに対し、江北橋→荒川土手は昭和57年と開きがある。
 もう一つは江北橋下停留所の存在が挙げられる。こちらは荒川土手を出た後、取り付け道路から江北橋に入らず、扇二丁目の信号手前でUターンする場所があるのだが、そこに江北橋下停留所が設けられている。元々は昭和61年頃より首都高中央環状線と下道の建設等で取りつけ道路が工事となり従来の経路が取れなくなったため、[王40][東43]は迂回するルートとなり、そのときに乗客サービスとして迂回路上に臨時停留所を設置していたものであるが、工事終了後もそのまま残り、朝の便のみ停車するようになった。その後、平成15年に[王46](王子駅~加賀団地)が開通し、朝のみ江北橋下経由の運転を開始すると[王40]の江北橋下経由は土曜・休日のみとなり、平成18年1月の[王46]経路変更によって尾久橋通りに抜ける新道上に江北橋下停留所が新設されると、従来の江北橋下経由は[東43]のみとなった。ちなみにこの2つの江北橋下停留所は結構離れており、注意が必要である。それも平成22年4月に廃止され、[王46]も平成24年4月に廃止されたため、現在は「江北橋下」には停まらなくなった。

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▲平成18年の路線図

 江北橋下といえば、現在の荒川土手停留所には江北橋下の副名称がついており、荒川土手行きの方向幕にはもれなく(江北橋下)という表記がある。荒川土手行きではどこの荒川の土手なのだか分からないという配慮かもしれないが、江北橋下という停留所は既に存在するだけに、幾分奇異に感じる。(江北橋)でも良さそうに感じるが。
 なお、荒川土手発の場合は荒川土手操車所発となるため、始発と終着で停留所がずれているのも特徴である。いつ頃からこういう形態になったのかは定かではないが、少なくとも停留所が現在の名前になった昭和50年代後半からは現在と同じように運転されている。今となっては操車所まで営業運転してもよさそうだが、何かの事情があるのだろうか。

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