都営バス資料館

宿74・宿75

[宿74][宿75]←[宿74]←[74]

担当営業所

新宿支所

運行区間・運行回数

系統・枝番 起点、経由地、終点           備考 キロ程(往/復) 平日 土曜 休日
宿74 新宿駅西口~東新宿駅~戸山町~東京女子医大 3.525km 44 45 37 38 31 32
宿74出入 新宿車庫~中央公園~新宿駅西口 1.600km 10 11 9 10 7 6
宿75 6 6 6 6 6 6
宿75折返 29 29 23 23 26 26
宿75出入 9 7 8 7 8 6


現在

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要               
74 S35.12.26 小滝橋 2.862km 新宿駅西口~新宿区役所~東大久保(現抜弁天)~東京女子医大が開通
74 S36.11. 1 小滝橋 7.242km 新宿駅西口~東大久保~東京女子医大~牛込柳町~戸山町~新宿駅西口に延長
74 S42. 7. 1 小滝橋 6.505km 新宿駅西口~東大久保~東京女子医大~戸山町~新宿駅西口に短縮
74 S43. 9.27 新宿 6.505km 新宿に移管
74 S44以前 新宿  *** 新宿駅西口~統計局を開設
74甲 S45. 8.14 新宿 6.505km 新宿駅西口→東大久保→東京女子医大→戸山町→新宿区役所→新宿駅西口を[74甲]、新宿駅西口→戸山町→東京女子医大→新田裏(現日清食品)→新宿駅西口を[74乙]とする
74乙 6.435km [74乙]の復路は文化センター通り(都電専用軌道跡)経由に変更
宿74 S47.11.12 新宿 *** 新番号化、宿74とする
宿74甲 S51. 2. 1 新宿 6.385km 復路の新宿駅方面を新宿区役所経由から文化センター通り経由に変更
宿74 S54.12.27 新宿 *** 夜間のみ、歌舞伎町→大久保1を新宿区役所経由から新田裏経由に変更
宿74乙 S61. 8. 1 新宿 6.385km 抜弁天→新田裏を文化センター通り経由から大久保1(現東新宿駅)経由に変更
宿74甲 H 8. 3.30 新宿 6.265km 歌舞伎町→大久保1を新宿区役所経由から日清食品経由に変更
宿74乙 6.265km
宿74甲 H10. 3.30 新宿 2.975km 区間を整理、新宿駅西口~日清食品~抜弁天~東京女子医大を[宿74甲]とする
宿74乙 3.525km 新宿駅西口~日清食品~戸山町~東京女子医大を[宿74乙]とする
(出入01) H12.12.12 新宿 1.300km 新宿駅西口~西参道~新宿車庫を[出入01]とする
(出入02) H12.12.12 新宿 1.600km 新宿駅西口~中央公園~新宿車庫を[出入02]とする
宿74 H12.12 新宿 *** 新宿駅西口~統計局を廃止
宿75 H14. 2.25 新宿 7.140km 新宿駅西口~三宅坂が開通
(出入01) H15.11. 4 新宿 1.300/ 1.800km 新宿駅西口降車停留所を新宿駅西口中央通りに改称、新宿駅西口中央通り→新宿駅西口(新)を延長
宿74・75 H16. 4. 1 新宿 *** 新宿駅西口~抜弁天~東京女子医大の系統番号を[宿75]とする。新宿駅西口~西参道~新宿車庫を[宿75出入]、新宿駅西口~中央公園~新宿車庫を[宿74出入]とする
宿74・75 H18. 4. 1 (新宿) *** 新宿支所を新宿分駐所に格下げ
宿74・75 H21. 4. 1 新宿 *** 新宿支所に変更、はとバスに運行を委託

