担当営業所
新宿営業所
運行区間
系統 | 区間 | 距離 | 備考 |
本1 | 新宿車庫~新宿駅西口~(新宿区役所→)飯田橋~御茶ノ水駅~秋葉原駅東口 | 9.942/ 9.282km | |
本2 | 新宿車庫~新宿駅西口~日清食品~飯田橋~御茶ノ水駅~秋葉原駅東口 | 9.822km | 17時以降 |
折1 | 新宿車庫~新宿駅西口~(新宿区役所→)飯田橋~飯田橋終点 | 6.712/ 6.592km | |
折2 | 新宿車庫~新宿駅西口~日清食品~飯田橋~飯田橋終点 | 6.552km | 17時以降 |
年表
系統 | 年月日 | 営業所 | 距離 | 概要 |
513甲 | S45. 3.27 | 新宿 | 8.432/ 8.192km | 都電13系統(新宿駅~飯田橋~岩本町)の代替で新宿駅西口~岩本町が開通 |
513乙 | 8.432/ 8.582km | 同上、新宿駅西口~飯田橋~岩本町が開通 | ||
513 | S46.11. 1 | 新宿 | 8.642/ 7.942km | 終点を岩本町から秋葉原駅東口に変更 |
秋76 | S47.11.12 | 新宿 | *** | 新番号化、[秋76]とする |
秋76折 | S54.12.27 | 新宿 | *** | 新宿駅西口~飯田橋の折返を新宿駅西口~飯田橋終点に延長? |
秋76 | S55. 8. 1 | 新宿 | 9.942/ 9.242km | 新宿車庫~新宿駅西口を延長 |
秋76 | S61. 8. 1 | 新宿 | 9.942/ 9.282km | 抜弁天→新田裏を文化センター通り経由から大久保1(現東新宿駅)経由に変更 |
秋76 | H12.12.12 | 新宿 | *** | 新宿車庫~飯田橋終点・秋葉原駅東口を廃止 |
路線概要
都電13系統の代替系統で、新宿車庫から飯田橋を経由して秋葉原駅東口までを結ぶ。新宿~飯田橋の区間は中央線から離れた牛込地区を進み、飯田橋から先は外堀通りを中心に、ほぼ中央線に沿う形で進む。
新宿車庫~新宿駅西口の区間は、現在の[宿75出入]と同経路である。新宿車庫を出て甲州街道に入り、西参道・文化服装学院を過ぎて新宿駅の手前の交差点を左折し、新宿郵便局の前を通り、郵便局先の角を右折してスバルビル前の新宿駅西口31番乗り場で客扱いを行う。この系統の実質的な起点として、多くの乗客がここから乗り込んだ。なお、新宿車庫行きは、京王百貨店前の停留所に停車し、新宿駅南口側に向かって甲州街道に出て西参道方面に向かうようになっており、こちらも[宿75出入]と同様である。
新宿駅西口を発車すると小田急ハルクの前を通って大ガードをくぐり、靖国通りに入って歌舞伎町に停車し、すぐに区役所前の交差点を左折する。鬼王神社で大久保一丁目(現東新宿駅)に停車となっていた。なお、新宿発17時以降の便と新宿駅方面の全便が明治通り経由であった(後述の記事も参照)。
大久保一丁目からは、河田町まで抜弁天経由の[宿74](新宿駅西口~東京女子医大、現[宿75])と並走するため、そちらも参照のこと。余丁町・河田町・若松町の停留所は近接しており、大江戸線の工事中は臨時に停留所が移動していたこともあって、停留所の間が100mも離れていない区間も存在した。
若松町で大久保通りに合流し、飯田橋に向けて東に走る。坂を下り牛込柳町で外苑東通りと交差し、そしてまた坂を登って山伏町・牛込北町と進む。ここで[橋63](大久保駅~新橋駅:当時)と別れ、この系統の単独区間へと入る。この地域は、新宿区の昔ながらの町名が残る貴重なエリアで、停留所の名も都電時代から変わらないものも多く、「~丁目」が続くだけの停留所の並びよりも特徴的で分かりやすいと言える。
