都営バスが積極的に取り組んだうちの一つが低公害化である。昭和40年代に深刻化した都市部の排気ガス等による公害対策として始まった電気ハイブリッドバスに端を発するが、当時は芳しい成果を上げることができなかった。
電気式ハイブリッドバスはディーゼルエンジンと鉛蓄電池を併用し、小型ディーゼルエンジンによって交流発電機を作動させ、その発電した電力で駆動するバスである。外部から充電して動力を得る電気バスとは思想が異なり、自力で発電して充電するというシステムあであった。すなわち、同じような名前であるが現在も運行を行っている日野のHIMR等のハイブリッドバスとも異なる。
昭和40年代に入って光化学スモッグや大気汚染等の公害がクローズアップされ、対策が重要となってくる中で低公害バスの開発が重要視された。他大都市の交通局が電気バスを低公害バスとして運行させる中、東京都は川崎重工・古河電池のハイブリッド技術の考えに乗り、電気式ハイブリッド車の実用試験運行を開始することになった。
いすゞの小型エンジンC330(43ps、排気量3,318cc)によって27kVA(380V・41A)の交流発電機を動かし、また充電装置としては420Vのクラッド式鉛蓄電池が並列に接続され、それが制御装置を経て電動機(連続定格67KW・400W・189A)でバスを動かす仕組みになっており、当時の技術を集めて作られた。一酸化炭素・炭化水素は少なく、窒素酸化物は1/3以下になるという触れ込みであった。
当時のワンマン化の流れを受け、都営バスでは車掌関連の設備がない初のワンマン専用車となった。4輛(Z700~703)が川重ボディで製造され、昭和47年10月25日に都知事を迎えて旧都庁から皇居を一周する試乗会を行い、11月12日より運転を開始した。車体の4面(前面の局紋位置、中扉左横、中央非常口右横、背面左下)に専用のひまわりのマークを大きく掲げて運行を行った。
▲ハイブリッドバス透視図(交通局発行のパンフレット「ハイブリッド電気式バス」より)
しかしながら、当時はハイブリッドバスという概念が一般的ではなく、運行開始後も順風満帆とは行かなかった。事前の試算よりもエネルギーを消費してしまうことが分かり、低公害という面でもNOx(窒素酸化物)の排出量等が目標値を下回っていた。
発電用エンジンの騒音が甲高かったのも特徴であった。住宅街用に、ディーゼルエンジンを回さず蓄電した電力のみで運行することも可能であったが、予想よりも補助エンジンを用いて充電しながら走行する割合が高く、信号待ちの時に周囲の車がアイドリングしている中で充電のためにエンジンがフル回転しながら高音を出しているのは奇異な姿だったという。
公害対策としては有効な一面を見せたものの、コストの問題は大きく、車輌価格は一般ディーゼル車の3倍、また高価格なバッテリーも交換する必要が生じるなど、動力費では一般車の4.3倍かかった。また、故障にも泣かされた車輌であり、保守が大変ということで昭和51年10月には2輌が除籍(Z700,702)され、残った2両の部品取り用にされていたが、残る2輌もバッテリーの寿命が尽きてしまい、昭和53年3月限りで運行を終了することなった。
非常にエポックメイキングな思想を持った車であったが、低公害であってもコストや使い勝手が優れているものでなければ継続使用は難しいという教訓を残した。バッテリーを活用した低公害バスがもう一度都営バスに現れるのは、X代(平成3年度)のHIMRまで待たなければならなかった。