担当営業所
深川営業所
運行区間
系統 | 区間 | 距離 | 備考 |
本 | 東京駅南口~銀座4~勝どき2~新佃島~門前仲町 | 5.442km | |
折1 | 東京駅南口~銀座4~勝どき2~新佃島 | 4.342km | |
乙 | 東京駅南口~銀座4~勝どき2~豊洲埠頭~有明テニスの森 | 8.069km |
年表
系統 | 年月日 | 営業所 | 距離 | 概要 |
12 | 終戦時 | 新宿 | *** | 月島3~銀座~東京駅南口が存在 |
18 | S21. 3.15? | 新宿 | *** | 18系統に変更 |
18 | S25.10.23 | 洲崎 | 5.442km | 門前仲町~月島3を延長、この頃までに洲崎に移管? |
18 | S26. 1. 1 | 洲崎 | 5.446km | 調査により路線長を変更 |
18 | S43. 5.27 | 深川 | 5.446km | 洲崎営業所の深川への移転改称により深川に移管 |
東18折 | S51.10. 1 | 深川 | 4.234km | 新佃島~東京駅南口を開設 |
東18乙 | S59. 4.29 | 深川 | 8.090km | 東京駅南口~有明テニスの森を開設 |
東18 | S63. 6. 8 | 深川 | *** | 有楽町線新木場延伸により東京駅南口~門前仲町を廃止。東18乙は東15丙として引き続き運行 |
路線概要
東京駅南口と中央区南部・月島地区を結ぶ系統。本線は門前仲町発着だったが、手前の新佃島(現・月島駅)折り返しが多く設定されていた。
これ以外に豊洲経由で有明テニスの森まで足を伸ばす[東18乙]も運転されていたが、本数は非常に限られていた。
東京駅南口を出発したバスは、現在の[都05]と同じように有楽町駅から晴海通りに入り、銀座・築地を経由して勝鬨橋を渡る。勝どき二丁目(現・勝どき駅)で左折して清澄通りに入り、明治期に埋め立てられて住宅地・工業地として発展した月島2号地・1号地を走り
抜ける。佃大橋を渡る道路と交差し、佃エリアに入った新佃島で大半のバスが折り返し、一部便はそのまま[門33](亀戸駅~豊海水産埠頭、江東の巻参照)と並走して門前仲町まで至る。新佃島は専用の操車所はなく、長屋のような住宅街が並ぶ脇道に入って折り返していた。
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[東18乙]は現在の[都05]の出入庫とほとんど同じルートで、晴海三丁目から晴海通りに沿って豊洲埠頭・東雲都橋を経由し、有明テニスの森まで至る系統だった。東京駅発は朝~昼過ぎ、有明テニスの森発は昼~夕方となっていた。
路線の歴史
月島・佃エリアはかつては離れ小島であり、明治36年に相生橋が架橋されて門前仲町方面と直結し、大正12年に清澄通りを走る市電が島内まで延伸された(関東大震災により大正15年に再架橋)。しかし、都心側へは佃・勝鬨などの渡船があるのみでバス路線は当然なく、昭和15年に勝鬨橋の架橋によりようやく銀座方面と直結された。この時点では市バスの晴海通りを走る一部系統が月島(現・勝どき駅付近)まで延伸されたのみで、市電が走っていたことや戦時中の物資不足もあり、これ以上のバス路線の延伸はなかった。
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そのような中、終戦近くの昭和19年5月に[36](月島~銀座四丁目~東京駅~日本橋~門前仲町~月島)という循環線が開業している。この時期の新規路線は異例だが、石川島造船所(現・IHI)などが立地する工業地帯でもあり、軍需・工員輸送として重要な地域だっのかもしれない。東京大空襲後の休止を経て、昭和20年4月には南半分の東京駅~月島三丁目が生き残り、これが終戦後のベースとなった。昭和21年3月以降は[18]となった。当時は唯一の銀座を通る都営バスだった。
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このころの担当は新宿所管となっていたが、他に余力のある車庫がなかったためだろう。担当が変わるのは深川移転後の昭和43年のことである。
