担当営業所
杉並支所
運行区間・運行回数
系統・枝番 | 起点、経由地、終点 | 備考 | キロ程(往/復) | 平日 | 土曜 | 休日 | |||
→ | ← | → | ← | → | ← | ||||
宿91 | 新代田駅~和田堀橋~堀ノ内~鍋屋横丁~新宿駅西口 | 8.210km | 35 | 37 | 31 | 32 | 31 | 31 | |
宿91折返 | 堀ノ内~鍋屋横丁~新宿駅西口 | 4.880km | 1 | 2 | 1 | 1 | 1 | ||
宿91出入-1 | 杉並車庫~鍋屋横丁~新宿駅西口 | 4.770km | 21 | 22 | 15 | 17 | 11 | 12 | |
宿91出入-2 | 杉並車庫~堀ノ内~和田堀橋~新代田駅 | 4.480km | 3 | 5 | 4 | 5 | 3 | 3 |
現在
年表
系統 | 年月日 | 営業所 | 距離 | 概要 |
5 | 終戦時 | 堀ノ内 | 4.746km | 堀ノ内~新宿駅西口が存在 |
5 | S26. 7.10 | 堀ノ内 | 7.916km? | 代田橋~堀ノ内を延長 |
5 | S26ごろ? | 堀ノ内 | 8.489km? | 新宿駅西口~新宿追分(現新宿伊勢丹)を延長 |
5 | S36年度 | 堀ノ内 | 8.973/ 9.223km | 代田2(現新代田駅)~代田橋を延長 |
5 | S38.12. 1 | 堀ノ内 | 8.953/ 9.203km | 方南町・高円寺陸橋付近の経路を環七の現道に変更 |
5 | S41.11.30 | 杉並 | 8.953/ 9.203km | 堀ノ内営業所の杉並営業所への移転改称に伴い、杉並に移管 |
138 | S42. 6.25 | 杉並 | 19.430km | 大森操車所~長原~上馬~堀ノ内~新宿駅西口が開業、東急と相互乗入 |
宿73・宿91 | S47.11.12 | 杉並 | *** | 新番号化、5系統を宿73、138系統を宿91とする |
宿73 | S52.12.16 | 杉並 | 8.076km | 新宿駅西口~新宿追分を短縮、西口折返を本系統にする |
宿91 | S59. 2.16 | 杉並 | 11.550km | 大森操車所~野沢銀座を短縮、東急との相互乗入を中止 |
宿91 | H 2. 3.31 | 杉並 | 11.550km | 宿73と宿91を統合、宿91とする |
宿91 | H 5. 3.31 | 杉並 | 12.320km | 野沢折返所廃止により、駒沢陸橋~野沢銀座を延長 |
宿91 | H15. 4. 1 | 杉並 | 12.320km | はとバスに運行を委託 |
宿91 | H18. 4. 1 | 杉並 | 12.450km | キロ程の修正 |
宿91 | H25. 4. 1 | 杉並 | 8.210km | 駒沢陸橋~新代田駅を短縮 |
路線概要
新宿駅西口から環七を南下して新代田駅まで、以前は東急バスのエリアとなる世田谷区の駒沢陸橋まで行く路線であった。さらに昭和59年までは東急バスと共同運行で、さらに南側の大森操車所まで達していた。ちょうど[王78]とは青梅街道を挟んで線対称のような存在である。
新宿駅西口はバス乗り場の島からの発車となるが、入庫の杉並車庫行きと本線は別々の停留所から発車となる。かつては[都03](新宿駅西口~晴海埠頭:当時)等、多くの出入庫が運行されていた名残だろう。西口を発車するとすぐに青梅街道に出て、一路西に進む。ここから中野坂上までは近年拡幅が進んだ区間で、整
備された道路となっている。新宿副都心の高層ビル街を左手に見ながら進むと、次の停留所は東京医大病院。副都心にもほど近い停留所で、丸ノ内線西新宿駅の真上にある。この駅の開業で、[宿91]も少なからず影響を受けたと言う。