路線概要

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 新宿駅西口と東京女子医大を結ぶ短距離路線である。途中の経路は国立国際医療研究センター(戸山町)経由と抜弁天経由の2つがあり、現在は前者を[宿74]、後者を[宿75]としている。[宿75]については、東京女子医大から先、四谷駅経由で三宅坂まで足を延ばす便が昼間のみ運行されている。
 新宿駅西口の乗り場は小田急ハルク(現在はビックカメラ)の建物の目の前にある。バスターミナルの島中にはないこと、戸山町経由・抜弁天経由でポールが異なっているのは昔から変わりがない。
 バスは新宿駅西口を出ると大ガードをくぐり、靖国通りを直進して歌舞伎町に停車する。夕方から夜にかけては駐車車輌でバス停に付けるのも一苦労となる。
 新宿五丁目の先で明治通りを左折し、花園神社の前を通って日清食品前に出る。かつては小字の名を遺す新田裏という停留所名であったが、この名も記憶の彼方になってしまった。なお、新宿駅西口行きに関しては新宿五丁目交差点が右折禁止のため、新宿五丁目~日清食品の経路が多少異なっている。
 そのまま明治通りを進むと、東新宿駅。地下鉄大江戸線と副都心線の開通により鉄道の利便性が上昇した。旧名は大久保一丁目で、住所上は新宿と大久保の境にあたるが、住居表示前はこの一帯は東大久保であり、新宿と名乗る地名が拡張したことが分かる。
 ここで[宿74][宿75]は分岐する。[宿74]はそのまま明治通りを直進し、大久保通りとの交差点で右折するが、女子医大方面は停留所がなく、少し進んだ「都営戸山ハイツ」に停車する。新宿駅西口方面は「大久保通り」に停まるが、位置の差はほとんどなく、実質的にはペアとなる停留所である。それにしても、この「大久保通り」停留所。名前はある意味分かりやすいが、大久保通りを走っていてこの名前が出ると面喰らってしまう。
 大久保通りに入ると、左手には緑が増えてくる。かつての陸軍戸山学校の跡地である戸山公園と、それを囲むように建つ都営戸山ハイツの団地群である。戦後初の大規模都営住宅であり、昭和40年代に建て替わって今の姿となった。小高い丘は箱根山という名で、山手線内では最高峰……のようだ。「新宿ここ・から広場」という謎の停留所を過ぎると、左手に国立国際医療研究センター、右手には総務省統計局と大きな建物が並ぶ。平成12年までは統計局構内まで新宿駅西口から急行バスが乗り入れていた。
 国立国際医療研究センター停留所の先で道路がカギ型に曲がり、風景も狭い道路に家や事務所が密集するようになる。次の若松町で新宿方面に戻るように鋭角に右折し、停留所に停まると次は河田町。大江戸線の若松河田駅の真上にある。2つの地名を合成した駅名で、駅には両端に「若松口」と「河田口」という出入口があるが、河田町バス停は若松口の目の前である。
ここを左折すると両脇に病院の建物が見えてきて、終点の東京女子医大となる。専用の操車所も設けられ、構内に突っ込んで終点となる。詳しくは「終点の風景」も参照のこと。
 [宿75]は東新宿駅で右折し、抜弁天(ぬけべんてん)通りと名乗る通りに入る。かつては地域の生活道路であったが、現在では青梅街道・靖国通りの中野坂上~曙橋間のバイパスの一部として拡幅整備が進んだ。
 東新宿駅周辺の地下鉄開業を見込んで増えたマンションが並ぶ中を抜け、陸橋のようになった坂を上ると抜弁天の停留所。その独特な名前ゆえか、[宿75]でも主要経由地の名として採用されている。正式名は厳嶋神社だが、抜弁天の名の方が有名であろう。交差点の角に神社があり、弁財天を祀っている。源義家がこの地に宿営し、後三年の役の後に神社を作り、苦難を切り抜ける意味でこの名がついたと言われている。
 河田町で[宿74]と合流して東京女子医大に到着。ここで多くの便は折り返すが、[宿75]の本線自体は三宅坂行きであり、そのまま女子医大に挟まれた一車線道路を進む。この沿道にはかつてフジテレビの社屋があったが、今ではマンションに様変わりしてしまった。
 外苑東通りに突き当たると右折して「市谷仲之町交差点」となる。風景は一変、左手には防衛省の市ヶ谷駐屯地と機動隊の第四方面本部が並ぶ。
 曙橋で左折して合羽坂下の交差点で靖国通りと合流するが、そのまま市ヶ谷方面には進まず、すぐに右折し、裏道のような道路へと入り込む。昭和57年まで[浜95](品川車庫~四谷片町)が通った道であり、合羽坂下の停留所は、かつての四谷片町の位置にほど近いところにある。正面の津の守(つのかみ)坂を登り進むと次は三栄町、新宿区の歴史資料が所蔵されている新宿歴史博物館も近い。
 突き当りを左折して新宿通に入り、四谷見附の交差点を過ぎると右前方に聖イグナチオ教会を望みながらJR中央線をまたぎ四谷駅前の停留所となる。ここからは[都03](四谷駅~晴海埠頭)と並走する区間になる。半蔵門で視界が開けると目の前にはお堀、そして皇居の敷地が奥に見える。都営バスでは有数の絶景スポットと言える。右折してTOKYO-FMの前を過ぎ右手に国立劇場の大きな建物が見えて来たところで右側の車線に入り、内堀通りをUターンして終点の三宅坂となる。路上転回となるケースは珍しいが、広い道路ゆえできることだろう。
 
