都営バス資料館

渋谷営業所

車庫の概要

渋谷駅から恵比寿方面にしばらく南下した明治通り沿いにあり、敷地に沿うように半ば暗渠となって渋谷川が流れている。戦後に振られた営業所の文字は「B」。戦後すぐに、品川のAの次に時計回りに割り当てられた名残である。
営業所の背後には、間もなく地下化される東急東横線の高架が走る。明治通り側の敷地には営業所の建物と一体化して渋谷東二丁目第二アパートがあり、細い路地を挟んで、第二車庫とでも言うべき細長い車庫がある。第二車庫には交通局の大和寮がある。また、出口が山手線の線路沿いの道に接しているため、山手線の車窓からも見ることができる。
 渋谷は古くからの歴史ある営業所で、渋谷駅ターミナルを発着する系統を中心に所管している。この役割は開設時から変わっておらず、はとバス委託などによる移管系統が近年数多く発生している中で、比較的路線の動きの少ない営業所と言える。渋谷駅は東京都でも運行本数において最大級の規模を誇るバスターミナルで、都営バス単独で見ても、一二を争うほどの乗降客数の多いターミナルとなっている。渋谷営業所は、そのターミナルを発着するほとんどの路線を所管しており、渋谷駅~六本木駅~新橋駅を結ぶ[都01]や、通学や通院で一日中混雑する日赤医療センター行きの学バス[学03]など、本数・乗車人員ともに非常に多い都営バスの花形路線を複数所管している。沿線には城南の商業地も多く、六本木ヒルズ・赤坂アークヒルズといった再開発地区にも乗り入れているのが特徴である。西部地区では最も活気のある営業所、まさに都営バスの看板営業所であると言えるだろう。

基本データ

住所 渋 谷…渋谷区東二丁目25番36号 (昭和41年4月1日住居表示実施)
開設期間 渋 谷…昭和3年5月1日~
交通機関 渋 谷…バス:渋谷車庫(都06・田87) 鉄道: [JR・東急・京王・地下鉄]渋谷
基本配置 旧基本車種:三菱、旧合成音声機:クラリオン、旧次停留所機:クラリオン

沿革

年月日 できごと
S 3. 5. 1 創業時の桜田門出張所を移転、渋谷出張所が開所
S16. 9. 5 事業拡張のため、青山分車庫を開設
S17. 9.16 青山分車庫を廃止
S30. 4. 1 目黒分車庫を開設
S30. 6. 1 目黒分車庫が営業所に格上げ
S42.12.10 都電代替運行のため、青山分車庫を開設
S43. 3.31 トロリーバス代替運行のため、戸山支所を開設
S43. 9.29 青山分車庫を支所に格上げ
S44. 4. 1 渋谷車庫の建て替えのため、機能を全て青山に移転し、青山支所を廃止して渋谷営業所とする
S46.12. 1 戸山支所が移転、早稲田営業所に格上げ
S47. 2.27 建て替え完了のため、渋谷営業所を元の位置に再移転、再び青山分車庫を開設
S52. 3. 7 青山分車庫を廃止
H12.12.12 新宿営業所の格下げに伴い、新宿支所が渋谷営業所所属となる

所管系統

系統・枝番 起点、経由地、終点           備考 キロ程(往/復) 平日 土曜 休日
学03 渋谷駅~東4~日赤医療センター 2.470/1.780km 166 166 147 147 118 118
学06 恵比寿駅~広尾高校~東4~日赤医療センター 1.620/1.600km 105 105 86 86 55 55
学06折返-1 恵比寿駅←(急行)←東京女学館(構内) 1.300km 2
田87 渋谷駅~渋谷車庫~恵比寿駅~魚籃坂下~田町駅 5.700km 123 124 122 123 110 110
田87出入-3 渋谷車庫→恵比寿駅→魚籃坂下→田町駅 4.870km 1 1
田87出入-2 渋谷駅←渋谷車庫←東2 1.010km 6 5 5
RH01 渋谷駅~南青山7(←六本木けやき坂)~六本木ヒルズ 2.520/3.510km 51 51 37 37 38 38
都01甲 渋谷駅~南青山7~六本木駅~赤坂アークヒルズ~新橋駅 5.510km 113 114 94 94 78 78
都01甲折返-2 渋谷駅→南青山7→六本木駅→赤坂アークヒルズ→溜池 4.050km 1 1
都01甲折返-3 渋谷駅→青山学院中等部→南青山7…南青山6→渋谷駅 3.240km 1
都01甲折返-4 渋谷駅~南青山7~六本木駅~赤坂アークヒルズ 3.750km 91 94 50 52 36 37
都01甲折返-5 六本木駅→赤坂アークヒルズ→新橋駅 2.780km 1
都06 渋谷駅~渋谷車庫~天現寺橋~赤羽橋駅~大門駅~新橋駅 8.510/8.310km 81 83 72 73 59 60
都06折返-1 渋谷駅~渋谷車庫~天現寺橋~赤羽橋駅 5.950/5.530km 41 43 20 21 29 30
都06折返-2 天現寺橋→赤羽橋駅→大門駅→新橋駅 5.740km 3 2 1
都06折返-3 天現寺橋→赤羽橋駅 3.180km 2 1
学03乙 渋谷駅←(急行)←聖心女子大学(臨時) 0.810km ** ** ** ** ** **
学03折返-1 渋谷駅←(急行)←東京女学館(構内) 1.460km ** ** ** ** ** **
学03折返-2 渋谷駅←(急行)←国学院大学(臨時) 1.100km ** ** ** ** ** **
田87折返-1 北里研究所→(急行)→田町駅(臨時) 2.540km ** ** ** ** ** **
田87折返-2 渋谷駅←(急行)←北里研究所(臨時) 3.160km ** ** ** ** ** **


