都営バス資料館

東43

[東43]←[17]

担当営業所

北営業所

運行区間・運行回数

系統・枝番 起点、経由地、終点           備考 キロ程(往/復) 平日 土曜 休日
東43甲-1 荒川土手操車所→小台→田端駅→駒込病院→御茶ノ水駅→東京駅北口 12.390km 27 23 22
東43甲-2 荒川土手←小台←田端駅←駒込病院←御茶ノ水駅←東京駅北口 12.210km 28 24 23
東43甲折返-1 荒川土手操車所→小台→田端駅→駒込病院 6.070km 46 36 29
東43甲折返-2 荒川土手←小台←田端駅←駒込病院 5.970km 49 40 30
東43甲折返-3 荒川土手操車所→小台→田端駅 5.050km 1 1
東43甲折返-4 荒川土手←小台←田端駅 4.950km 2 2 2
東43甲折返-5 豊島5団地~小台~田端駅~駒込病院 5.170km 9 7 3
東43甲折返-6 向丘2→御茶ノ水駅→東京駅北口 5.580km 1 1 1
東43丙折返-1 江北駅~荒川土手~小台~田端駅~駒込病院 7.260/7.360km 5 4 5 4 5 4


現在

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要               
17 S23.12.15 大塚 9.587km 荒川土手~上野広小路が開通
17 S24. 8. 1 滝野川 3.870km 荒川土手~田端町(現下田端?)に変更短縮、滝野川に移管
17 S25. 2.25 滝野川 9.099km 田端町~御茶ノ水駅を延長
17 S27. 7.10 滝野川 11.936km 御茶ノ水駅~神田橋~東京駅北口を延長
17 S28.12.31 滝野川 12.386km 江北橋の区間の経路変更?
17 S36.11. 1 滝野川 15.866km 西新井駅~荒川土手を延長、従来の系統は折返に
17 S41.12.22 滝野川 15.866km 橋の新設により新江北橋経由に変更
17 S46. 3.18 滝野川 15.866/15.886km 神田錦町付近の一方通行規制により一部経路変更
17 S47. 7.30 滝野川 15.866/16.136km 田端駅→田端新町3間を下田端経由から下田端・田端新町1経由に変更
東43  S51. 6.14 滝野川 12.386/12.658km 西新井駅~荒川土手を短縮、折返を本系統に
東43  S55. 4. 4 12.386/12.658km 滝野川営業所・昭和町分車庫の統合移転により北営業所に移管
東43乙 H 1. 1.23 12.834km 荒川土手→江北橋下→東京駅北口を開設
東43  H 1. 4. 1 11.834/11.854km 田端駅→田端新町3間を下田端・田端新町1経由から下田端ショートカット経由に変更
東43  H18. 4. 1 12.290/12.110km キロ程変更、乙系統を告示から削除(運行自体は存続)
東43  H20. 3.30 荒川土手~江北駅を延長
東43乙 H22. 4. 1 *** 荒川土手→江北橋下→東京駅北口を廃止
東43  H24. 4. 1 北・巣鴨 *** 北・巣鴨の共管とする
東43  H26. 4. 1 *** 北の単独所管とする
東43  H28. 4. 1 *** 江北駅~東京駅北口の通し運転が消滅、江北駅~駒込病院、荒川土手~東京駅北口となる
東43甲-1 H29.11. 6 12.390km 東京駅北口ロータリーに乗り入れ、東京駅北口→大手町の経路変更
東43甲折返-7 R 5. 3.27 4.150km 豊島5団地~田端駅の設定廃止

