都営バス資料館

品97

[品97]←[四97]←[507]←都電7

担当営業所

杉並支所、港南支所

運行区間・運行回数

系統・枝番 起点、経由地、終点           備考 キロ程(往/復) 平日 土曜 休日
品97-1 品川駅高輪口~魚籃坂下~広尾橋~青山一丁目駅~新宿駅東口~新宿駅西口 10.060/10.510km 47 49 42 42
品97-2 品川駅高輪口~魚籃坂下~広尾橋~青山一丁目駅~歌舞伎町~新宿駅西口 10.320/10.770km 36 36
品97折返-1 品川駅高輪口~魚籃坂下~広尾橋~青山一丁目駅 6.260/6.710km 1 1
品97出入-1 品川車庫→品川駅高輪口→青山一丁目駅→新宿駅東口→新宿駅西口 10.820km 1
品97出入-2 品川車庫→北品川→品川駅高輪口→青山一丁目駅→新宿駅東口→新宿駅西口 12.460km 1
宿91出入-1 杉並車庫~鍋屋横丁~新宿駅西口 4.770km 該当系統を参照


現在

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要               
507 S44.10.26 品川 9.767/ 9.587km 都電7系統(品川駅~四谷3)の代替で、品川車庫~天現寺橋~四谷駅が開通
507折  S44.10.26 品川 8.005km 品川車庫~慶応病院を開設
四97 S47.11.12 品川 *** 新番号化、四97とする
四97折 S48.10. 1 品川 8.005km  品川車庫~慶応病院を廃止
四97乙 S61. 3.31 品川 11.092/10.912km 平日朝ラッシュ時に、品川車庫~(第一京浜)~品川駅~四谷駅を開設
品97  H12.12.12 新宿・品川 10.820km 品川車庫~新宿駅西口に変更延長、品97とする。
品97乙 H12.12.12 新宿・品川 12.170km 同上
品97乙 H15. 4. 1 新宿・品川 *** 書類上の品97乙を削除、本系統に統合(系統としては第一京浜経由は存続)
品97 H15. 4. 1 品川・新宿 10.060/10.510km 高輪1→品川駅を泉岳寺経由から高輪警察署経由に変更。本系統を品川駅~新宿駅西口とし、品川車庫発着は出入扱いに
品97 H17. 4. 1 杉並 10.060/10.510km 杉並に移管、はとバスに運行を委託。土曜の運行について、全便歌舞伎町経由から新宿駅東口経由に変更
品97 H20. 4. 1 杉並・港南 *** 港南が参入、杉並・港南の共管とする
品97-1-1 R 3. 7.19 港・杉 10.060/10.510km 信濃町駅南口を通過する経路を設定、オリパラ期間中に設定(休日・出入も同様)

