都営バス資料館

東15

[東15]←[61]

担当営業所

深川営業所

運行区間・運行回数

系統・枝番 起点、経由地、終点           備考 キロ程(往/復) 平日 土曜 休日
東15甲 深川車庫~豊洲駅~勝どき駅~明石町~東京駅八重洲口 8.034/7.814km 37 40 35 36 31 32
東15乙 深川車庫→辰巳駅→豊洲駅→勝どき駅→明石町→東京駅八重洲口 10.164km 1


現在

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要               
61 S28.10.1 洲崎 4.170km 鉄砲洲(明石町)~銀座~東京駅八重洲口が開通
61 S30.10.15 洲崎 6.160km 東京駅八重洲口~西八丁堀~鉄砲洲~銀座~東京駅八重洲口に変更延長
61 S32.4.20 洲崎 7.164km 東雲都橋~晴海埠頭前(現晴海3)~鉄砲洲~東京駅八重洲口に変更延長
61 S36.4.20 東雲 7.164km 東雲分車庫の開設により移管
61折 S37ごろ? 東雲 8.364km 東雲都橋~貿易センター(現晴海会場)~東京駅八重洲口を開設
61 S43.8.1 深川 9.694km 深川営業所開設により移管、深川車庫~辰巳~東京駅八重洲口に変更延長*1
61折 S43.8.1 深川 10.894km 同上*1
東15 S47.11.12 深川 *** 新系統番号化、東15とする
東15折 S50ごろ 深川 *** 東雲都橋~晴海埠頭経由~東京駅八重洲口を廃止
東15 S52.3.31 深川 9.334/9.194km キロ修正に伴う変更?
東15乙1 S63.3.22 深川 1.650/1.660km 東京駅八重洲口~住友ツインビルを開設
東15 S63.6.8 深川 (7.744km) 橋14の廃止に伴い東雲橋交差点~深川車庫間を辰巳経由から東雲都橋経由に変更
東15丙1 S63.6.8 深川 8.090km 東15乙の廃止代替で東京駅南口~有明テニスの森を開設
東15丙1 S63.12.1 深川 *** 東京駅南口~有明テニスの森を廃止
東15丙2 S63.12.1 深川 9.794km 深川車庫→辰巳→東京駅八重洲口を開設、丙とする
東15甲 H2.12.20 深川 7.814/7.584km 深川車庫→東京駅八重洲口の一部経路変更
東15乙1 H5.9.7 深川 4.460/4.420km 東京駅八重洲口~リバーシティー21~月島駅~豊洲駅に延長
東15乙1 H8.3.30 深川 *** 東16(東京駅八重洲口~ビッグサイト)の開業により乙系統を東16の折返し系統に編入統合
東15乙2 H8.3.30 深川 9.794km 上記の理由により乙系統とする
東15甲 H18.4.1 深川 8.034/7.814km 豊洲駅ターミナルの完成により、東京駅方面はターミナルを経由するよう変更
東15乙 H18.4.1 深川 10.164km 同上