牛込北町を過ぎると、早稲田通りを過ぎて「神楽坂」停留所がある。東西線の神楽坂とは離れているが、都電時代からの伝統ある停留所名であり、こちらが元祖であると主張しているようでもあった。ここから道路は右にカーブし、厚生年金病院を左手に見る所で「津久戸町」。副名称は築土八幡前で、左手後ろに神社がある。読みはどちらも「つくど」で、かつて築土八幡の隣に津久戸明神社という神社があったことによる。空襲による戦災で神社は既になく、津久戸の町名に名を残すのみとなっている。
緩やかな坂を下り、飯田橋の巨大な五差路が見える直前で飯田橋の停留所となる。JR飯田橋駅へは外堀通りを渡る必要があり、少しばかり離れているが、乗客の大半はここで降りてしまう。
ここで本数は大きく減る。途中止まりとして運行されている「飯田橋」行きだが、表示は飯田橋でも実際の終点はもう一つ先の「飯田橋終点」。そのまま外堀通りに出て首都高をくぐり、次の路地に向けて突然左折する。飯田橋合同庁舎のあるブロックを回り込むように進み、文京区の小石川運動場の前で終点となる。小石川後楽園や東京ドームへもそれほど離れておらず、知る人ぞ知る停留所であった。
本線の秋葉原駅行きはそのまま外堀通りを直進し、広い道路を快調に走る。次の小石川橋はウインズ後楽園や東京ドームの最寄で、競馬やレジャー関係の乗客が多く乗降しており、休日昼間は秋葉原駅発着が中心のダイヤとなっていた。
後楽園遊園地が左手に見えると水道橋で、ここで白山通りと交差する。都立工芸高校を過ぎると御茶ノ水に向かって坂を登り、駿河台・本郷の台地へと向かう。右に見える中央線を見下ろす高さになっていくのが分かる。坂を上りきったところに順天堂医院があり、順天堂病院の停留所も存在する。そして緩やかなカーブを過ぎると東京医科歯科大学の病院の建物が見え、右手にJR御茶ノ水駅の方に向かう御茶ノ水橋。ここを過ぎると御茶ノ水駅の停留所となる。丸ノ内線の御茶ノ水駅のほぼ真上である。
ここからバスはまた坂を下る。目前に聖橋が頭上で交差し、右を向けば丸ノ内線の線路が神田川の上で顔を覗かせるなど、ここは地形の複雑さが充分に体感できる場所である。聖橋をくぐると左手に湯島聖堂が見え、下り切って昌平橋の交差点を渡る頃には眼下にあったJRの線路が頭上の高架で越えていく。家電・AVやゲーム、パソコンの看板が急に目立つようになり、秋葉原電気街の雰囲気といった感じになる。当時はアニメの看板はまだ少なかった。
万世橋の手前、万世橋区民会館付近で万世橋の停留所となる。電気街にはこの近辺から近いこともあり、この停留所で降りる客も多かった。
秋葉原駅周辺には折返所がなかったため、道路を使って折り返すようになっており、まずは万世橋交差点を右折して万世橋を渡り、交通博物館がちらっと右手に映ると中央線のガードをくぐって須田町停留所。須田町を左折し、再度中央線の、そして山手線のガードをくぐる。かつて羅紗問屋街として繊維関係の問屋街が数多く並んだところで、現在でもその名残が少しではあるが見られる。岩本町の交差点で左折して昭和通りの岩本町駅停留所に停まると、秋葉原駅手前で左折し、書泉ブックタワーの建物近くで「秋葉原駅東口」で終点となっていた。岩本町や須田町からの便宜を図り、秋葉原駅東口ではそのまま新宿方面に乗り通し可能という扱いになっていた。
歴史
