現在は江東区を東西に走る路線として、通勤・通学に利用されている[秋26](秋葉原駅~葛西駅、昭和47年以前は[26]系統)。しかし、かつては行楽系統という別の顔も持っていた。[秋26]の終点といえば秋葉原駅で、中央通りから電気街口に入りサトームセン前で発着していたのは記憶に新しいが、昭和35年からは休日に限り秋葉原駅からさらに先まで延長されていた。
秋葉原から上野駅まで中央通りを進み、そのまま今の首都高の下を通ってJRをまたぐ橋(両大師橋)を渡って上野の山に入ったところで「科学博物館」停留所。さらに直進し、「国立博物館」「東京都美術館」と続く。黒田清輝記念館の角を右折し、国際こども図書館(元国会図書館分館)を脇に見ながら「寛永寺」、そして芸大音楽学部のブロックの裏手、今の[上26](上野公園~亀戸駅)の走る言問通りから一本入ったところの路上に「上野桜木町」、そして左折して芸大の門近くに「東京藝術大学」があった。一周すればそこは「東京都美術館」、ここから先は普通に来た道を戻っていたらしい。上野駅~科学博物館の間は、一方通行の関係で往復の経路が異なっていたようだ。行き先表示は「上野公園」行きという扱いだった。不忍池脇の上野公園停留所と混同しそうだが、方面からいって誤乗する可能性も少ないと思われたのだろう。
こんなところに大型のバスが走っていたのかとも思うが、少なくとも10年はこの乗り入れは続いたようだ。当時はレジャーにおける上野の地位が今よりも高く、これを走らせる意味もあったのだろう。昭和40年代前半には秋葉原駅~上野広小路が無停車だったのが外神田三丁目・外神田五丁目に停車するようになった。上図は昭和44年の路線図だが、この後の消息はぷっつりと途絶える。書類上は昭和54年11月まで残っていたことになっているのだが、これ以降は路線図から無視されっぱなしである。
昭和46年の車内掲示の路線図では[26]系統は秋葉原駅止まりとなっており、この時期には休止になっていた公算が高い。ちょうどこの時期は中央通りの歩行者天国と各系統のワンマン化(この経路で大型バスをワンマンで通すにはかなりムリがありそうだ)が行われた頃で、これらが契機になったとも考えられる。
このように尻切れトンボのように終わってしまった上野公園乗り入れ。以後30年以上、路線バスとは縁のない地域であったが、コミュニティバスブームに乗ってもう一度路線バスが通る日がやって来た。台東区コミュニティバス「めぐりん」の3路線目、「東西めぐりん」が上野公園を横断するように路線が設定され、上野駅から東京芸大までの区間はほぼそのまま路線が復活した。ただし、停留所はかなり集約されており、科学博物館・都美術館はなくなり国立博物館前だけになっている。裏を返せば、昭和30年代にしては珍しく停留所を密に(200m間隔くらい)設置したということで、こまめに乗客を拾おうとした意志がうかがえる。