そこから緩やかに坂を下ると成子坂下のバス停で、青梅街道のバイパスとなる職安通りの延伸部が右から合流し、道路と一体で再開発が行われている。神田川を気づかぬうちに渡ると中野区に入り、山手通りと交差する中野坂上交差点を過ぎると同名の駅となる。昔からの電停名でもあるということか、停留所名に「駅」はつかない。
宝仙寺を通り過ぎ、鍋屋横丁の辺りに来ると道路の両側にアーケードのついた商店街が見えるようになる。中野坂上から西側は江戸時代に中野宿があり、この地域は今でも中野地区の繁華街の一つである。青梅街道から堀ノ内にある妙法寺への参道が分岐するところとして栄えたという歴史を持つ。そこに鍋屋という茶店があったのが由来とされている。鍋屋横丁の交差点の前後で鍋屋横丁、新中野駅と停車するが、停留所間隔はかなり短い。さらにその先で中野通りと交差し、京王バスが南北に横切っていくが、こちらは「杉山公園」という停留所で名前は異なっている。
ここを過ぎると低層のビルやマンションが街道沿いに並び、少しばかり落ち着いた景色となる。中野天神を過ぎると東高円寺駅に到着し、左手に緑地が広がる。「蚕糸の森公園運動場」という名で、昭和55年まで農水省の蚕糸試験場があった跡地を公園としたもので、レンガ造りの正門が昔の名残を留めている。かつては停留所名も蚕糸試験場となっていた。公園の中には杉並第十小の敷地があるが、公園と校庭が共用となっているのも特徴的である。
試験場の敷地脇の環七旧道入口を通り過ぎると、目の前に陸橋が見えてくる。これが高円寺陸橋で、左折して環七に入ったところで停留所となる。杉並車庫発着の場合は交差点を直進し、ほど近い車庫手前の降車専用で終点となる。なお、本線の新宿方面は停留所が存在しないが、200mも行かないうちに本線と合流したところで次の「セシオン杉並」の停留所があるので、実質的な問題はないのだろう。そして少し走ると、都営堀の内三丁目アパートの建物が右に見えてくるが、ここがかつての営業所跡地である。待機スペースもあり、早朝深夜の堀ノ内発着はここで道路を横断して待機場のスペースに付けている。
ここから環七を南下するが、阿佐ヶ谷駅からの[渋66](渋谷駅~阿佐ヶ谷駅)としばらくの間並走する。立正佼成会の建物を左に見つつ、方南通りで方南八幡通りの停留所に停車。丸ノ内線の支線の方南町駅最寄りで、朝の新宿駅西口行きはここで乗り換える乗客の姿も見られる。環七にはアンダーパスが走っているものの、交差点に停まるためにバスは側道を通る。側道は南北の通り抜けが不可となっているが、このために「路線バスを除く」の除外標識が付いている。
神田川を渡り、さらに南下すると甲州街道と交差するところに代田橋の停留所が設けられている。と言いたいところだが、新宿駅方向は大原交差点北側約200mの泉南交差点付近に、駒沢陸橋方向は大原交差点の南の京王線の高架をくぐったさらに先にあり、とても同一停留所とは思えないほど離れている。ここを過ぎれば守山(まもりやま)小学校、そして新代田駅となる。井の頭線の駅の北側、環七に面して操車所があり、かつての共同運行先の東急バス[森91](大森操車所~新代田駅)もここで折り返す。新代田駅止と駒沢陸橋行きのバス停は本来異なっていたが、平成24年現在は操車所隣の図書館の建て替えもあって、両方とも北側にある降車専用のバス停で客扱いを行っている。
新代田駅で多くが折り返し、駒沢陸橋まで足を延ばす便は少ないが、短縮前の[宿91]のエリアも紹介しよう。ここからは東急バスの停留所に間借りするようになり、東急のエリアに入ったことを実感する。小田急線をアンダーパスでくぐり、掘割のような地形となって宮前橋。世田谷代田駅が近いが、バス停が近くにないので多少歩くことになる。若林陸橋をくぐると、目の前に横切る線路がある。「若林踏切」である。東急世田谷線との平面交差だが、信号制御となっており遮断機はない。電車の方が信号待ちする光景も見られる。踏切の先に「若林駅」の停留所があるが、世田谷線の駅からは少しばかり離れている。
