現在、車輛の前面および背面には、前ページで説明した局番(年度の文字+数字3桁のみ)が掲示されている。多くはプラスチックのプレートを吊り下げる局番札の形式だが、この局番号の表示の仕方については年度によって様々に変わってきた。現在は当たり前のように取り付けられているが、実は様々な変遷を経て現在に至っているのである。これについて少し紐解いていこう。
▲M419 [上] |
▲X627 [oka] |
まず、背面局番札から見ていこう。この背面局番札が取り付けられるようになったのは旧B代(昭和49年度)後期の車からである。この番号形式を制定したときからB代前期までは、リアウィンドウの外側に直接白いシールで貼り付けられていた。シール状だったために風雨にさらされて途中で剥がれたりすることが多く、その度に張り替えを行っていた。また、剥がれた文字のみ貼り替えるので、それぞれの文字の色が真っ白だったり、汚れて変色しているものがあったりと美しくなくなるケースが多々あった。
▲B代後期 [oka] |
▲B代中期まで [oka] |
そこで、これらの問題点を解決する為登場したのが背面の局番札である。その後、車体メーカーによる形状の違いや取り付け方法など違いはあるものの、同じ形式でC代(平成8年度)車まで取り付けられた。しかし、札形式はコストがかかるということか、導入コスト削減の対象になり、翌年度導入のD代(平成9年度)より車体に直接局番を貼り付けするように変わった。
しかしその後、車体全面を使うラッピング広告が行われることになり、ラッピングを張り替えるたびに局番号をラッピングに入れる手間や、ラッピングのデザインで局番号の位置が定まらないなどの問題点が考えらたため、中央区購入分を除くH代(平成13年度)より再び局番札が復活した。その際、三菱車を除く3車種は札が小さくなり、取り付け位置が導入時期や車種によって異なるようになった。さらにK代(平成14年度)のいすゞ車では札が再び廃止され、リアウインドウ左下に局番号が貼り付けられるようになった。他3メーカーについては基本的に小さいながら札形式である。
さて、次に前面局番札について見てみよう。前面については後面ほど変化はない。そもそも全車に取り付けられる事になったのは、歴史が浅くV代(平成元年度)の後期車からである。それまでは、北営業所の車以外には前面の札がなかった。
ここでまず、何故北だけ付いていたかを紐解いてみよう。その鍵は、北の全身である滝野川と閉所になった志村にある。滝野川の担当系統は現在もドル箱路線の [王40](池袋駅東口~西新井駅)を中心に受け持ち、車庫自体が[王40]の沿線にあった。当時の[王40]は車庫前の停留所で乗務員交代を行っていたが、当時はかなり珍しいものだった。滝野川は車輛の余裕もあまりなく、組数が多い[王40]で入出庫を繰り返すのも非効率だったのだろう。また、[王40]は間隔が短いため遅れるとダンゴ状態になってしまうほか、[草63]などの併走系統もあり乗務員が交代で乗る車をすぐに判別できるようにと前面にも取り付けられたのである。志村の場合も、担当系統と車庫が離れているという事情から王子駅での交代が多く、同じ理由でつけられた。この習慣を引き継ぎ、北になった後も受け継がれたのである。
また、全車に取り付けられるようになったV代後期車以降も車種・導入年により形態が異なるのはもちろんのこと、練馬や臨海等ではV代前期以前の車輛にも遡って札が取り付けられた。しかし、お手製のものだったためにこれまた様々なバリエーションがあった。例えば、臨海の車はワンマン表示の緑色の表示板を再利用したり、練馬の車では廃車になった後面局番号札を再利用したりというもので、練馬のV代前期車の前面局番札ではうっすらとP代前期の局番号が透けて見えるというものもあった。