都電13系統の代替として開通した系統である。牛込地域から都心に直通するという路線の性格は戦前戦後とほとんど変わっておらず、この地域を走る都電は大正元年に飯田橋~焼餅坂(現牛込柳町駅付近)、大正2年6月には若松町まで、同年末には東大久保(現抜弁天)まで、そして翌年5月には角筈(現新宿区役所入口付近)までと少しずつ延伸した。東大久保からは専用軌道であったが、抜弁天から今の東新宿駅に抜ける道路がそもそも存在しなかったためのようだ。
この区間を走る系統として、昭和初期は市電の18系統(角筈~若松町~御茶ノ水)、22系統(若松町~御茶ノ水~駿河台下~神田橋~呉服橋~新橋)が設けられていた。これが昭和5年頃の市電の改編で13系統(角筈~御茶ノ水~万世橋)、13例外系統(角筈~御茶ノ水~錦町河岸)となり、後者は戦中の改編で消えていき、本線だけが残った。
新宿近辺の軌道も終戦後に変更された。かつては大久保車庫から現在の遊歩道(四季の路)を通り、靖国通りを越えて新宿通りに突き当る角筈を終点としていたが、昭和24年に明治通り・花園神社・靖国通り経由に変更され、専用軌道の区間は出入庫のみ走る専用区間となった。さらに、四谷方面から来る都電について、戦前は新宿通りを直進して新宿駅東口を終点としていたが、新宿三丁目~新宿駅を靖国通りに線路を引き直して歌舞伎町に面した靖国通りの路上を終点とすることになり、都電13系統についても(新)新宿駅を終点とするようになった。
その後、昭和33年に万世橋から昭和通りまでを結ぶ都電の新線が開通し、都電13系統は万世橋~秋葉原駅~岩本町~水天宮と中央区方面へ延伸された。昭和35年のピーク時には、1日に300回近くが新宿駅~飯田橋で運転され、秋葉原駅までも250回、水天宮までは140回前後と単一系統としては非常に多くの本数が運転されていた。300回は昼でも3~4分間隔ということになり、いかに多くの本数が運転されていたかが分かる。
昭和43年3月限りで、都電の線路撤去により岩本町~水天宮が廃止され、新宿駅~岩本町の運転となった。地下鉄東西線が開業した等の影響はあるものの、昭和43年のデータでも新宿駅~牛込北町は250回、飯田橋まで215回、秋葉原駅まで180回と大幹線だった。ただし、ピーク時の昭和35年に比べると輸送人員は77,000人/日から昭和43年では37,000人/日と半減しており、減少幅はかなり大きかったことが分かる。
昭和45年3月に都電13系統は廃止され、全線がバスで代替された。代替の際は新宿駅西口発着となり、また岩本町側は系統の概要で述べた通り、ループ状の経路で折り返すように変更された。なお、昭和46年11月には終点停留所を岩本町から秋葉原駅東口に移した。都電が廃止された後となっては終点の名義が岩本町というのは利便性の高いものではなく、国電駅に連絡できる秋葉原駅が最適とされたのだろう。
既に新宿駅西口のターミナルは完成後で、駅前の島の乗り場に入る余地がなかったこともあり、新たにスバルビル前に乗り場を設けた。[35](新宿駅西口~築地中央市場→[市02])や[305](新宿駅西口~奥多摩湖)の乗り場であったが、本数が非常に少ない系統の乗り場であったため、他に乗り場を移すなどして確保したと思われる。ただ、このとき新宿駅西口のどこで降車させ、どのように折り返していたのかは不明である。新宿駅の大ガードから青梅街道を現在の新都心歩道橋下まで直進し、エルタワーの裏手を南下し、新宿センタービルの角を右折してスバルビル前で終点としていたのだろうか。
代替当初は[513甲][513乙]の2系統が書類上存在したが、いずれも新宿駅西口~岩本町で新宿駅方面の距離だけが僅かに異なるだけとなっている。[宿74]でも述べたが、東大久保(現抜弁天)~新田裏(現日清食品)は専用軌道だったこともあり、バス代替の時点でそこを通ることはできなかった。そのため、開通当初は新宿駅発は新宿区役所経由だったのは間違いないが、新宿行きは新田裏経由だったのか新宿区役所経由だったのかは判然せず、これが甲乙の違いだった可能性もある。