ここから環七は上馬まで連続立体交差となるが、これだけ長いとさすがにバスは側道を通って行く。若林交番で世田谷通りと、上馬で玉川通りと交差する。上馬では側道の狭さゆえ詰まることもあるが、それぞれ東急バスや小田急バスとの乗り換えができる。
上馬を過ぎれば、終点まではもう一息。一時期終点だった野沢銀座を通り過ぎる。その先、右に見えるスーパーサミットがかつての折返所の跡である。終点の一つ前、野沢交番のバス停は終点ではないが並走する[森91]との乗り換えポイントとなっている。[森91]はそのまま目前の駒沢陸橋をオーバーパスするが、[宿91]は陸橋脇の駒沢陸橋停留所で終点となるためだ。終点の駒沢陸橋は駒沢通りと交差しており、東急バス[恵32](恵比寿駅~用賀駅)の碑文谷呑川停留所も近い。また、少し歩けば[東98](東京駅南口~等々力操車所)の走る目黒通りもある。
駒沢陸橋は人気も少ない終点である。バスはそのまま陸橋下をUターンして折り返しの停留所から始発となる。
出入庫は高円寺陸橋から分岐して青梅街道を走り、次の杉並車庫が終点となる。メインは新宿駅西口~杉並車庫の運転となり、[王78][品97]の出入庫も兼ねるが、それ以外に杉並車庫~新代田駅も少数運行されている。
歴史
[宿91]は昭和42年の開業と比較的新しい系統だが、その祖先をたどると歴史の古い系統である。昭和初期より、東京乗合自動車(→東京地下鉄道、青バス)が堀ノ内から新宿駅を経由して都心方面に向かう系統を走らせていたのが始まりで、ほどなくして代田橋まで路線を延長した。この区間の環七沿線から青梅街道経由で新宿・銀座方面へと乗客を一直線で運ぶ系統として需要があったと思われる。
▲大東京地典 交通詳解(昭6)の東京乗合自動車の項
昭和17年の交通一元化で市バスの運行となった際には[13]代田橋~新宿三丁目、[14]堀ノ内~新宿駅~築地という2路線が設定された。[13]が新宿駅止まりでなかったのは、当時の新宿の中心は新宿追分~三丁目付近であり、中心街まで直通するということだったのだろう。昭和18年6月の改編で、[14]は廃止されたもの[13]は残り、昭和19年5月の改編では代田橋~新宿駅止まりに短縮されたが、数度の空襲で被害を蒙った後、昭和20年6月の改編で都営バスが全線で12系統のみの運転となった後も、堀ノ内~新宿駅で系統が存続した。この区間の需要が非常に根強かったことを裏付けていると言える。昭和21年3月の改編で系統番号は[5]となり、以降はこの番号で定着した。
昭和26年には、堀ノ内~代田橋、そして新宿駅西口~新宿追分(現新宿伊勢丹)がそれぞれ延長され、戦前の姿に戻った。新宿駅西口~新宿追分は、新宿駅から大ガードをくぐり、東口・追分・靖国通り経由でループ状に新宿駅の東側界隈を一周するというもので、この時代は京王バス・関東バスなども、西側から新宿駅を通り抜けて東側まで行く系統が多く、新宿の中心が依然としてこの付近にあったことが分かる。
さらに、昭和36年には代田橋から代田二丁目(現新代田駅)まで延長される。環七の道路建設が急ピッチで進む中の延伸だが、まだ代田二丁目付近から南側は建設中で、現在の新代田駅の折返所も未整備だったようだ。その後、昭和41年7月に代田二丁目駅は新代田駅に改称されるが、同時期に折返所も整備され、終点の名は「代田操車所」となった。[5]としてはこれで路線が完成したことになる。昭和30年度の乗降客調査では14,600人/日、昭和35年度では24,400人/日と急激に増加し、乗降客の多さで見てもトップテンに入る多さであった。丸ノ内線が新宿・荻窪へと延伸されるこの時期がまずピークだったと言えるだろう。