昭和40年度の乗降調査では新佃島まで156.5往復と多数運転され、13,000人/日程度の乗客数がいた。
当時は地下鉄もなく、佃大橋(昭和39年架橋)も中央大橋(平成5年架橋)もなく渡船が残っている時代で、銀座に直結するルートは利便性が良かったのだろう。なお、門前仲町からは別の交通機関が便利ということもあり、昭和40年代は新佃島止まりが多くを占めていたが、門前仲町発着は昭和50年代には数がやや増えた。
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昭和59年には、有明テニスの森を発着する[東18乙]が開通する。前年に有明テニスの森が開場しており、そこへのアクセスも狙ったのだろうか。ただし、東京駅発は午前~昼過ぎにかけて平日6回、休日4回、有明発はさらに少なく昼~夕方にかけて平日4回、休日2回のみと本数は少なかった。
本線は昭和50年代も乗客数は微減傾向だったものの9,000人/日前後をキープしており、営業係数も90台と黒字で効率の良い系統だった。廃止直前で平日の東京駅発は98回(うち門前仲町23回)、朝は約6分間隔、昼間は10分間隔と結構な頻度で運転されており、東京駅南口発は6:30~22:30、新佃島の始発は6:10と、当時としては早朝から夜遅くまで運転される系統だったことが分かる。
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[東18]は有楽町線の新木場延伸でその役割を終えて全線廃止された。もっとも、[都05]が入れ替わりで開通しており、月島駅周辺を有楽町線に委ねつつ、晴海通りを軸とする都市新バス化による発展的解消を遂げたとも言えるだろう。なお、[東18乙]は廃止されずに親系統を替えて[東15丙]と名乗ったが半年で廃止された。今一つ存在意義が謎めいた系統である。
新佃島
新佃島は何が「新」かというと、旧来の佃島に対して新たに埋め立てた土地であることが由来である。江戸期は現在の大川端リバーシティの石川島と、その南にある小さな佃島があるのみで、現在の清澄通り沿線は明治時代に埋め立てが進んだ。地図で見ると、碁盤の目状に並んだ道路の中、佃大橋のたもとに区割りが異なるエリアが見えるのが佃島の名残である。関東大震災以後は大きな戦災にも遭わず、長屋の街並みが残るエリアとなっている。
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有楽町線の開業に伴い停留所は月島駅前に改称されて以来30年以上、「新佃島」の名もだんだんと歴史的な名になっていくのだろうか。
2ヶ所の数寄屋橋
現在は数寄屋橋の停留所は晴海通り上に集約されているが、昭和63年までは深川管轄の[東18][東21]については晴海通りに入る手前のマリオン脇の停留所に停まっていた。実は元々、ここが有楽町駅の下り方面の停留所で、そごう(現・ビックカメラ)前の停留所は[東01](ミニバス、品川の巻参照)、遡れば[東75][東84](東京駅南口~清水操車所・経堂駅、杉並・渋谷の巻参照)といった晴海通りで右折する系統用だった。
▲都バスガイドブック(昭和56年12月)
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なお、昭和57年12月まで走っていた旧・[東16](東京駅南口~勝どき五丁目)も昭和50年頃までは同様だったが、それ以降は晴海通り上に移設し、東京駅発は数寄屋橋、逆は有楽町駅に停車という扱いだった。
昭和57年12月の改編の頃に今の「有楽町駅」に[東18][東21]が新たに停車するようになり、元の有楽町駅は数寄屋橋に改められた。
これも長く続かず、昭和63年6月の改編で[東18][東21]は廃止。新たに誕生した[都05]は他の都市新バス同様晴海通り上に停まることになり、この乗り場は一日数本の[東15丙](東京駅南口~有明テニスの森)のみになった。停留所の既得権を守ろうとしたのだろうが、それも半年後に廃止、停まる系統がなくなった。
その後使うアテもなくなって都営は完全に手を引き、現在では京成系各社や東武バス・平和交通の千葉県内各方面への深夜急行バスが発着している。