路線概要

東京駅八重洲口と勝どき・豊洲駅・深川車庫を結ぶ。[東16]と比べるとやや遠回りしており、本数はあまり多いとは言えない。
基本的に起終点を通し運転する設定のみだが、朝の片道のみ、深川車庫→東雲橋交差点を辰巳経由で運行する便が運転されている。
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深川車庫を左折して出発するとすぐに右折し、東雲団地方向へ[東15]は進む。
左側に東北急行バスの東京営業所、そして東雲小学校停留所の先でちらりと京成バスが停まっている姿が見えるのが奥戸営業所東雲車庫で、東京駅八重洲口発着の成田空港や房総半島方面の京成系高速バスの起終点・待機場所として使われている。
なお、朝のみ東雲の団地を経由せず辰巳団地を経由する便が存在する。これについては歴史の項も参照。
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バスは東雲一丁目の交差点で左折し、イオン東雲店の前にある東雲橋交差点停留所に停まり、その先の交差点で辰巳団地経由便と経路が合流する。豊洲駅はロータリーに入って客扱いを行い、左側にららぽーと等の「アーバンドックシティ」を眺めながらバスは晴海通りを道なりに走って行く。
日本ユニシス本社前停留所を通過し、春海橋を渡る。左側に見える鉄道の橋梁は晴海橋梁で、平成元年に廃止された東京都港湾局専用線の晴海線の遺構である。この橋梁を遊歩道にする計画も上がっていたが、晴海地区の再開発が遅れていることや晴海橋梁自体が海風にさらされ老朽化が予想以上に進んでいたことから計画は頓挫し、平成30年の今まで遺構として残っている。
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春海橋を渡ると中央区へ。右側に晴海トリトンスクエアの住宅棟が立ち並ぶ。道の反対側は東京都専用線の跡で長らく更地だったが、近年中央区晴海二丁目計画として公園やタワーマンションが建設中である。
晴海三丁目を右折し、都心方面へと向かう。この区間からは中央区コミュニティバス「江戸バス」と経路が重なる区間が目立つ。江戸バスは豊海方面を経由し[東15]より所要時間がかかるが、晴海区民館~勝どき駅、勝どき駅~聖路加病院の区間だけで見れば、江戸
バスにもある程度乗客が流出しているのだろう。
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勝鬨橋を渡った先で右折し高層ビルが目の前に見えてくると故・日野原重明氏が名誉院長であった聖路加国際病院がある。再開発が行われ、この前後だけ道路の幅が広い。さらにバスは隅田川に沿うように北へ走る。佃大橋の下を抜けた先に、「鉄砲洲」という何とも不思議な名前のバス停がある。
鉄砲洲の名の由来は、砂洲が細長く鉄砲の形をしていたこと、あるいは大砲の試射をしたことに由来すると言われる。湊稲荷(現鉄砲洲稲荷神社)には富士山を模した富士塚が築かれ、当時はここから富士を望むことができたという。鉄砲洲の港には各地からの廻船が入港したことから、船乗人の海上守護の神として信仰を集めた。明治になってから100メートルほど南西に移転した(国立国会図書館ウェブサイト 錦絵で楽しむ江戸の名所より)とのこと。
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亀島川に架かる南高橋を渡り住友ツインビルが見えてくると左折し八重洲通りに出るが、今渡った南高橋は、関東大震災後の復興事業によって架けられた橋で、全国でも6番目に古いトラス橋である。元々は両国橋に架かっていた明治38年に作られたトラス橋で、両国橋が関東大震災で被災し新たに架け替えることとなり、被害が少なかった部分を補強し幅と高さを狭くして新たにこの場所に架橋した。その結果大正時代に架橋したにもかかわらず明治時代の意匠のまま残ることとなった。夜はライトアップが行われている。
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南高橋から新川一丁目までの区間は道路の都合上、往路と復路で走る道路が異なり、深川車庫行きは亀島川寄りの道路を走る。八重洲通りに出たバスは再び[東16]と同じ経路をたどる。目の前に東京駅八重洲口
高速バスターミナルが見えてくると、僅かに外堀通りを走り八重洲口のバスターミナルに到着する。
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この東京駅八重洲口のバスターミナルは都営バスを含め46社局のバス会社が利用するターミナルで、平成25年に現在の形に全面リニューアルされた。駅舎側が高速バス専用で、外堀通り側に都営バス専用のバスレーンが設置され、乗り場が3箇所。またJRバス関東のきっぷ売り場前には都営バス専用の降車バスベイも設置された。かつては都営バスの乗り場が露天に並び、高速バスは国鉄東名ハイウェイバスが発着する程度だったのが、昨今の高速バスの隆盛ですっかり立場が逆転した感がある。
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東京駅八重洲口にはこれ以外にも各地に高速バスの乗り場が散らばっており、それらを収容する地下バスターミナルを作るべく八重洲口前で再開発が行われている。2020年以降に順次完成となっており、また大きく風景が変わっていきそうだ。