路線概要

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東京駅北口から北上し、田端駅・小台・宮城地区を経由して荒川土手に至る都営バスの中では長距離路線。ただし、本数の多くは駒込病院発着となっている。さらに先の江北駅までも僅かながら運転されているが、駒込病院発着のみ。そのほか、朝ラッシュ時には本線から飛び出る駒込病院~豊島五丁目団地も設定されている。
起点は荒川土手操車場の中だが、終点は一つ前の荒川土手(江北橋下)。操車場へは係員の誘導でバックで入るため、乗客を乗せたままの入構を避けたのかもしれない。なお、一部便は日暮里舎人ライナーへのアクセス向上のため江北駅発着となっているが、本数はごく僅かとなっている。
江北橋を渡り宮城交差点を左折して宮城二丁目、ここから次第に乗客が増えていく。
宮城・小台地区の細い道を右へ左へと曲がり、こまめに停留所に止まっては乗客を乗せていく。以前工場があった場所にマンションが建つようになり、都心回帰と相まって住民が増えつつあるという。足立区コミュニティバス「はるかぜ」ともすれちがう。
小台橋で隅田川を渡りバスは荒川区西尾久地区へ。
都電荒川線との乗換地点である小台付近は小規模ながらも商店街が形成されており、買い物客が短距離で利用する光景も見られる。田端新町三丁目の先でバスは踏切を渡る。この踏切はJR東北本線の上野駅と尾久車両センターとの出入庫線のもので、ラッシュ時前後は遮断機が閉まりやすいが回数はそこまで多くはない。乗車中に目の前で踏切が閉まったら、ある意味運が良いのかもしれない。下田端停留所を過ぎるとバスは田端陸橋への坂道を上り、頂上にある交差点を右折して田端駅前に到着。乗客の大半はここで下車し、駒込病院への客を中心に少なからず乗りこんでくる。始発最終時間帯はここ発着となる。
立派な切り通しを抜けて不忍通りとの交差点を過ぎると動坂。その入口に動坂下の停留所がある。
この動坂は、江戸時代に「不動坂」と呼ばれていた。
江戸時代に坂の下に万行上人という者が庵を建てて不動明王像を安置したことから不動坂と呼ばれるようになったが、いつしか人々は坂道名を省略するようになり、動坂という名前で定着したそうだ。住居表示実施前は町名の「動坂町」を停留所名にしていたが、町名変更で今までを活かしつつ現在の名となった。
動坂を登ると駒込病院前に到着。駒込病院行は構内の操車場まで乗ることが可能であり、車内放送にもその旨のアナウンスが流れる。
東京駅行きはそのまま道路を直進し、駒本小学校交差点を左折して本郷通りへ、ここから先は[茶51]と併走する区間である。向丘二丁目停留所は[草63]の白山上停留所と実は近い。さらに本郷通りを南へ、本郷追分停留所からしばらくは東京大学を左手に見ながら
走っていく。農学部、正門、赤門とそれぞれ主要な入口ごとに停留所が設けられている。誰でも構内に入れるので、緑豊かなキャンパスを散歩するのもいいだろう。東大構内の学バス[学01][学07]の停留所までは徒歩数分である。
本郷三丁目駅を過ぎ、バスは壱岐坂上の先にある交差点を右折し、順天堂病院前を経由して外堀通りを僅かに走り御茶ノ水駅交差点を右折し、お茶の水橋の上にある御茶ノ水駅に到着する。
この停留所はJR線の改札口まで僅か10秒程度という近さ。それが理由で[東43]を選ぶ客もいる。
楽器店が建ちならぶ神田駿河台の坂道を下り神田錦町交差点を左折、一方通行路を僅かに走り美土代町交差点を右折して再び本郷通りを南下、神田橋からは日比谷通りへと名前を変えて大手町のビジネス街へと進んでいく。大手町停留所を過ぎ大手町交差点を直進、左手にレトロな意匠の東京銀行協会ビルが見えてくるとバスは左折して、正面に赤煉瓦の東京駅の駅舎が見えてくると終点の東京駅丸の内北口である。