 このほか、出入庫として新宿駅西口~新宿車庫が2系統運転されている。他の営業路線との重複はほとんどない。[宿74出入]は中央公園経由と名乗る。新宿駅西口は他の乗り場とは異なり、高速バスが主に発着する明治安田生命ビル前の乗り場からの発車となる。そもそも乗客がいるような路線でもないため、バスは乗り場の前に着けると、乗客がいないことを確認してすぐに発車してしまうことも多い。
 すぐに左折して新宿中央通りを進み、工学院大学の先の突き当たりで左折、日本の超高層ホテルの草分けである京王プラザホテルを右手に見ながら回り込むように右折する。京王バス[宿41][宿45]と同経路だが京王バスと異なり新宿NSビルには停留所はない。都議会議事堂、そして都庁本庁舎の脇を通過するが、ここにも停まらない。停留所があるのは交差点を越えた新宿中央公園脇の「中央公園前」となる。この系統専用の停留所だが、ここで乗り降りする人はいるのだろうか。
 突き当りの新宿中央公園西交差点を左折、次の角筈区民センター交差点を右折して水道道路に入る。新都心の広々とした道路から小さな建物が密集する住宅・ビル街へと突然風景が変わるのが面白い。ほどなく左側に新宿車庫の敷地が見えてきて終点となる。京王バスの西新宿小学校停留所のすぐそばでもあるが、停留所名は異なる。
 一方、[宿75出入]は西参道経由と名乗り、こちらは甲州街道を経由する。新宿駅西口の乗り場はかつて[秋76]が発車していた京王百貨店前のリムジンバス案内所のすぐそばだが、今や本数も少なく、乗車する人もほとんどいない。
 バスはオペラシティ南まで甲州街道を走り右折する。首都高速新宿線と中央環状線の交差する西新宿ジャンクションがあり、新宿線は上空、中央環状線は地下ということもあって勾配の急な連絡路が目立つその脇に新宿車庫の降車場がある。オペラシティタワーの目の前である。
 なお、新宿駅行きは、新宿駅西口付近の経路が異なり、西新宿二丁目交差点の先の信号を左折し、新宿郵便局の前を通り、東京モード学園の角を右折して新宿中央通りに出る。新宿駅を目前にしてスバルビル前の「新宿駅西口中央通り」の停留所に停車する。ここはかつて[秋76]が停車する「新宿駅西口」31番乗り場であった。そこを過ぎると[宿74][宿75]の乗り場のハルク前で終点となる。