路線の歴史

 この系統の直接のルーツは、東京駅八重洲口と中央区の隅田川沿いを結ぶ[61](鉄砲洲~東京駅八重洲口)である。当初は晴海通り・銀座経由で、昭和30年には東京駅八重洲口から八重洲通り・新川・鉄砲洲・晴海通りを経由して四角形に循環する路線に伸びた。これ以外にも四角形に循環する路線として、昭和25年の[32](晴海通り・清澄通り・永代通り)や、その後の[8](晴海通り・平成通り・永代通り)があったが、いずれも短期間で姿を消している。
[61]は昭和30年に北側半分を残し、勝鬨橋を渡って東雲都橋まで大きく延伸して現在に近い形になった。豊洲・東雲方面は昭和28年の[19](→[門19])・[47](→[橋14])に続いて3系統目となった。延伸区間は当初月島経由だったが、昭和32年には[47]と同じ現・晴海三丁目経由となった。[47]と都心側だけが異なる兄弟系統と見ることもできる。南側の区間は[27](→[東21])が並行しており、そちらに一本化したのだろう。
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 昭和43年には深川車庫の開設と辰巳団地の入居開始に伴って東雲橋から三ツ目通りを経由して辰巳団地を終点とするように変更した。書類によってはこの時点で深川車庫発着になっているものと辰巳団地と両方が見られるが、通常は辰巳団地止まりで出入が深川車庫まで運転だったのだろうか。当時は他に目ぼしい建物もなく、周囲はまだ開発途中のような雰囲気だったという。
 団地から東京駅直結の路線のほか、昭和40年代前後には昼間に貿易センターに立ち寄る便(後述)も設定され、八重洲口から見本市会場へのアクセスとしても使われていた。
 南高橋付近の経由は、昭和47年3月までの路線図は往復とも「越前堀一丁目」経由となっている。昭和47年12月では線が2本引かれ、片側のみ「南高橋」停留所経由に書き換えられているが、どこまで正確なのか判然としない。昭和49年の都バスガイドブックからは往復で異なる表記がつき、南高橋が東京駅方面のみという現在と同じ停まり方になっている。なお、[東21](東京駅南口~北砂七丁目)もこの区間は[東15]と同じく往復で経路が異なる描き方だが、南高橋停留所に停まらないのは不思議だ。
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 昭和60年度は本数は100往復近く、8,000人/日前後と多く、深川の中でも幹線の存在だったが、昭和末期になると転機が訪れる。
 まず昭和63年3月に[東15乙](東京駅八重洲口~住友ツインビル)が開業。隅田川近くの高層ビルへのアクセス路線として八重洲通りを直進する枝系統が誕生した。[東15乙]については後述。また、6月には有楽町線の豊洲駅・辰巳駅が開業、今までの独占エリアの乗客が地下鉄に移り、[東15]は辰巳団地経由をやめ、減便のうえ東雲橋交差点~深川車庫をショートカットする経路に変更した。なお、12月には沿線住民の反対もあったのか、12月に朝の上りの一部便のみ辰巳団地経由が復活している。この前後の時期には[東18乙](東京駅南口~有明テニスの森)が親系統廃止に伴い[東15丙]と番号を変えて存続したが、こちらも12月に廃止された。
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 これらの変化により、平成元年度は[東15]が平日64往復、[東15乙]が109往復という構成で、乗客数は8,307人/日とほとんど変化がなかった。住友ツインビル線は乗客が定着して八重洲通りの区間は一気に本数が増加したが、乙線の乗客が少なからず含まれており、本線は影響を受けたのは間違いないだろう。
 住友ツインビル前から伸びる中央大橋が架橋され、平成5年に[東15乙]は中央大橋経由で豊洲駅(出入庫は深川車庫)まで延伸された。同時に平日のみ運転だったのが毎日運転に拡大された。
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 当時のダイヤでは、平日昼の所要時間は東京駅八重洲口~豊洲駅で [東15]が34分、[東15乙]は22分と時短効果は明らかで、運転間隔も[東15乙]のほうが短く、実質的な本線の座が入れ替わってしまった。平成6年には聖路加ガーデン開業に合わせて聖路加病院行きを設定し新たな需要を狙うが、こちらは続かなかった。
 平成8年3月に[東15乙]は[東16]と独立して東京ビッグサイトまで延伸され、深川の幹線として立場を確立する。これ以降は[東16]の項を参照。[東15]は明石町などの[東16]の通らないエリアで細々と集客する系統となった。
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 これ以降もダイヤ改正のたびに本数が削られていき、平成15年には昼間は時間2本程度にまでなってしまう。平成16年頃からは都市新バスから収容力の問題で追われた中型ロングが主力となり、しばらくは大型車を見かける方が少ない状態が続いた。
 変化が起きるのが平成23年頃からで、だんだんと大型車の運用が目立つようになった。特に土休日は顕著で、東雲や豊洲地区の人口が増え、ベビーカー連れの乗客に対応するためだったようだ。平成27年度からは大型車の運用が多数派になり、現在は中型ロングの転出により大型化100%を達成している。
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 本数は平成15年の改正のときからほとんど変わっておらず、所要時間の設定も平成初期から基本的に変わっていない。平成28年度の乗車人員は3,728人/日、営業係数は99と僅かながら黒字で、沿線人口増に救われた感じとなっている。