路線の歴史

 昭和19年4月に開通した[50](荒川土手~田端駅)が起源となる系統である。良質な原料に恵まれ船運のアクセスも良かった小台・宮城地区は、かつては煉瓦の一大生産地で、その他の工業も含め工場が林立していたが、バス路線の設定は太平洋戦争末期になってからであった。ちなみに、江戸時代から西新井方面への足として活用された隅田川の小台の渡しの位置に橋が架けられたのも昭和8年のことである。
 戦中の資材不足で路線縮小が続く時期にもかかわらず純粋な新線が開業したのは、軍需工場の役割も果たしていた沿線への輸送だったものだろう。途中停留所は豊島橋・小台橋・小台・田端新町三丁目のみで、かなりの急行運転だった。田端駅は現在のタクシー乗り場付近で折り返していたものと思われる。もっとも、空襲によりこの沿線は多くが焼けてしまい、昭和20年4月で廃止されてしまった。
 戦後の復旧は早く、昭和21年3月の改編で[10](王子駅~田端新町三丁目~小台~荒川土手→[王40])が開通した。現在の[王40]の原型だが、当初は小台経由の区間を優先して救済したのは少し不思議である。後に豊島五丁目経由に戻り、この区間は再び休止となったようだ。
 昭和23年12月には新線として[17](上野広小路~荒川土手)が開通した。現在の東京駅発着とは異なり田端駅は経由しておらず、上野広小路から不忍通りを北上し道灌山下を右折して西日暮里駅・三河島四丁目(現・荒川四丁目)・田端新町三丁目を経由していた。休止状態だった道灌山下~三河島四丁目の復活を優先したのだろうか。
 当時の認可申請の記録では、昭和23年8月に大塚所管で西新井大師~荒川土手~田端新町三丁目~三河島四丁目~浅草という系統の新設が認可されている。[9](王子駅~浅草→[草64])を組み替えて開業する計画で、「交通機関と隔離された小台町及南宮城町一帯の住民の便宜を図る」目的で、浅草方面との連絡が不便という目的で申請したことになっているが、実際に行われた改編は異なっている。同時期の申請書類では休止区間の復旧一覧のうち田端新町三丁目~豊島橋の区間が「交通機関なく急を要する」として優先順位第一位で書かれており、重要視されていたのは間違いないが、謎が多い。
不忍通り経由であったのは僅かな期間であり、昭和24年8月に[116](川口駅~駒込駅~上野広小路~東京駅八重洲口)が開通したことにより田端に終点が変更され、さらに昭和25年2月に本郷通りに抜けて御茶ノ水駅まで、昭和27年7月には東京駅北口まで延長されて現在の姿が出来上がった。
昭和28年には旧江北橋([王45]の項も参照)から土手通りを経由して直接小台橋に抜けていたのが宮城小学校・都営住宅を抜ける現在のルートに変更し、おおむね今の形が完成した。昭和35年の乗降客調査では20,000人/日と多くの乗客に利用され、東京駅北口発着は100往復程度、駒込病院発着は20往復程度で今よりもかなり東京駅までの便が多かったことが分かる。田端駅~小台方面の乗客や本郷通り沿線~御茶ノ水駅・駿河台下への需要が中心だった。後者は並行する都電(→[茶51])が神田明神の方に折れて御茶ノ水駅前を通らないため、うまく棲み分けていたのだろう。
 昭和36年には西新井駅まで延伸され、16km弱と単独系統ではかなりの長さを誇る系統となった。[10](→[王40])の補完目的もあったのだろう。ただし全便が延伸したのではなく、延長したのは限定的であり、昭和40年の乗降客調査では西新井まで行く便は40往復程度だった。乗客もそれほど定着しなかったのか、昭和51年6月に再度荒川土手発着に短縮された。
 細かい経路変更としては、昭和46年の神田錦町付近の一方通行規制により神田橋→神田錦町が首都高脇の一本南の河岸沿いに経路を変えた。美土代町(現・内神田一丁目)は東京駅行きのみ停車となり、代わりに錦町河岸交差点付近に錦町河岸停留所が新設された。すぐに錦橋と名を変えたが、昭和50年には停留所が廃止されてしまっている。場所に問題があったのだろうか。 
 田端駅から田端大橋で線路を越えると田端新町一丁目・三丁目方面の二股に分かれているが、旧橋は三丁目方面への取り付け道路が狭いこともあってか、昭和48年頃に荒川土手方面は[端44]のように田端新町一丁目・明治通りを大回りするようになった(右上図)。旧橋は田端駅前後も一車線しかなく渋滞が悩みの種だったという。田端駅方面も田端新町一丁目側の取り付け道路を経由したので、陸橋に入る際にUターン転
回していた。特に古い車でパワーステアリングのない車は運転手の腕の見せ所だったという。
この回り方は昭和62年に現在の新田端大橋が完成して片側二車線になり、平成元年に往復とも従来の経路に戻るまで続いた。
 平成元年には江北橋下経由[東43乙]が朝の荒川土手発のみ運転されるようになったが、これについては[王40]の項を参照のこと。
 昭和50年代の財政再建の時期は地下鉄の影響はなかったものの、値上げや都心部側の渋滞による定時性低下で乗客が減少したと考えられ、昭和50年度は16,100人/日だったのが昭和60年度は10,721人/日まで低下した。特に東京駅側が低効率だったということか、昭和61年頃のダイヤ改正で終日駒込病院折り返しが設定され、平日は東京駅・駒込病院行きが交互に走るようになった。このときは15~20分間隔で走っていたが、平成8年の営団南北線の駒込~四ツ谷開業でも影響を受けたのかさらに本数が減り、平成11年、12年のダイヤ改正で東京駅発着は30往復程度にまで減らされ、30分以上間隔が開くことも珍しくなくなった。以後は何とか下げ止まっており、沿線から都心部に直接出られる足として重宝されているが、本数が増えるまでの利用にはなかなか至っていないのだろう。
 駒込病院以北は駒込病院~田端駅の需要もあって便利な本数を維持していたが、ダイヤ改正のたびに徐々に削減されており、平成12年の改正時は平日昼8~10分、休日昼10分間隔だったものが平成28年現在で平日10~12分、休日12~13分となっている。沿線人口はさほど減っていないが、小台地区は数百メートル圏内に舎人ライナー足立小台駅が開業しており、少なからず影響を受けているのだろう。
 平成20年3月の舎人ライナー開業では、ライナーへのアクセス強化という名目で荒川土手から江北駅まで延伸された。23区内の都営バスではトップランクの系統長となったが走るのは一日数本のみ。[王40]待ちの客が偶然乗る程度で、どれくらい沿線に認知されていたか疑わしい。結局平成28年の改正で大幅に削減され、東京駅北口からの通し運転は消滅した。それでも残っているのは固定客がいるからだろうか。
 所管はごく初期が大塚だった以外は滝野川→北と一貫していた。平成24年度の1年間のみ、受け持ちの都合で巣鴨が一部のダイヤを担当することになった。復刻ラッピングが運用に入ることもあり、運行に彩りを添えていた。