現在

歴代所管一覧

年月日 所管開始時の区間 所管開始 所管終了 備考
1→田87 渋谷駅~田町駅 S20. 8以前 運転中 →2系統[2]を分離
2[1] 渋谷駅~新宿追分 S21. 3.15 S23.10.31 →1系統に統合
101 都立高校~東京駅南口 S22. 6.25 S30. 3.31 →移管(目黒)
103→東83 駒沢~東京駅南口 S22. 6.25 S52.12.15 廃止
3 品川駅~東品川 S23. 6. 5 S23年 →移管(品川)
113 自由が丘~東京駅南口 S23.11. 1 S30. 3.31 →移管(目黒)
2[2] 渋谷駅~新宿追分 S24. 6. 1 S25. 9.17 →4系統に統合、移管(早稲田)
123→東85 幡ヶ谷~東京駅八重洲口 S25. 5. 6 S52.12.15 廃止
53→学03 渋谷駅~赤十字病院 S25. 9.18 運転中
102→東82 等々力~東京駅八重洲口 S26. 5.21 H 2. 3.30 →渋88に統合
56→学06 恵比寿駅~赤十字病院 S33.12.15 運転中
76→橋88 渋谷駅~東京タワー S35. 9. 4 S54.11.22 →渋88に短縮
500 東京駅八重洲口~新橋駅循環 S39. 3. 1 S41. 3.31 廃止(夜間バス)
501 東京駅八重洲口→渋谷車庫 S39. 3. 1 S41. 3.31 廃止(夜間バス)
46[3]→茶81 渋谷駅~隼町~御茶ノ水駅 S41.11. 1 H12.12.11 廃止
506→橋89→都01 渋谷駅~六本木~新橋駅 S42.12.10 運転中
139→東83 桜新町~高速~東京駅南口 S42.12.25 S54.11.22 廃止
509→銀86 渋谷駅~豊海水産埠頭 S43. 9.29 S57.12.25 →[銀16]に統合、移管(江東)
510→茶80 渋谷駅~四谷駅~御茶ノ水駅 S43. 9.29 S54.11.22 廃止
渋88 渋谷駅~東京タワー S54.11.23 H20. 3.31 →移管(品川)
深夜01 渋谷駅~六本木~新橋駅 S63.12. 5 運転中
都06 渋谷駅~赤羽橋~新橋駅 H11. 7.20 運転中
急行01 渋谷駅~六本木駅~新橋駅 H12.12.12 H15. 4.24 廃止
RH01 渋谷駅~六本木ヒルズ H15.10.10 運転中

車庫の歴史

 渋谷営業所は歴史ある営業所である。都営バス(創業当時は市バス)の事業が始まったのは大正13年3月のことで、関東大震災によって被害を受けた路面電車の代替が目的だった。その後、バス事業の恒久化により仮設の車庫から本格的なバス車庫の設備を持つ土地に移転することになるのだが、渋谷車庫は、昭和3年に誕生した都営バス本格車庫一期生の五つ(浜松町・渋谷・新宿・大塚・新谷町)のうちの一つである。

▲渋谷町全図(渋谷町報社、昭和3)
創業当時に城南・城西方面を所管していた桜田門出張所が新宿と渋谷に分離して誕生したもので、この5ヶ所のうち現在も同じ土地で残っているのは渋谷と大塚だけであることから、その由緒正しさが分かるというものだろう。それ以前の地図を見ると、「復興局技術試験所」の文字が見える。復興局は関東大震災の復興事業を推進した内務省外局(大正13~昭和5年設置)なので、国の土地を転用したのだろうか。昭和12年の地図(下図)では、現在の入庫口側は「市技術試験所」の文字がまだ見えるため、今の敷地を分割して使っていたのかもしれない。

