都営バス資料館

営業所の歴史と変遷図

1 都営バス事業の起こり

大正12年9月1日、南関東一帯を大地震が襲い、東京・神奈川一帯に大きな被害をもたらした。公共交通機関もその例外ではなく、東京の市電も各地で甚大な打撃を受けた。復旧には多大なる日数がかかると予想され、東京市民の足の確保のために臨時措置として路線バスを運行したのが現在の都営バスの始まりである。
開設まではスピーディーに進み、大震災の一月後には200万円の予算を承認、車の発注、職員の募集、省庁の認可を、翌年1月18日に新坂町(現在の赤坂八丁目付近)・上富士の2出張所を開設し、44輌、巣鴨・中渋谷~東京駅の2系統で運行を開始した。このバスは応急ながらも好評をもって迎えられ、円太郎という愛称で親しまれた。
その後も2月・3月と五月雨式に開通し、二ヵ月後の3月16日には予定線が全線開通し、800輌、20系統という陣容になった。この間、1月28日に大塚と権田原派出所が、そして3月16日には桜田門出張所と横網・三ノ輪・目黒の3派出所が開設され、計8ヶ所となった。桜田門には、有楽町の本局(当時は東京市電気局)が震災で消失したために避難した仮本庁舎があり、ここに併設した営業所を出張所、他の施設を派出所と称していた。
大きな事業になった市営バスだが、市電の復旧も進み、乗車人員も頭打ちになり、臨時認可の期限も7月末と迫っていたこともあって参事会は廃止を可決したが、多額の金をすでにバスに使っていたことや、市民にすっかり定着したこともあって存続運動が起き、結局7月26日に存続が決定。8月1日より段階的に系統を整理し、同時に拠点も整理して、大塚を上富士に、新坂町と権田原を桜田門に、三ノ輪を横網に統合し、1出張所3派出所の陣容になった。なお、翌14年6月2日より、出張所・派出所の名称を出張所に統一し、全4出張所に変更した。また、この年に上富士を駒込に、また横網を業平に移転改称している。

2 存続決定後の事業拡張

存続を決めた後、2ヵ年事業計画に基づき、車庫の増設や改築、車輌の新規購入を行うことになり、驚異的なスピードで事業の規模を拡大していった。昭和3年には全ての派出所が新しい土地に移ることになり、駒込は大塚に、桜田門は渋谷と新宿に、業平は新谷町に、また目黒は浜松町に移転改称を行った。現在の営業所群の原形はこのときに出来上がったのである。
昭和4年以降は世界恐慌による大不況の中、当時東京市に路線を走らせていた青バス(地下鉄バス)との競争は、運賃競争を始めとして市電まで巻き込んだ苛烈なものだった。その中で、5つの営業所を増設し、新路線網を築くという昭和4年~10年度までの継続7ヵ年事業が決まった。赤字傾向の中で事業計画は延期を余儀なくされるが、昭和9年には目黒営業所を新設して渋谷を増築、また10年には千住が、12年には小滝橋が開設された。昭和9年には黒字基調となり、「乗合自動車時代来る」と高らかに謳われた。ちなみに、昭和5年8月27日より、出張所という呼び名を廃し、全て「営業所」と称するようになった。
しかし、このころから国内外の情勢に暗雲が立ち込める。昭和12年7月の盧溝橋事件の勃発後、国は戦時体制に入りつつあった。戦時特需で輸送量は増加したものの、ガソリンの統制で昭和13年より木炭改造車が導入され、また輸入車の禁止で外国車に代わって日産・トヨタなどのメーカーが台頭した。
燃料の統制で総輸送力は落とさざるを得なかったが、戦争が本格的に始まるとともに工場などへの輸送需要は増え続け、その部分の輸送力を維持するためにラッシュ時の急行運転や、市電と重複するバスの終車を繰り上げたり、多数の停留所を廃止した。この昭和16年に、用地買収難で開設が延びに延びた大島営業所が開所している。運転キロ数は昭和12年をピークとして、以降昭和17年まで漸減し続けたものの、人員・収入は横ばいを維持した。この結果、乗客の混雑は日を追うごとに激しくなっていった。
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3 陸調法によるエリア拡大と戦禍