路線概要

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 品川駅から新宿駅西口を結ぶ。都電7系統の代替バスをルーツとし、現在では新宿駅西口から城南地区に向かう唯一の都営バス系統であり、距離も10kmと山手線内では比較的長い。杉並支所のほか、港南支所とのはとバス委託同士の共管となっている。
 品川駅~高輪一丁目の間は、往復で経路が異なりループ状の経路となっている。品川駅はSHINAGAWA GOOS(旧ホテルパシフィック東京)の前にある第一京
浜沿いのバス乗り場から発車となる。[反96](五反田駅~六本木ヒルズ循環)としばらく並走し、第一京浜を北上する。右には京急の高速バスターミナルや電車区跡の広大な敷地が広がるが、再開発の計画も進んでおり、10年内に山手線に予定されている新駅とともに大きな変化が訪れるのだろう。
 快調に進んで泉岳寺の交差点を左折し、バス停に停車。目の前には義士祭でお馴染みの泉岳寺の参道があり、ここから急カーブを曲がり、高輪一丁目に向けて坂を登っていく。右手にスーパー・ピーコックが見える伊皿子交差点が高輪台地のピークで、高輪一丁目のバス停がある。ここで今度は下り坂に転じ、魚籃坂を一直線に下って魚籃坂下へと向かう。
 品川駅行きは魚籃坂を登った後、高輪一丁目の交差点を右折して高輪の台地上を進む。高輪高校や東海大附属高輪高校を左手に見ながら、[反90](五反田駅~三田駅)やちぃバス高輪ルートと並走する。付近は寺社も多く、幹線道路に挟まれた閑静な道路として、都会の中ながら少しばかりゆったりとした雰囲気である。
 古くからの建物が残る高輪消防署二本榎出張所を抜けると高輪警察署の停留所で、ここからは[品93](目黒駅~大井競馬場)と合流する。左に衆議院の議員宿舎やグランドプリンスホテル新高輪の広大な敷地が見えてくる頃には品川駅も近くなり、左折してやや急な坂を下っていくと、目の前には品川駅の高輪口が開けてくる。第一京浜の突き当りで左折し、品川駅のバス乗り場で終点となる。駅の乗り換えは離れており、少しばかり不便と言える。
 さて、新宿駅行きは魚籃坂下を過ぎ、古川橋で左折して[反96]とは別れ、明治通りに入って首都高目黒線にしばらく並走する。ちょうど麻布・白金地域の境に当たり、沿線にはマンションも数多く建っていて区間利用も見られるが、古川橋から並行する[都06](渋谷駅~新橋駅)の方が利用は盛んなようだ。光林寺を過ぎ、右奥にあるフランス大使館を過ぎると首都高が逸れて行き、少しばかり右にカーブすると天現寺橋の交差点と歩道橋が見えてくる。右奥にそびえる都営アパートは都電の広尾車庫の敷地であったが、現在は跡を偲べるものは少ない。天現寺橋の停留所は交差点手前にあるため、発車後は急いで右折車線に寄せて交差点を曲がる光景が見られる。
 右折して外苑西通りに入ると、すぐに広尾橋の交差点。明治屋ストアー前の副名称が入る。日比谷線の広尾駅と乗り換えができるが、バス停の名は昔ながらの電停の名を通している。ここからは[黒77](目黒駅~千駄ヶ谷駅)としばらくの間走る。
 広尾橋から先、戦前は電車の専用軌道だったが、今や言われないと分からないであろう。次の日赤医療センター下は停留所の名の通り、学バスの日赤と直線距離は近いのだが、名が示す通り高低差はかなりのものである。左奥に広がる広尾ガーデンヒルズの最寄りでもある。
 マンションやビルが林立する風景の中をしばらく走ると、前方に首都高と六本木通りの陸橋の二重高架が見えてくる。これが西麻布交差点で、停留所は交差点の南側にある。六本木通りの系統と乗り換えが可能だが、距離は200m程度離れているのでやや時間がかかる。ここを過ぎると目の前で道が二股に分かれる。左は外苑西通りで[黒77]が通るが、[品97]はここを右に入って「墓地下」に停車する。左は青山霊園、右は都立青山公園と米軍関係施設という両側を緑に囲まれた立地で、都電の最後の時代まで専用軌道として残っていただけある。タクシーや営業車がびっしりと駐車している風景も見られ、都心のエアポケットのような空間と言えるだろう。
 右に日本学術会議の建物が見えてくると、六本木ヒルズからの環状三号と合流する。目前には乃木坂駅の真上を通る「オーバーパスするトンネル」との立体交差となるが、このトンネルを進むと台地の下に抜けるという辺り、周辺の地形の複雑さを感じることができる。トンネルをくぐった先には有名人の葬儀ではおなじみの青山斎場の停留所がある。青山霊園の敷地は左手に続き、道路が右にカーブするところでようやく墓地は終わりとなる。曲がった先は青山通りの交差点でもあり、駅もある青山一丁目の交差点である。ただし、[品97]の青山一丁目駅の停留所は交差点をかなり過ぎた北側に位置するため、地下鉄の乗り換えは少しばかり遠い。
 ここからは外苑東通りに入る。右に広がる緑と高い塀は赤坂御所、そしてカーブした先の左手の緑は神宮外苑。都心を進みながら、緑が多いことにも気づかされる。神宮外苑を過ぎるころには新宿区に入り、ほどなく歩道橋の下に「信濃町駅南口」が、そして中央線を陸橋で越えて、慶応病院の入口の少し先に「信濃町駅」停留所がある。品川方面からは南口で、新宿方面からは信濃町駅で降りるとJRとの乗り換えは便利と言えよう。かつては慶応病院発着の枝線もあり、構内に入り込んで終点となっていたようだ。
 左手の煉瓦館の建物を過ぎ、外苑東通りを過ぎると間もなく新宿通りと交差する四谷三丁目の交差点である。平成12年までは[四97]として、四谷三丁目を右折して四谷駅を終点としていたが、平成12年12月の路線改編により、左折して新宿駅西口まで達するようになった。新宿通りを進み、四谷四丁目で先ほど別れた[黒77]と交差する。道路の本線はそのまま左手に口を開けた御苑トンネルに吸い込まれていくが、バスはトンネルに入らず右手の新宿通りに入る。四谷四丁目は「大木戸」の副名称が今でも残る通り、江戸時代の甲州街道の関所で、今でも交差点近くに碑が、そしてこの先に広がる新宿御苑の大木戸門にその名を残している。
 ここを過ぎると住所も新宿となり、少しずつ繁華街の趣が強くなっていく。新宿二丁目から先は曜日によって経路が分かれ、平日・土曜はそのまま新宿通りを直進し、新宿追分で伊勢丹と新宿マルイの間を通り過ぎる。交差する明治通り側の停留所は昭和時代に新宿伊勢丹に改称されたが、なぜかこちらはそのままである。そして車も人も多い新宿の旧来からの繁華街を抜け、お昼の番組でも有名なスタジオアルタを右に、新宿駅東口の広場を左に見た先に「新宿駅東口」が、そして大ガードを抜けて新宿駅西口のバスターミナルが終点となる。この間は大回りすることもあって時間が非常にかかることも珍しくない。
 休日は新宿二丁目交差点(世界堂の角)を右折し、休日専用の新宿三丁目停留所に停車する。かつて[都03]が停車していた場所でもある。ここから靖国通りに抜け、新宿通りに比べれば幅広な道路を走る。もっとも、こちらも人の多さは相変わらず。右手には日本有数の歓楽街、歌舞伎町が広がる。そのまま直進して大ガードまで来ると平日の経路と合流となる。行き先表示にも「靖国通り経由」の文字が入るのが面白い。新宿通りが歩行者天国になるためでもあるのだろうが、時間帯に関係なく終日靖国通り経由となっている。
 なお、平日朝に品川車庫発が2回のみ運転される。杉並・港南が1本ずつ担当しており、1回は品川車庫→品川駅を八ツ山橋踏切経由で、もう1回は第一京浜まで回り込んで京急沿いに北品川経由で品川駅まで行く。逆方向の品川車庫行きは運転されていない。