▲渋谷区詳細図(東京地形社、昭和12)
 渋谷駅を発着する路線を管轄しているのは戦前から変わりない。戦前は、幹線として市電と並行するように都心に直通する系統をメインに所管していた。具体的には、渋谷駅から青山通り経由と六本木通りの2通りの経路で都心に出て、銀座もしくは東京駅に達するというものである。一時期は、そこからさらに日本橋・江東区方面に突き抜ける運行も行っていた。例えば、昭和9年7月現在(路線編の「過去の所管系統一覧」を参照)では、[4][5]という双子系統が存在した。[4]渋谷駅→六本木通り→日比谷→銀座・中央通り→蛎殻町、[5]渋谷駅→青山通り→日比谷→東京駅・丸ノ内→蛎殻町と絡みあう2通りの経路を設定し、[4]で行ったら[5]で帰るという互い違いの経路となっていた。この絡みか、洲崎→永代橋→東京駅→銀座4→永代橋→洲崎という城東側の系統も持っていたのが面白い。昭和10年代に入ると、複雑な系統を一本化して、[5]は渋谷駅~銀座四丁目~水天宮~森下町~羅漢寺(現西大島駅付近)と市バス営業エリア内を東西に貫通する長距離系統へと発展していった。

▲昭和11年6月現在(国土変遷アーカイブ、陸軍撮影)
また、現在の[市01](新橋駅~築地中央市場)の前身となる新橋駅~魚市場~有楽町駅という系統を渋谷が所管していた。当時で言えば浜松町営業所のほうがずっと近かったはずだが、受け持ち系統数の都合だろうか。昭和6年に開通してから、戦前は一貫して渋谷が所管していた。なお、短距離路線ゆえ、通常は1区10銭のところ全区間5銭という特別運賃になっていた。
昭和12年には、高田馬場駅~西大久保(現東新宿駅付近)という短距離系統が明治通り南進して[32]青山六丁目(現南青山五丁目)~渋谷駅~(明治通り)~早稲田(後に[8])となって渋谷も担当するようになり、昭和15年初頭には、新たに[7]渋谷駅~青山四丁目(現外苑前駅付近)~千駄ヶ谷町~大木戸(現四谷四丁目)~新宿駅という路線が開設された。いずれも都心直通ではない路線で、東京の市街地の拡がりに伴って新たにできた路線と言えるだろう。
昭和16年9月に、拡張計画により青山営業所が開設される。市電の青山車庫を間借りして開設されていたと考えられるが、開設期間が短かったこともあり、実態がどんなものであったかは謎が多い。さらに昭和17年1月には、交通調整により東京市内の交通を市バスが一元的に運行することになったため、路線の大規模な改編が行われ、系統番号も変更された。明治通りの新宿方面の系統は青山が持ち、渋谷駅から都心方面の系統と、恵比寿駅方面の東京横浜電鉄から引き継いだ路線を渋谷が所管することになった。東京横浜電鉄から引き継いだのは、具体的には、[6]高樹町~恵比寿駅~田町駅である。恵比寿~田町は昭和3年にエビス乗合自動車が開業した路線で、路線の形が大きく変わらずに現在も[田87](田町駅~渋谷駅)と[学06](恵比寿駅~日赤医療センター)として走っており、歴史を感じる路線である。
しかし、戦時中の物資不足の中で路線は徐々に減らされていく。同年9月には青山が閉所されてしまった。わずか1年の開設期間しかなかったことになる。
その後も市電並行区間の都心方面に向かう系統を中心に急速に廃止が進み、昭和18年6月・昭和19年5月の改編を経て、渋谷管轄は、恵比寿駅~東京駅、渋谷駅~田町駅、渋谷駅~新宿追分の3路線が残るのみとなった。そして、昭和20年3月の東京大空襲、5月の山の手地域の空襲を経て、残った車両と燃料で運行できた系統は都バス全体でわずかに12系統、渋谷の所管では[1]渋谷駅~田町駅のみだった。この状態でも残ったのは、[1]系統にいかに需要があったかが伺える。