昭和17年2月1日には、陸上交通事業者調整法(陸調法)に基づいて乱立するバス会社をエリアごとに区切って一元化することになり、東京市バスのエリア内では、全線で競合していた青バスを始め、大東京遊覧(観光のみ)、城東バス、東京環状、王電バスの全部を、また葛飾乗合、京王バス、東横バス(後の東急バス)の一部を統合した。その結果、営業所では青バスの品川・堀之内・江東・東荒川・淀橋が、東京環状の練馬が、王電バスの王子(滝野川)が、また本局が数ヶ月前に分車庫として増設した青山が新たに市営の営業所として加わった。もっとも、淀橋については新宿営業所と隣り合っていたこともあって、直後に吸収されている。また、王子についてであるが、実態は車庫が滝野川に、営業所本体は住所の上では王子にあったという可能性が高い。
このことで一旦輸送実績はピークを迎えるが、それもつかの間のことであった。軍需産業への輸送需要のため、一般系統の中休化や急行運転、短縮廃止が行われていく。昭和18年には工員バスが特定路線として開通し、さらに貨物の輸送が至上命令だったこともあってバスを貨物トラックに改造された結果、市電との並行区間は軒並み休止され、規模が大幅に縮小した。なお、昭和18年7月1日に都制が施行され、東京市電気局は東京都交通局に改称されている。
これ以降は輸送力は落ちる一方であり、系統は幾度かの大整理が行われる。営業所でも、昭和17年9月16日に青山が渋谷に再統合、昭和19年3月28日に洲崎が、11月20日に王子が廃止され、19日には滝野川が分車庫に格下げされ、同年に東荒川も廃止された。昭和20年に入ると大空襲で大きな損害を受け、実働車輌は100輌を切っていた。4月には戦災で浜松町と大島が廃止、6月1日には目黒も廃止され、6月16日の戦時中最後の系統大整理でついに12系統まで減らされ、小滝橋・練馬・新谷町も分車庫化された。営業所は渋谷・新宿・大塚・千住・堀ノ内・江東の6つが残るのみとなり、終戦を迎えた。
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4 終戦、そして復興

終戦後は、東京の復興とともに輸送力の増強が最重要視された。新車の購入もままならなかったが、昭和21年3月15日には輸送力の増強を行う系統改編を行い、4月1日には浜松町営業所が米軍に接収されて廃止、同時に戦災で大きな被害を受けた浜松町も廃止される代わりに小滝橋・練馬・新谷町が営業所の地位に復活した。米軍から払い下げられたトラック・トレーラー(GMC車)の助けも得て、路線網を少しずつ拡大していく。
昭和22年には激増する郊外~都心間の通勤通学需要によって電車の混雑を少しでも緩和することに応え、またGHQが強く薦めたこともあって、民営バスと相互乗入する方式で7系統が開通した。これと同時に品川営業所が復活して10営業所体制となり、その後も相互乗入路線は好評をもって迎えられ、5年間で30に及ぶ系統が開通した。
昭和24年には洲崎・滝野川・東荒川の各営業所が復活して江東・江戸川区方面への路線も拡充が図られていき、また多摩地域の振興を目的として、同年で都営単独で荻窪駅~青梅(車庫)間が開通して青梅支所が、また新宿駅~八王子駅の開通で八王子支所が開設されている
これ以降は概観のみ記そう。昭和30年代後半までは都電とともに都市交通の中で覇権を握っていた。昭和30年には目黒営業所が復興、昭和34年にはさらなる郊外への拡張を目指して志村・青戸の各車庫が増設、手狭になった東荒川は江戸川に移転し、洲崎は東雲に分車庫を設けた。