歴史

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 都電7系統は、戦後は品川駅から泉岳寺・天現寺橋を回り、外苑東通り・外苑西通りを経由して四谷三丁目を結んでいた。どちらかというと市街地を環状に結ぶ形態であり、大正8年9月に白金志田町(現魚籃坂下)~車町(現泉岳寺)が開通して以降は、泉岳寺~四谷塩町(現四谷三丁目)という形で系統が引かれ、基本は変わっていない。それ以前は金杉橋~一ノ橋~古川橋~(7系統の経路と同じ)~四谷塩町という形だったようだ。
 昭和初期の時点で泉岳寺~品川駅が延伸されており、路線形態としては完成していた。四谷塩町が終点なのは今から見ると奇異かもしれないが、当時は四谷の市街地でもあり、新宿通りの市電と連絡するターミナルという扱いだったのだろう。戦中の昭和19年5月の改編で泉岳寺止まりとなるが、昭和20年末に再び品川駅に延伸され、昭和42年12月の都電の第一次撤去まで同じ区間で運行を続けた。
昭和44年10月の全線廃止までは泉岳寺発着となったが、代替バス運行に際しては、元の運行区間が基準となった。さらに、品川駅・四谷三丁目ではそれぞれ折り返しが難しいため、品川車庫・四谷駅までそれぞれ路線が延長され、特に四谷側は国鉄駅に接続することで、前よりも便利になったと言える。
 バス代替された区間であるが、この系統の代替により初めてバスが通ったところも多かった。例えば泉岳寺から魚籃坂下までの部分は、現在は品川駅から一ノ橋方面に向かうメインルートとなっているが、この区間を通ったのは[507]が戦前から通しで見ても初めてのことであった。バスが通っていてもおかしくなさそうな道路だが、戦前は市バスのエリアからは少し外れることと、戦後も都電が走っていて、都電の通らない道路、もしくは幹線道路を通って郊外に抜ける道路を中心に発展した都営バスにとっては縁のない区間だったのである。
 広尾橋~青山斎場の部分もそうと言える。天現寺橋~青山斎場までは戦前は大部分が専用軌道だったところで、バスは、明治通りの恵比寿橋から広尾橋に出て外苑西通りと直交し、そのまま愛育病院脇から中国大使館・六本木ヒルズ脇へと出るのがメインルートであった([東80])。この区間で並行する[黒77](目黒駅~千駄ヶ谷駅)は昭和51年の開通と、かなり新しい系統である。
 バス代替化後はさしたる変化もなく、乗客数も安定して30年が経過した。変化といえば、昭和61年より平日朝のみ京急の八ツ山踏切をパスする第一京浜国道経由が走り始めたことだろう。朝ラッシュ時は開かずの踏切になってしまうことの対策として迂回運行を始めたものだが、詳しくは品川の[品93]の項を参照のこと。
大きな変化が訪れるのは平成12年12月のこと、大江戸線全通に伴い [都03](新宿駅西口~晴海埠頭)や[田70](港区スポーツセンター~新宿駅西口)が短縮・廃止され、新宿から新宿通りを東に向かうバス路線が消滅しないように[四97]は四谷側を切り捨てて新宿駅西口発着となった。
 これにより、新宿と品川を結ぶ山手線内でも有数の長い系統になった。昭和の時代から収支係数は110程度とやや赤字で、この傾向は現在でも変わっていないと思われる。
新宿駅延伸にあわせ、運行の効率化もあってか新宿が運行に参入し、品川との共管となった。当初は新宿の比率がやや高く、従来の日野車に加えて新宿支所のバラエティ豊かな車が入るようになり、CNGノンステップバスやリフト付低床バスなども運行に入る姿が見られた。
 平成15年4月には経路変更が行われ、品川駅~高輪一丁目の区間がループ状の経路で折り返すようになった。品川車庫発着の便は出入庫だけとなり、品川車庫まで行かない運用がメインとなっていたが、移管の
布石だったのかもしれない。
そして、平成17年からは杉並に移管し、はとバスに運行が委託された。杉並移管後は品川車庫発平日の始発2便だけとなり、ほぼ全便が品川駅発着となった。車庫から沿線は離れており、この品川車庫発の便は杉並車庫からはるばる回送するという荒業を見せている。もっとも、新宿・品川共管時代も、新宿車庫~品川車庫の長距離回送は存在したので、当時の運用にはやや疑問がつくところだが……。
 平成20年からは港南がはとバスに委託されることにより、[品97]に参入し杉並との共管になった。ただし、運用の都合なのか、平日早朝の1便は相変わらず杉並車庫→品川車庫を回送している。
 ここ十数年で目まぐるしく所管が変わった系統ではあるが、路線維持のためには背に腹は変えられぬといったところか。平成12年の大江戸線改編以降も、わずかに本数は目減りしているものの、毎時3本程度は運転されており、使える最低限の本数は確保されている。今後とも頑張ってほしいものである。
 なお、休憩については毎度杉並・港南の車庫まで出入庫を行っているとタイムロスが大きいため、新宿駅西口から新宿車庫まで回送し、新宿車庫の敷地の一部を間借りしている。そのため、新宿車庫には[品97]用の他車庫スペースが事務棟の脇に用意されている。