歴史

 現在の新宿支所が受け持つ中では最も古い路線である。細かい変更が幾度となく行われている点も興味深いところである。
 昭和35年12月に新宿駅西口~東京女子医大が開業した。当初は往復とも新宿区役所経由(後述)、西大久保一丁目(現東新宿駅)から東京女子医大までの間は東大久保(現抜弁天)経由だった。すでに都電13系統(新宿~岩本町)が走っており半ば並行系統であったが、都電の通らない新宿区役所通りを通ることや、病院直結とすることで都電とは違う役割を持たせようとしたのだろう。また、明治通りを経由する[2](新宿駅西口~早稲田→[早77])はこの系統が開通するまで輸送力よりも輸送人員のほうが多いという定員オーバーの超混雑状態で、混雑緩和の意味合いもあったのだろう。
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▲昭和35年10月現在(細線は都電)
 開業1年後の昭和36年11月、西大久保一丁目から先の経路が西大久保一丁目~東京女子医大~薬王寺町~若松町~西大久保二丁目(現大久保通り)~西大久保一丁目と大きくループするようになった。大久保通り沿線は大久保駅方面の路線はあったが、新宿駅方面に直結いるバスがなかったためと思われる。現在とは異なり、女子医大を貫通して外苑西通りの薬王寺町・牛込柳町に停車しているのが面白い。新宿駅側から見るとラケット状循環の経路であり、両回りとも運転されていた。このときは新宿駅西口~新宿区役所は無停車で、歌舞伎町に停車していなかった。
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▲昭和44年1月現在
 この形態が5年半程度続いたが、昭和42年7月に新宿駅西口~西大久保一丁目~東京女子医大、東京女子医大~若松町~戸山町~西大久保一丁目~新宿駅西口という形に縮め、現在の形になった。薬王寺町側は既に[21](新宿駅西口~豊島園→[白61])が頻発しており、必要性が薄いと判断されたのかもしれない。それ以外の変化は、昭和43年9月に新宿営業所に移管され、昭和44年頃に都電ホーム脇に「新宿都電終点」が増設され、「統計局」が「余丁町」に変更されたくらいである。
 なお、新宿駅西口の乗り場は、昭和40年代前半に現在の西口ターミナルが完成したときは中央の島の3番乗り場からの発車であったが、昭和46年に[40](東京駅八重洲口~東中野駅北口→[東72])が新宿駅西口発着に短縮される時期に乗り場を交換し、今の小田急ハルク前の乗り場に移動した。
 昭和45年3月に都電13系統の廃止により[秋76](新宿駅西口~岩本町、後の項を参照)が開通するが、専用軌道であった東大久保~新田裏(現日清食品)の区間は昭和45年8月の道路開通に合わせ、[宿74]も[秋76]とともに専用軌道跡を通るようになった。これに合わせ、大久保車庫の跡(現新宿文化センター)に東大久保一丁目(後に新宿六丁目)停留所を設けた。しかし、専用軌道跡は新宿駅方面の一方通行だったこと、ここを通ると新宿区役所通りを経由できなくなることから、経路はかなり複雑になった。具体的には、以下の通りである。専用軌道跡・新田裏を通行するのは東大久保経由の新宿駅行きのみで、それ以外は全て新宿区役所経由だった。
・74甲・往 新宿駅西口→区役所→西大久保一丁目→戸山町→東京女子医大
・74甲・復 新宿駅西口←新田裏←東大久保一丁目←東大久保←東京女子医大
・74乙・往 新宿駅西口→区役所→西大久保一丁目→東大久保→東京女子医大
・74乙・復 新宿駅西口←区役所←西大久保一丁目←戸山町←東京女子医大
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▲昭和45年8月現在(細線は[513](→[秋76])、以下同様)
 [宿74]は、この時点でも書類上は新宿駅西口~東京女子医大~新宿駅西口という路線であり、新宿駅から見て戸山町先回りが[宿74甲]、東大久保先回りが[宿74乙]となっていた。しかし、実際の路線構造は循環ではなく東京女子医大で終点となる折り返しであり、東京女子医大で操車を行っていたことから考えると、東京女子医大をまたぐ乗り通しは不可能であった可能性が高い。
 昭和47年の新番号化で、[74]は旧番号を活かして[宿74]と名乗った。昭和49年2月には東大久保二丁目停留所を増設、国立第一病院が国立病院医療センターに改称された。また昭和50年頃には、大久保通りの先に戸山町方面のみ「都営戸山アパート」停留所が増設され、今の停留所が出揃った。昭和52年以降の路線図では、都営戸山アパートは都営戸山ハイツとなっている。都営戸山ハイツは戦後初の大規模な木造の都営住宅として建てられ、昭和40年代に建て替えられて現在の形になった団地群で、敷地の中央を大きく占める戸山公園を囲むように建つ。一方、戸山アパートは山手線をはさんで反対側、百人町に古くからある都営集合住宅を指すのだが、誤りということで改称したのかどうかはよく分からない。
 さて、昭和51年2月に、路上駐車が多く、通りづらい新宿区役所通りは新宿駅発のみ経由することとなり、戸山町経由の新宿駅西口行きも明治通りを直進して新田裏から新宿駅西口に達するようになった。
・宿74甲・往 新宿駅西口→区役所→西大久保一丁目→戸山町→東京女子医大
・宿74甲・復 新宿駅西口←新田裏←東大久保一丁目←東大久保←東京女子医大
・宿74乙・往 新宿駅西口→区役所→西大久保一丁目→東大久保→東京女子医大
・宿74乙・復 新宿駅西口←新田裏←西大久保一丁目←戸山町←東京女子医大