朝の辰巳経由

 朝のみ、東雲駅・辰巳駅を経由する[東15乙]が設定されている。有楽町線開業前の経路が廃止されたのを、沿線住民の要望で6ヶ月後に復活させたもので、朝のみ片道設定された。通勤需要かと思いきや、休日の朝も設定があったのが面白い。当初は[東15丙]だったが、平成8年の住友ツインビル線の独立に伴い繰り上がった。ただし、旅客案内でこの枝番が使われてはいない。
 方向幕の側面は「辰巳駅」が青地に白抜き文字になった専用のものを用いていた。
本線の本数減少に合わせて朝の辰巳経由も減っていき、平成23年の改正で休日の設定がなくなっている。

同じ系統だった名残

 [東15]の時刻表を見ると、平日朝の上りと下りで本数に差があることに気づく。東京駅に到着後にどうなるのかというと、そのまま[東16]に化けて[東16]の運用をこなす。つまり[東15]で出庫を行っているようなものだが、かつては同じ系統番号だった名残ということなのだろう。かつて[東15]が日野HRだらけだった時代は確実に大型が見られる運用だったが、今はそれらも撤退し差はなくなっている。
 なお、東京駅発の始発は上りに対応する便がないが、深川車庫から東京駅まで回送している。

最大7営業所が共管

 住友ツインビルの開業で運用数を賄うため、[東15乙]は深川以外にも東京駅周辺を発着する各営業所が間合い運行を行った。昭和63年3月の開通当初は目黒・小滝橋・巣鴨・北・南千住・江東・深川の7営業所共管で、臨時系統を除けば都営バスでは最も共管の多い系統となった。
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6月の改正で小滝橋・巣鴨・南千住・深川の4営業所となり、平成元年には深川単独所管となった。それぞれの営業所の車にもこの系統の幕が入れられたが、古参車が運用した営業所のほうが多かったようだ。

聖路加病院発着

 平成6年頃に一時期東京駅八重洲口~聖路加病院の折り返しが平日朝夕に設定されていた。聖路加国際病院の再開発に伴い、三井不動産ほかデベロッパーが周辺を再開発し、平成4年に病院が、平成6年にはオフィス・住宅棟が竣工したもので、住友ツインビルやIBM箱崎ビルに続いて乗客を取り込もうとしたものだ。平成6年4月改正では平日朝夕のみ15回設定されているが、[東15]だと遠回りだったということか、すぐに設定が廃止されてしまった。
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 なお、病院の正式な読みは聖人ルカ(Lukas)の名に合わせ「せいるか」なのだが、都営バスの停留所の読みは「せいろか」となっている。

春海橋の陸橋

 日本ユニシス~晴海三丁目の晴海通りには、ユニシス方面だけ陸橋が存在する。ここを通る定期路線はなく、かつての豊洲~晴海臨時急行や回送が通る程度だ。昭和48年に春海橋が架け替えられた際は陸橋が今とは逆に埠頭方面の本線として使われており、バスも陸橋を通っていた。そのため、[東15]等は豊洲郵便局(現・IHI)を出ると次は晴海アパート前となり、晴海一丁目は豊洲方面の片方向のみ停車となった。現在の形になるのは、昭和60年頃に晴海方面の地平部の車線が完成して陸橋経由でなくなってからである。

貿易センター経由

 昭和30年代後半から昭和50年頃まで設定されていた。昼間のみ晴海三丁目から晴海見本市会場に寄り、道路を一周して元の経路に戻っている。昭和49年の都バスガイドブックには「7~9時、17~19時までは晴海郵便局・見本市会場には入りません」と書かれており、見本市会場に寄るのが本線のような書き方だが、書類上はいつ廃止になったのか判然としない。同様の設定は[橋14]にもあったようだ。昭和49年の都バスガイドブックでは[橋14][東15]で停まり方が微妙に違う描き方だったが、片方が誤植だったのかは謎だ。

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