この後は、環七の完成とともに、堀ノ内付近や代田橋・和田堀橋付近が現道へと変更したことと、昭和52年に新宿追分を回ることを取りやめ、新宿駅西口発着に短縮されたくらいである。新宿駅の中心部が西に動いてきたことや、東口界隈の渋滞でタイムロスが大きかったのが理由だろう。
そして、長大路線[138]が開通する。[王78]の項でも述べたが、東京オリンピックによって開通した環七に新たなバス路線を通すことが各社によって計画・申請されいた。環七の南西部は、北西部に遅れること1年後の昭和42年6月、都営と東急の共同運行で、新宿駅西口~(環七)~大森操車所が開通した。全線19.4kmは[王78]よりさらに長い。
既に東急は昭和39年10月に大森操車所~(環七・上馬)~駒沢営業所、蒲田駅~(夫婦坂・環七)~代田四丁目という2系統を開業させており、バスが通っていなかった区間は新代田駅の前後の区間だけであった。東急は前者を発展的解消させる形でこの路線に参入した。新宿駅西口~代田操車所は[5]と完全に重複するが、共同運行と一般では別ということだろう。別番号が与えられ、昭和47年の新系統番号でもそれは変わらず、[宿73][宿91]と全く別の番台となった。
環状方向の需要を期待されて誕生した[宿91]だが、ネックは渋滞であった。主要道路と立体交差となってはいたものの、青梅街道や大原交差点など渋滞ポイントは数多く、所定で全線80~90分という設定だったがそれよりも多くかかるのが常であった。
営業成績もあまりよい方ではなかったが、鉄道では直接行きづらいところを結んでいたため、昭和50年代前半の路線再編成では手をつけられることなく存続したが。これだけの長い路線を維持するのは限界だったのか、昭和59年2月に分断されることになった。ただし、単純に新代田駅を境とするのではなく、都営は東急のエリアに入って野沢銀座まで運行された。野沢・上馬から新代田駅をまたぐ需要が大きかったのだろうか。野沢から新代田駅までは都営・東急の両方のバスが引き続き運行されることになった。
この間、[宿73]の路線形態はほぼ変わらなかったが、乗客数は大きく変わった。丸ノ内線が荻窪まで全通すると、青梅街道の交通機関としては脇役の存在になり、さらに乗客を[宿91]と分け合う形となったことで、[宿73]単体の乗降客数は大きく減少した。昭和50年度の交通センサスの時点で3,373人/日([宿91]は8,047人/日)、平均混雑度は10.0%と、杉並の全系統でも最低水準だった。もっとも、この水準は新宿駅西口発着の他系統の出入庫としての[宿73](新宿駅西口~杉並車庫・堀ノ内)が多数運行されていたのを含んでいたと思われる。昭和57年のデータでは[宿73]新宿駅西口発が本線より杉並車庫発着のほうが3倍程度の本数があり、どちらが本線だか分からないくらいの差である。
そのため、昭和50年代には[宿91]の折り返し系統のような存在になり、平成に入った頃には[宿73]本線の本数は1日27回とかなり少なく、平成元年度の乗降客数は1,680人/日([宿91]は4,860人/日)にまで減少していた。結局、平成2年3月の改編で系統番号とダイヤは[宿91]に一本化され、両系統合わせた本数はほぼ従来通りとなった。平成5年には、野沢にあった折返所が閉鎖され、その先の駒沢陸橋までわずかながら[宿91]の本系統が延長され、現在の形となった。