▲昭和22年9月現在(国土変遷アーカイブ、米軍撮影)
上の昭和22年現在の航空写真を見ると、既に現在の敷地は形成されているものの、南側は屋根に覆われていてどのように車輛を格納していたのかはよく分からない。ただ、露天になっている部分や、この後の昭和38年の航空写真でも基本的な建物配置が変わっていないことから察するに、現在のような東二丁目からの出庫口は既にできていたと思われる。
 戦後は、渋谷駅を貫通して都心と郊外を直通する東急との相互乗入路線がまずは発達した。東急は相互乗入に熱心だったようで、渋谷管轄では昭和22年6月の第一期で[101](都立高校~恵比寿駅~東京駅南口→[東80])、[103](駒沢~渋谷駅~東京駅南口→[東84])が、昭和23年11月には[113](自由が丘~東京駅南口→[東98])が開通している。まだ品川・目黒営業所は復活しておらず、城南の路線を終戦直後は全て受け持っていた。
 昭和23年6月には[3](品川駅~東品川→[品93])が開通した。この時期は品川営業所は既に復活していたが、当時の管轄路線一覧によると開通当初は渋谷が所管しており、すぐ品川に移管されたのが謎めいている。さらに、昭和25年には[123](幡ヶ谷~東京駅八重洲口→[東85])、昭和26年には[102](等々力~東京駅八重洲口→[東82])が相次いで開通、渋谷駅を貫通する路線は3系統になった。同年9月には、通学生の便宜を図るため、学バスとして[53](渋谷駅~赤十字病院→[学03])が開通した。

▲東京都地図要覧(国際地学協会、昭35)

▲昭和38年現在(goo 地図、国土地理院撮影)
昭和30年4月、目黒営業所の開設に伴い目黒駅・恵比寿駅を通る[101]・[113]が移管され、渋谷の担当エリアは渋谷駅を通る路線だけとなった。昭和33年には[56] (恵比寿駅~赤十字病院→[学06])が開通しているが、学バスゆえ特殊例と言えるだろう。今に至るまで、[学06]は渋谷駅を通らない所管唯一の一般系統となっている。
 東京タワーの開場(昭和33年)に対応したのか、昭和35年には[76](渋谷駅~東京タワー)が開通した。山手線内でのこの時期の新線開通は珍しいと言える。
 昭和40年代には地下鉄の発達や渋滞の悪化で相互乗入路線も少しずつ非効率になってきたが、代わりに登場したのが都電代替バスである。昭和42年12月の第一次撤去で都電6系統(渋谷駅~新橋)が廃止され、代替で[506](→[橋89])が走り始めた。このとき、都電の青山車庫を一部間借りして代替バスの車庫とした。元々都電の教習所や交通局病院を擁する広い敷地だったため、都電の車庫として使いながらでもバスの車庫に転用するにも余裕があったと思われる。渋谷駅の都電ホームも代替バスのホームに転用された。
同時期に、この時代には珍しい新たな相互乗入系統を開通させている。首都高速を走る通勤バス[139](桜新町~東京駅南口→[東83])で、朝夕のみ運転だった。首都高経由時は渋谷駅を通過する設定するだったのも面白い。
昭和43年9月には都電9・10系統(渋谷駅~新佃島・須田町)が廃止され、代替で[509][510](→[銀86][茶80])が運行を開始した。都電の青山車庫は閉所となり、バスの車庫としてさらに拡充された。同年3月には、戸山にあったトロリーバスの車庫も全線廃止により撤去され、代替バスの車庫こと戸山支所として新たなスタートを切っている。支所格なので渋谷の配下に付いたが、路線の移動は特になく、昭和46年に早稲田営業所に格上げされたことにより渋谷の手を離れた。三菱車の指定営業所だったのが両者の共通点である。
年表上では昭和43年9月~昭和44年3月に青山を一旦支所に格上げしていることになっているが、実態はよく分かっていない。例えば、局番はどうしていたかといったことも不明確なままである。
 昭和44年4月~昭和47年2月の間の3年ほどは、渋谷営業所の建て替えに伴って青山に渋谷営業所の機能を全て移していた。このときは青山分車庫/支所という名は消え、渋谷営業所と言えば青山を指す状態になっていた。多少紛らわしいので注意されたい。昭和47年には東二丁目の都営アパートと営業所の建物が完成して今の姿となり、再び渋谷と青山が分離した。