下田端止まり

 長らく方向幕に残っていた[東43]の下田端行き。歴史の項で旧田端大橋の時代は往復で経路が違っていたことを記したが、荒川土手から来た便が田端大橋に入らずに、そのまま荒川土手行きの経路で戻るという設定だった。昭和50年代前半までは田端駅の渋滞もあったのか、朝ラッシュ時は比較的多く設定され、昼間も1時間に1本程度運行されていた。
しかし、そもそも田端駅に行かない設定にどの程度の需要があったのかは謎で、昭和57年の時点では設定が消えている。さらに平成元年には今の経路になって折返しの経路が取れなくなったため、以降は長らく幕だけに残っている幻の存在だった。

豊島五丁目団地発着

 平日と土曜日の朝に設定されている東43の豊島五丁目団地発。豊島五丁目団地構内には専用の乗り場がある。配布路線図には掲載されない幻の路線で、車内の営業所路線図だけにひっそりと掲載されていた。当初は団地から都心への通勤需要を狙ったもので東京駅北口ゆきの設定もあったが、現在は駒込病院への通院需要に対応しているようである。かつて交通局が廃止を提案したところ、団地住民から猛反対を受けて存続したという逸話もあるようだ。
 永らく団地発のみの設定であったが、平成28年のダイヤ改正で三十年以上ぶりに駒込病院→豊島五丁目団地の設定が復活した。豊島五丁目団地行きは[王40]とは異なり構内に入って降車となる。
ただし、団地方面の需要に対応するためと言うよりは、駒込病院発着は所要時間が短めに取られていて厳しいため、同じ台数で本数をムリなく確保する目的で、荒川土手よりも1往復が10分は短くなる豊島五丁目団地で折り返すようになったということのようだ。

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