これ以降、路線には変化がないものの、長期的な乗降客の下落は止まっていないようで、本数も少しずつ減少を続けている。都営バスの中でも赤字が目立つ系統となっており、平成7年度には赤字が多大な系統として、効率化で駒沢陸橋行きが中心だったのが新代田駅止まり中心に転換した。これ以降は特に新代田駅以南の本数が顕著である。元から新代田駅で段落ちするダイヤではあったが、統合直後は昼間でも1時間に3本あった本線が、平成12年頃には2本に、平成15年4月のはとバス委託時に土休日を中心に本数が大きく目減りし、平成17年4月改正では全日1時間1本に、そして平成24年4月の改正ではついに2時間に1本に減らされてしまった。新宿駅西口~新代田駅の区間も減少が続き、今では昼間で1時間3本を割り込む時間帯も出現している。駒沢陸橋発着はここまで来るとこの区間の撤退を前提とした本数だったのだろうが、ついに平成25年春の改編で全便が新代田駅止まりとった。上馬・野沢界隈の、東急ポールに「東急・都営・小田急」と3社が書かれるのも過去の姿となった。
堀ノ内止まり
[宿91]の最終と始発時間帯に存在するのが堀ノ内発着。23時近くまで運行されており、都電代替と関係ない系統としては破格の最終バスの遅さとなっている。これは堀ノ内に車庫があったころの名残で、他の系統の出入庫も含めて、早くから遅くまで運行されていたのを引き継いだものである。かつては[宿73]名義であった。杉並車庫から堀ノ内まで回送し、堀ノ内でUターンして新宿駅西口行きとして運行(入庫はその逆)となっており、地域へのサービスとして継続しているのだろう。
[都03](新宿駅西口~晴海埠頭)の所管当時は昼間から深夜まで10本程度運転されており、最終は[都03]の晴海埠頭発の終車が化ける形で新宿駅西口発堀ノ内行の最終は23:15となっていた。平成12年の[都03]撤退以後は最終時刻が繰り上がり、最終時間帯だけに縮小されている。
ちなみに堀ノ内の折返所は側溝を鉄板でフタをしているが、そこには「てっぱんのうえをあるくとあぶないよ」という、「とばす」からの優しいメッセージがある。
新代田駅→駒沢陸橋
新代田駅から南側は[宿91]の本数も少なくなるが、かつては、新代田駅の時刻表を見ると、昼間なのに時間が近接して2本並ぶところが何か所かあった。杉並車庫からの出庫ではなく、実は新代田駅→駒沢陸橋の区間運転である。運用の都合で新宿駅西口から新代田駅到着後に操車所で休憩となる運用がいくつかあり、休憩明けに駒沢陸橋まで営業運転していたものである。本線の数分後を走るとあって乗客は基本的に少なかった。
ちなみに、駒沢陸橋到着後は、前を走っていた本線が折り返し杉並車庫入庫になり、新代田駅からの出庫が折り返し新宿駅西口行きになっていた。平成17年4月のダイヤ改正で消滅して以来、定期運転はなくなっている。
新宿西口駅?
駒沢陸橋の始発バス停の表示だが、よく見ると何か変である。行先が「新宿西口駅」となっているのである。もちろんそのような停留所は存在せず、新宿駅西口の誤植なのだろうが、15年くらいはそのままになっており、もしかしたら開通時からのものかもしれない。
平成12年に大江戸線に「新宿西口」駅が開業したため話が多少ややこしくなったが、相変わらずそのままである。ここから乗る人も少なく、一瞬正しそうに見えるために放置されているのだろうか。これも駒沢陸橋の短縮によりついに姿を消した。
急行 代田橋→和田堀橋
[宿91]の隠れ運行として'90年代まで存在したのが[宿91]急行である。かつて、代田橋から和田濠橋まで、東京都の清掃職員が清掃事務所から清掃工場の足として [宿91]を使って通勤していたのだが、専用便を仕立てることになった。直行で当初は方向幕も専用のものが用意されず、一応誰でも乗車可能という扱いであったものの、知る人ぞ知る幻の路線バスだったと言えるだろう。一応普通の乗客も1~2人はいたようだ。
和田堀橋到着後は回送して[宿91]の本線の営業をするようになっており、一般ダイヤに組み込まれているという意味では統計局急行(新宿)と同じ扱いと言える。その後、平成9年頃に専用の方向幕が作られて表示されるようになったが、平成12年の清掃事業の23区への移管と前後して運行されなくなったようだ。