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▲昭和52年5月現在
 西大久保一丁目(今の東新宿駅)交差点は四方から[宿74]が交差するような線形になり、かなりの複雑さだったことが分かる。戸山町経由と東大久保経由で当初から番号を分けておけば良かったのかもしれないが、運用を一体化していたために当時はそうもできなかったのだろう。
 昭和53年に大久保地区一帯の住居表示実施にあわせ停留所の名前が一斉に変更された。このような停留所名の変更も多かったため、路線の変化が更に複雑になっているように見えるのも[宿74]沿線の特徴と言える。
昭和61年になり、都電跡の道路を通らなくなるように経路変更された。往復とも経路を揃えることで分かりやすくしたのだろうか。
・宿74甲・往 新宿駅西口→区役所→大久保一丁目→戸山町→東京女子医大
・宿74甲・復 新宿駅西口←新田裏←大久保一丁目←抜弁天←東京女子医大
・宿74乙・往 新宿駅西口→区役所→大久保一丁目→抜弁天→東京女子医大
・宿74乙・復 新宿駅西口←新田裏←大久保一丁目←戸山町←東京女子医大
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▲昭和62年1月現在
 [宿74]全体としては、8の字を描くような線形になり、新宿駅西口~大久保一丁目は新宿発が区役所経由・新宿行きが新田裏経由に、そこから先は戸山町・医療センターの両方の経由があり、という形に統一され、少しだけ分かりやすくなった。
後の車輛編でも述べる通り、低床車が積極的に投入されたのも[宿74]の特徴といえる。平成3年の[C・H01](新宿駅西口~都庁循環)の開業により超低床車・リフト車といった新技術の車が新宿に積極的に投入された際、病院発着とあって、[C・H01]とともに初期から対象路線とされた。平成9年3月の都営バス初のノンステップバス導入時も、初日からノンステップバスが走っており、都営バス低床化の歴史を語る上では欠かせない路線とも言える。
平成8年3月には、ついに開業以来の区間であった新宿区役所経由を取りやめ、往復とも新田裏(日清食品)経由になった。
 平成9年6月には停留所名称変更が実施され、新田裏が日清食品に変更されたほか、国立国際医療センターと戸山町の名称を交換するという風変わりな変更も行われた。確かに(旧)戸山町のほうが医療センターの正門は少しだけ近いが、名称を交換するというのは非常に珍しい。開通時と同じ名前の停留所は、起点終点とごく一部の停留所くらいで、いかに停留所の変更が多かったかを示していると言える。
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▲平成9年4月現在
 平成10年3月には、ようやく書類上でも[宿74甲]が往復とも抜弁天経由、[宿74乙]が往復とも戸山町経由と路線の実態に合わせた変更になった。
・宿74甲 新宿駅西口~日清食品~大久保一丁目~抜弁天~東京女子医大
・宿74乙 新宿駅西口~日清食品~大久保一丁目~戸山町~東京女子医大
 しかし、運用上は従来通り、新宿駅西口から抜弁天回りで来たバスは、帰りは必ず戸山町経由で戻っていた。これは正に書類上の循環系統時代の動き方であり、開通時からの名残を運用に留めていたと言えるだろう。平成12年12月の大江戸線全通による改編で、並行する[秋76]は廃止されたが、[宿74]は、大江戸線とほとんど重複するが、病院構内に直接乗り入れることや、戸山町経由が大江戸線とは直接競合しないこともあってか、廃止も大きな減便もされず、昼間は6本/時だったのが4~5本/時に減った程度であった。
 平成14年2月には、前々年の[都03]短縮の埋め合わせの意味合いもあってか、[宿75](新宿駅西口~抜弁天~東京女子医大~四谷駅前~三宅坂)が開通した。昼間に2本/時程度の運転で、[宿74]とは独立した系統であり、運用も別だったと思われる。
 その後、平成16年4月に系統番号も含めて抜本的な整理が行われ、戸山町経由は[宿74]、抜弁天経由は[宿75]に統一された。[宿75]は女子医大行き・三宅坂行きの2通りが走るようになった。このときに[宿74]と[宿75]の運用も分離し、抜弁天経由と戸山町経由の本数が等しくなくなり、大江戸線と並行する[宿75]抜弁天経由は本数が減らされた。
 以降は現在まで路線形態は変化していないが、少しずつ減便が続いている。平成22年春の改正では、運用が[宿74]で女子医大に行ったら[宿75]で戻る、というかつての形態に戻り、それにより[宿74]も昼間の運行を中心とし、夕方以降が大きく削減され、終バスが繰り上がった。高齢者が利用の中心ということを示すかのように、夕方の本数が昼間より少なくなっている。戸山町経由も大江戸線全通以降の10年間で本数が3割以上減っており、副都心線の開業や沿線の高齢化も無視できないのだろう。短距離で回転も良いことから、かつては高収益の代表のような路線で、昭和49年度では収支が最も良い路線となっていた。
 [宿75]の三宅坂発着も、終点が中途半端なことや、四谷に行くまでにかなりの大回りであることから、乗客が多いとは言えない状態で、開業時に比べると本数は半減、約1時間おきの運転になっている。短縮前の[都03]のように新宿通りをまっすぐ通せばよいのかもしれないが、一旦廃止された区間の復活も難しいのだろう。平成21年4月に新宿支所がはとバスに委託された際、もともとの新宿所管の路線で唯一引き継がれた系統群となった。本数の減少が下げ止まるかどうかが今後の注目と言える。