5ヶ月後の8月には、専用軌道跡の道路工事が完了し、 [513]は早速その道路(後の文化センター前の通り)を通るように経路変更した。ただし道路は新宿方面の一方通行だったこともあり、新宿駅発については引き続き新宿区役所経由となった。
▲交通局からのお知らせ
昭和54年12月には飯田橋の折返便が飯田橋終点まで営業運転するようになったようだ。同時に、19時以降(後に17時以降)の飯田橋方面は新宿区役所を通らず、新宿方面と同じく明治通りを経由するようになり、新宿区役所経由は夕方までの運行となった。
また、昭和61年8月に専用軌道跡の道路を通るのを止め、大久保一丁目(現東新宿駅)経由となった。この辺りは[宿74]の経路変更と完全に歩調を合わせての変更となっていた。この経路の変遷については、詳しくは[宿74]の歴史の項も参照のこと。
昭和55年8月には新宿車庫~西参道~新宿駅西口が延長されている。[草79](新宿車庫~二天門)の廃止により、新宿駅西口~新宿車庫を代替で延伸したものだろうが、[草79]の廃止は昭和54年12月であり、時期がズレているのは興味深い。新宿車庫発の経路は新宿郵便局経由となった。新宿駅西口のスバルビル前の乗り場につける必要があったためだろう。
このあとは廃止まで路線の形態は変わらなかった。新宿~飯田橋は相変わらず本数の多い系統として君臨していたが、鉄道の新規開業等の影響がないにもかかわらず、昭和50年度に23,000人/日あった乗客数が昭和60年度では15,145人/日と3割以上の減少となった。沿線人口減もあったのかもしれない。本数は多かったが、収支係数(100円を稼ぐのに必要なコスト) を見ると昭和54年度はが84と比較的良好だったのが、60年度以降は例年110程度の数字となっており、どちらかと言うと赤字基調の系統であった。
また、飯田橋以遠は中央線と並行しており、道路渋滞に悩まされる区間でもあったようで、飯田橋折り返しの割合が年を追うごとに増えていった。昭和57年度は平日で79回と全体の4割が秋葉原行きだったのが、平成9年3月の改正では40回、2割にまで減っている。昼間はおよそ30分おきと他の系統に比べるとかなり少なかったが、飯田橋以遠を見ていると、平日はそれでもあまり混雑していたとは言えなかった。もっとも、休日はレジャー需要もあって昼間はほぼ全便が秋葉原駅行きになっており、ダイヤの構成が平日土曜とは全く異なっていた。
平成12年12月に大江戸線が全通し、新宿~飯田橋でほぼ真上を走る[秋76]は全線廃止となった。バスと電車の並存が図られている現在だったならば、本数を減らして残すという解もあったのかもしれないが、大江戸線に要員を移す必要があり委託という選択肢もなかった当時は廃止せざるを得なかったのだろう。1日に140回も運転される系統が一夜にして廃止されるのは衝撃でもあった。牛込北町~飯田橋~順天堂病院や秋葉原駅周辺は、都営バスが消滅した区間となった。
その後、平成14年2月に新宿区の要請もあって、小滝橋車庫~大久保駅~牛込北町~都営飯田橋駅(旧飯田橋終点)に[飯62](小滝橋の巻を参照)が開通した。牛込北町~飯田橋終点のバス停は復活したが、乗客は多いとは言えず、必要最小限の本数のみ走っているという感じである。やはりこのエリアからは新宿駅方面への需要がメインで、大久保駅に振り分けても乗客は少ないということだろう。