短い命、「慶応病院」

 昔から[品97]は全線通しの運用が基本だが、代替当時は品川車庫~慶応病院の折り返しの設定があった。おおよそ昼間に1時間に1本の割合であったようだが、どこで折り返していたかというと、何と慶応病院構内で折り返していたのである。病院の正面玄関付近にポールがあり、そこから客扱いを行っていた。折り返し線のみ停車する停留所で、車内の路線図には記載されていたが、配布の案内図からはほぼ無視されていた。病院からの利便性を図ろうとしたのかもしれないが、乗客は定着しなかったようで4年も経たずに廃止されてしまった。
 なお、慶応病院折り返しは同時期に代替された[533]→[四98]にも存在した。

第一京浜経由&靖国通り経由

 平日朝のみの第一京浜国道経由は、平成12年までは前面に札を掲示して対応しており、方向幕の表示は本線と共通だった。それが平成12年12月の幕交換で品川車は専用の幕を作り、次いで平成13年5月頃に新宿車についても同じデザインで作った。「第一京浜国道経由」が丸囲みされた独特な表示である。
 このときは、休日の靖国通り経由は本線と同じ表示をしていたが、平成18年の杉並移管後はこの表示も専用の表示が作られた。第一京浜経由とともに以前より少し詰まった表示である。第一京浜経由に準じたデザインとなったが、新宿駅発はすぐに迂回区間が終わるため、全区間でご丁寧に表示する意味はどこまであるのかは謎である。第一京浜国道経由も品川駅から先は本線と全く同じなので表示の意味はあまりない。
 平成20年の港南参入にあたって港南に新しく装備された方向幕では書体や表示方法が多少変わり、橙色字で囲む四角形も多少変わっているのが目新しい。
 なお、LEDの行き先表示では、前面は一か所の経由地しか表示しないため、第一京浜や靖国通り経由の場合は通常の経由地である「天現寺橋」が表示れさず、以前より退化しているのが残念だ。

青山一丁目駅発

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 品川駅~青山一丁目駅の折り返しは休日の夜(かつては平日)に1往復のみと影は薄いが、マラソンでの交通規制がかかったときは出番となる。
 本線の青山一丁目駅は青山通りの交差点の北側にあるのだが、品川から来た青山一丁目駅止まりは青山通り手前で右折し、かつての[田70](新宿駅西口~港区スポーツセンター)の青山一丁目駅南口で終点となる。現在は降車専用となっており、[田70]を継ぐ港区コミュニティバス「ちぃばす」赤坂ルートの南青山一丁目停留所がある。その後、左折を2回繰り返して青山通りに出て、青山通り上の青山一丁目駅停留所から品川方面への客扱いを始める。[茶81](→)廃止後は劇場バス(国立劇場→渋谷駅)が降車するのみであり、週1回だけ定期便が発車するポールというのもなかなか面白い。以前はこの停留所を使っておらず、折り返しは赤坂高校(現青山いきいきプラザ入口)から営業運転という扱いだった。

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