[出入01]と[出入02]

 平成12年の大江戸線全通時の改編において、[秋76]の廃止区間の生き残りである新宿駅西口~西参道~新宿車庫には[出入01]、新宿駅西口~中央公園~新宿車庫には[出入02]という番号が与えられた。路線図や駅ターミナルの案内ではこの番号が使われたものの、方向幕の行先案内では[出入01]は番号なし、[出入02]は[宿74]として表示されるなど、どうもちぐはぐな扱いだった。[出入01]という番号はいかにも出入庫専用という感じを与えるが、実際はそうではなく、新宿駅西口~新宿車庫をピストンで往復するダイヤであった。一方の[出入02]は以前と変わらず[宿74]の出入庫として運転されていたため、番号は似ているが路線の性格は異なっていたことに注目したい。
 [出入01]は、[秋76]の本数の多さを引き継ぎ、大江戸線改編の直後は平日83往復とかなりの本数が用意された。しかし、新宿車庫側から見た場合、歌舞伎町などの駅東側まで行かずに西口止まりとなる[出入01]は、存在意義からして既に怪しい路線であった。
 乗客も多いとは言えず、ダイヤ改正のたびに本数は目減りしていく。平成15年に京王バスの新都心循環(新宿駅西口~西参道循環)が開業、10分間隔で運行する競合路線の影響もあるのだろう。平成16年4月に系統番号が[宿75出入]に付け直され、方向幕の表示も[宿75]となったときには45往復となった。3年と少しで半減したことになる。ただし、このときも[宿75]の出入庫というよりは新宿駅西口~新宿車庫のピストン運行であり、系統番号の付け方としてはどうだろう、という気もする。
 平成20年4月改正で[宿75出入]はついにピストン運行をやめ、本当に[宿75]の出入庫となった結果、本数は7割減になってしまった。最早普通の乗客はアテにしておらず、路線権維持のための運転と言っても差し支えないだろう。新宿駅西口の乗り場には[秋76]時代からと思われる「オペラシティへは便利な都営バスで」という掲示が残るが、諸行無常さを感じさせる。

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▲上から順に平成12年12月、15年11月、24年4月現在の[宿75出入](Yahoo!ロコ地図より)