5 財政再建と営業所のスクラップ&ビルド

昭和40年代は旧来の路線が渋滞と定時性の低下、また地下鉄網の拡充で乗客が減って赤字に陥り、大幅な系統改編を含む再建策を実施した。しかし都電・トロリーバスをバス転換され、青山・巣鴨・昭和町・戸山・今井がバスの車庫になり、また城東の都電代替を持つために葛西が開所して規模はむしろ大きくなったことから、赤字体質は改善しなかった。
 再編とともに営業所の整理統合も行われ、いくつかの都電跡地を恒久的なバスの車庫として使うようにし、あとは都営住宅や公共施設へと転換した。広大な敷地だった青山は渋谷と一時期並存し、昭和44~47年は渋谷の建て替えで青山を渋谷営業所と名乗ったものの再び分離、昭和52年に廃止された。昭和46年には戸山支所が都電跡の早稲田に、昭和55年には昭和町と滝野川を統合して北に新設移転、昭和57年には板橋区域の撤退により志村が閉所し、北・杉並に残った路線が振り分けられた。他に老朽化による新たな土地への移転としては、昭和43年の洲崎・東雲を統合して深川に移転や、昭和50年の新谷町を都電跡の南千住に移転が挙げられる。なお、南千住の敷地はそれ以前にも千住の分車庫として一時期使われていた。
 また、著しい不採算だった青梅・八王子地区の路線は自治体の公共負担を前提として存続することとなり、負担の同意が得られなかった八王子については昭和60年に一般路線を廃止(特定輸送の車庫として昭和61年度まで存続)した。昭和62年には手狭だった今井・江戸川をまとめて江戸川区南部に移転し、臨海が開所した。

6 大江戸線改編に伴う縮小・はとバス委託と、臨海部の拡張

 昭和60年代に入ると都市新バスを始めとするバス復権策により収支はようやく改善し、様々なレジャー路線が試みられるなどバブル期はひと時の春だった。しかし、バブル崩壊後の長期的な乗客数低下と南北線・三田線・大江戸線といった地下鉄の開通により乗客がさらに流出した。
 お台場の発展を見据えて平成初期に目黒から臨海部の港南へと移転を画策するもなかなか実行に移されず、平成10年に営業所格の広さながら港南分駐所としてオープンした。この時は目黒本体も残っていた。
 平成11年には所管規模の小さい練馬が支所に降格、さらに平成12年の大江戸線改編では影響を受ける目黒・新宿・杉並が支所になった。さらに平成15年には目黒が分駐所になり、平成17年には完全に閉鎖して代わりに港南を支所に格上げした。平成18年には新宿も分駐所格に落ちている。
 同時期の平成15年度より、運営の効率化を目的として車庫単位で運行をはとバスに委託することとなった。最初は杉並が選ばれ、平成16年度から臨海が、平成18年度から青戸が、平成20年度から港南が、平成21年度から新宿が委託されている(青戸のみ、平成18年度の1年間は直営の青戸分駐所が同居)。委託車庫は全て支所格となり、不採算路線を中心に各地から移管された。臨海は隣接する葛西と大幅な所管の持ち替えがあり、委託と同時に葛西は直営の江戸川(新)として名を新たに再スタートを切った。
 また、直営でも大塚の敷地再開発をにらんで巣鴨を中核営業所として残すことになり、平成20年度に大塚は支所になり、順次路線が移管されていった。平成27年3月をもって閉鎖され、最も古いまま残った営業所が姿を消した。
 大塚の閉所で長らく維持された19の営業所・支所(一時期の分駐所化を含む)から1つ減ったが、東日本大震災前後を底として、都心回帰による乗客数の伸びが目立つようになり、平成32年の東京オリンピック・パラリンピックを控えて再び積極策に出ようとしている。有明地区に新しい営業所を作ることが公表されており、平成32年春から営業開始予定となっている。果たして何の営業所を名乗るだろうか。

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支…支所化、分…分車庫・分駐所化 委…はとバス委託(右端の灰色も同様) (支)の点線は親営業所・子支所の結びつきを指す
分駐所は港南・新宿・青戸・船堀・東小松川、分車庫は左記以外。
営業所の文字は分車庫・分駐所の場合は親営業所の文字を名乗る

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