休日ダイヤの失敗
前項でも述べた通り、[秋76]は平日と休日ではダイヤの構成が異なり、休日の昼間はほぼ全便が秋葉原まで運転していた。しかし、廃止の少し前の平成11年1月の改正で、休日も平日と同じく20~30分間隔へと減便する改正が行われ、休日の飯田橋~秋葉原は突然半減となってしまった。
このダイヤ改正では多くの系統が減便となったが、今後開業する大江戸線へ人員を振り分ける準備段階という意味合いもあったらしい。しかし、後楽園等への競馬・レジャー需要は今まで通り変わらなかったので車内は大混雑となった。さすがに苦情が多かったのか、結局3ヶ月後にスピード改正され、新宿駅西口~飯田橋の折返の本数を少し削るなどの工夫を行い、改正前の水準の8割程度まで回復した。
牛込柳町
牛込柳町は大久保通りと外苑東通りの交差点に位置するが、大久保通り側の停留所は交差点からやや離れたところに設置されている。ちょうど谷底の地形になっていることもあり、排ガスの滞留で昭和40年代には鉛公害の疑いと指摘され、全国的に有名になった場所でもあった(後に鉛中毒は調査の結果否定された)。
それでも、地形の都合上排ガスが籠りやすいという構造には変わりがなかったため、都営バスも協力ということか、バス停の位置が交差点から後退し、坂の途中に移設された。[秋76]が廃止された後も[飯62][橋63]が引き続き同じ位置に停車しているる
ちなみに、牛込柳町の住所は「市谷柳町」。牛込柳町という町名があるわけではなく、旧牛込区の柳町という意味合いだが、大正初期の開通時から電停名は「牛込柳町」で、都営バスや大江戸線の駅もそれを継いで同じ名となっている。
新宿区役所経由
路線の歴史の項でも述べた通り、かつて[宿74]は往復とも新宿区役所通り経由であった。都電や明治通りを経由する[2](新宿駅西口~早稲田→[早77])との差別化もあり、区役所の前を通ることもバスのセールスポイントとしていたのだろう。[宿74][秋76]の2系統が通っていた。
しかし、区役所通りは路上駐車や渋滞で詰まることも多く、隣の明治通りと比べると走りづらい通りであった。昭和51年2月の改編で新宿駅方面は終日明治通り経由に変更され新宿駅発のみが区役所通りを経由するようになり、同時期に、新宿区役所と鬼王神社の間にあった「同愛病院」停留所も廃止されている。停留所の廃止も珍しい出来事であるが、乗り降りに交通上の危険があるという問題があったのかもしれない。同愛病院といえば、昔からあるのは蔵前橋の近くにある病院だが、ここにも存在したようだ。
もっとも、歌舞伎町に隣接し、路上駐車がさらに多くなる夜間はこの区間を避ける意味もあって昭和57年の時点で19時以降、そして昭和60年頃からは17時以降は新宿駅発についても明治通り経由となっていた。そして平成8年3月の改編で[宿74]は終日往復とも明治通りを経由するようになった。[秋76]だけは始発から17時まで新宿区役所経由の運行を継続したが、平成12年12月の[秋76]廃止をもって、新宿区役所の前を通るバス路線は消滅した。
この区間には、区役所の目の前に「新宿区役所」が、また区役所通りの出口手前に「鬼王神社(きおうじんじゃ)」の各停留所があった。神社はちょうど停留所のすぐ近くにあり、今でも交差点の名は鬼王神社である。鬼王とはインパクトのある名前だが、正式には稲荷鬼王神社。江戸時代に紀伊国より勧進して建立された神社で、稲荷神社と合体して今の名前になった。災いをはらう神様として、数多くの人が参拝したという。ちなみに名前の通りというべきか、ここで行う節分は「鬼は内、福は内」。