 当時は[出入01]と[宿74]を連結させて新宿車庫から歌舞伎町へ直通運転する案もあったようだが、定時性の確保などの問題で頓挫したようだ。しかし、この路線を活かそうと思ったら、そのような形にしないと乗客確保は困難だっただろう。
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▲左から平成12年12月、17年3月、23年4月改正
 結局、この構想は10年以上経って新宿地区のコミュニティバスである新宿WEバス(新宿駅西口~西参道・新宿御苑循環)という形で花開いたと言える。もっとも、新宿WEバスも乗客が多いとは言えず、路線の形態を幾度か変えており、[出入01]がたとえ東西連絡の路線だったとしても、単独の独立採算で行う形としては難しかったのかもしれない。
 これと比べると、[出入02]は全く形が変わっていない。平成16年4月に系統番号が正式に[宿74出入]になった程度であるが、方向幕は以前から[宿74]と表示されており特に変更がなかった。元々は昭和41年に開設された区間で、将来の新宿副都心の開発を見込んで作られた可能性も考えられるが、都営バスとしては[C・H01]が開通した際にも中央公園経由の免許区間を大きく活用したわけでもない。まるで隠し球として用意したら本当に隠し球のまま終わってしまったような感じだが、果たして本格的に活用される日は来るのだろうか。
 [宿75出入]は新宿駅西口付近でも経路の変遷があった。[出入01]と名乗った当初は、かつての[秋76]の飯田橋方面の乗り場だったスバルビル前の停留所で降車、京王百貨店前の[秋76]の新宿車庫方面の乗り場から発車としていたが、平成15年11月からは乗車停留所まで営業するようになり、降車停留所は「新宿駅西口中央通り」に改称された。それが、平成20年4月に[宿75]の出入庫系統としての運転になった際は、乗車停留所まで運転すると大回りということか、[宿75]のハルク前の乗り場で終点となった。[宿74出入]の出庫も同じくスバルビル前を通ってハルク前で終点となるが、こちらは新宿駅西口中央通りに停まらない。
 新宿駅西口中央通りは、現在は一部夜行高速バスの乗車場やアクアライン高速バスの降車場としても使われており、停留所のそばには「この停留所は22時30分まで使用いたします。 小田急シティバス」という看板が建っている。

角筈二丁目

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 新宿駅西口から[宿75出入]に乗って、次に停まる甲州街道上の停留所が「角筈二丁目」である。小田急バスの[宿44](新宿駅西口~武蔵境駅南口)とよみうりランド線に加え、現在は新宿WEバスも停車するため、本数はそこそこ多い。しかし、地図を見てもどこにも「角筈」という地名はない。実はこの名は住居表示以前の名である。角筈は、かつて新宿駅の東西にまたがる広域な地域を指す大字であった。角筈とは、真言宗で在俗の僧を呼ぶ言葉であり、当地の名主・渡辺与兵衛がその名で呼ばれていたのが起源と言われている。
 角筈二丁目の停留所自体は昭和29年頃に増設されたもので、京王と共同運行していた[111](新橋駅~下高井戸→[橋78])が停車したのが始まりである。
 この区域は住居表示実施により昭和45年4月に西新宿となったが、バス停の名はそのまま残り続けた。数年前までは、京王新線(都営新宿線)の新宿駅の地下改札口を「つのはず口」と称していたが、今は「新線口」となっている。そういう意味では、バス停の名は貴重な歴史の証人と言えるだろう。
 ただし、都営バスについていえば、角筈二丁目の停留所は甲州街道の下り線にしかなく、そこの住所は、実は渋谷区代々木二丁目である。

急行・統計局

 現在は[橋63急行](大久保駅~統計局)だけが残っている統計局への通勤バスだが、平成12年の大江戸線改編の時期までは、[宿74急行]として新宿駅西口~統計局が運行されていた。途中は無停車で、日清食品・大久保通り経由であった。
 少なくとも昭和40年代前半から運行していたことが確認されており、[宿74出入]と同じ明治安田生命ビル前からの発車だった。基本的に人気のないポール付近に、8時半近くになると乗客の列ができ、バスが滑り込んで乗せていくという光景が見られた。方向幕も長らく専用のものがなく、「都営バス」や「回送車」の表示で運転していたが、平成8年頃に専用の急行表示が用意されるようになった。
 長らく朝2本、夕2本のみの運転であったが、[宿74]の通常ダイヤに組み込まれており、例えば朝の新宿駅西口→統計局は、統計局到着後に女子医大まで回送されて折り返し抜弁天経由の新宿駅西口行きとして運転される……といった具合である。ここでも、往復で別経路という運用が守られていたことになる。
 この系統は、平成12年12月の大江戸線開通で統計局が若松河田駅の徒歩圏となったことで役割を終えた。と、言いたいところだが、実際は大江戸線改編で作り直された方向幕にも統計局発着の表示は残り、改編直後は以前と変わらず運行されていたのである。しかし、ほどなく廃止されてしまったのは確実で、運行最終日がいつだったのは不明のままである。方向幕も平成14年2月の[宿75](新宿駅西口~三宅坂)の開業で上書きされてしまい、今や新宿駅西口発着の急行があったことを示すものは何も残っていない。

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