▲昭和49年現在(国土情報ウェブマッピングシステム)
青山は分駐所扱いのため、両方とも車輛の局番は「B」扱いだが、車輛配置は分かれていたようだ。また、所管系統も厳密に分かれており、青山は都電代替系統関連を中心に、渋谷はそれ以外と相互乗入系統を中心に保持していた。青山は車庫の建物が内側に引っ込み、入口と出口以外の青山通りに面した部分はアパートやビルになっていたため、中の様子は外から直接うかがいにくい車庫だったと思われる。
青山がバスの車庫として活躍した期間は短く、昭和52年3月には閉所し、車庫の跡地は国連大学やこどもの城になっている。青山の閉所により、渋谷にて再び全ての系統・車輛を所管するようになった。
新しい渋谷営業所は上に高層の都営アパートが被さるような構造で、品川・早稲田・千住・葛西など、この年代に建設された車庫の構造としては標準的である。出庫口と入庫口は変わっていない。明治通りからは他のビルが邪魔しているため車庫の様子は裏手に回る必要があるが、裏手からは比較的自由に中を見ることができる。都営アパートの明治通り寄りには東京電力の渋谷営業所があるが、かつて東京都交通局が東京市電気局と名乗り電気事業を営んでいたころの名残かもしれない。
 さて、昭和47年に系統番号が漢字+数字2桁になった際には、都心から渋谷方面を示す80番代の数字が全て揃っていたことからも、受け持ち路線が多かったことが分かる。渋谷駅~新橋駅は当時目黒所管だった[橋85](→[都06])も含めて5ルート、渋谷駅~東京駅は4ルートあるという複雑さだった。
 しかし、都心部の渋滞や地下鉄の相互乗入、そして区間制から地帯制、そして均一運賃制(昭和49年)になるに従って、長距離路線はどんどん非効率な存在になり、昭和50年代の再建に伴う路線改編で多くの路線が整理・集約された。昭和52年の東急新玉川線の開通(渋谷~二子玉川園)で、路線の意義がさらに低下したこともあるのだろう。
 昭和49年8月で既に[東84]は分断されていたが、52年12月の改編で[東84][東85]が廃止、昭和54年12月には[茶80]に加えて[東83]も廃止された。昭和57年12月の改編では[銀86]も大幅に短縮され渋谷は撤退、昭和59年2月には最後まで残っていた相互乗入路線[東82]が渋谷駅で分断され、渋谷駅を貫通する相互乗入路線は全てなくなった。乗入先の東急には、今も分断後の路線が残っているのが名残である。
これにより、残った所管路線は[茶81][渋82][田87][渋88][橋89]と学バス[学03][学06]の7系統となった。このままジリ貧かと思われたが、起死回生の切り札として昭和59年に登場したのが都市新バス第一号[都01]である。グレードの高い専用車での運行、バスロケーション・運行管理システムやバスレーンの整備を集中的に行い、 [橋89]から大きく生まれ変わった。この施策は好評をもって迎えられ、乗客数も回復、これを受けて他営業所でも都市新バスの系統が開通していった。
ただし、[都01]の陰で、裏通りの系統となる[東82](渋谷駅~東京駅八重洲口)・[渋88](渋谷駅~東京タワー)は年ごとに減少していき、平成2年には[渋88]に全て統合された。そういう意味では、渋谷は超幹線路線への集約が進んだとも言えるだろう。
その[都01]も、平成9年の南北線・銀座線の溜池山王駅開業で大きく打撃を受け、平成12年の南北線・三田線の延伸、大江戸線開通により他の所管系統も大きく影響を受けた。半蔵門線の延伸に伴い年々本数が減らされていた[茶81]は、ついにこの改編で廃止されてしまった。[渋88]も[東82]由来だった東京駅八重洲口までの運行が廃止され、渋谷駅~新橋駅北口の運行に一本化された。
平成12年12月改編では、[都01]の新たな試みとして、同区間に急行バス[急行01]を運行したものの利用は伸びずに低迷し2年後に廃止された。

▲Google Mapより車庫近辺(平成22年頃)
本数も減少する中でどうなるかと思いきや、平成15年の六本木ヒルズの街開きにあたり、六本木ヒルズ構内まで走らせる枝線を開設、半年後には森ビルの提供での豪華専用車による直行バス[RH01]も開通させるなど積極策を講じ、その後には東京ミッドタウンまでの枝線も一時期開設する。まだまだ都市新バス第一号の力は衰えずといったところだろう。
このほか特筆すべき点として、[都06]の受け入れが挙げられる。目黒の将来的な縮小を見越して、平成11年7月に一部の運用が移管されてきたが、平成12年12月に担当組数が拡大、平成15年3月に目黒の縮小により渋谷単独の所管になった。
また、他に移管した数少ない系統としては[渋88]が挙げられる。本数はさらに減少していたが、平成20年4月に一旦品川に移管された後、1年後の平成21年4月に新宿に移管、はとバスに運行を委託された。現在では、渋谷営業所以外で唯一、渋谷駅東口ターミナルに乗り入れる都営バス路線となっている。

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