都営バス資料館

×上35

[上35]←都電24

担当営業所

江東営業所

運行区間

系統 区間 距離 備考
須田町~上野広小路~浅草寿町~押上~亀戸駅 8.180/ 7.580km

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要
上35  S47.11.12 江東 8.180/ 7.580km 都電24系統(福神橋~須田町)の代替で亀戸駅~須田町が開通
上35  S52.12.16 江東 ***  亀戸駅~須田町を廃止

路線概要

atozl_214  都電24系統の代替である。[門33]と同じく、亀戸駅から明治通りを北上し、福神橋からは浅草通りに左折して柳島・押上を経由し、本所吾妻橋まで来ると[門33]と別れる。その後は現在の[上23](上野松坂屋~平井駅)と同様に、吾妻橋を渡って雷門を右手に見ながら浅草の繁華街を横断する。浅草一丁目で左折、寿町で右折し再び浅草通りに戻り、首都高をくぐれば上野駅となる。
 ここからは中央通りを南下する。上野広小路(現上野松坂屋)で終点とならず、都電代替であることを示すかのようにさらに南に向かう。末広町駅前にある外神田五丁目停留所を過ぎると電気街の景色となり、日通(現住友不動産秋葉原ビル)の角で右折してすぐ先の神田明神下を左折、総武線・中央線のガードをくぐり、昌平橋を渡る。都電時代のように路上折り返しができないため、この区間は循環となっている。昌平橋の手前に外神田二丁目停留所があり、御茶ノ水駅から下ってきた系統と乗り換えも可能となっていた。
 神田郵便局を過ぎると淡路町交差点を左折して靖国通りに入り、須田町で終点となる。須田町からは中央通りを北上し、万世橋を渡って総武線ガードの下あたりに秋葉原駅の停留所があった。他系統の秋葉原駅とはだいぶ離れている。そのまま直進し、元来た経路に戻って亀戸駅方面へと戻っていった。

歴史

 昭和初期の時点で市電34系統・柳島~雷門~上野広小路~万世橋という系統が存在した。押上まで市電が延びたのは大正初期、柳島まで延びたのは大正8年のことであり、その頃からダイレクトに市街地まで出る手段として設定されていたと思われる。昭和初期に須田町まで延長されて25系統と名乗った後は路線にさしたる変化もなく、東京大空襲の後もいち早く復旧し、戦後の番号付け替えの後は都電24系統として運転を継続した。昭和33年には都電23系統と同じく福神橋(→[門33])まで延伸されるが、昭和35年のデータでは福神橋→柳島199回、柳島→上野駅207回、上野広小路→須田町148回とそれなりの頻度で運転されていたことが分かる。
 他の系統が次々と廃止される中、最後まで上野広小路・須田町に乗り入れる系統として活躍したものの、末期は乗客も運転本数も少なくなっていた。昭和43年は福神橋→70回→柳島→91回→上野駅→83回→上野広小路→80回→須田町という運転回数で、乗客数は9,900人。昭和39年の23,400人と比べても4割もなく、路線の西半分が地下鉄銀座線と並行していたのは戦
前からであり、気になるところだ。ドーナツ化現象による沿線の人口減もあるのだろうか。
 昭和47年11月には全廃され、都電23系統と同じく代替に際して亀戸駅まで延長された。南側の須田町は都電20系統(江戸川橋~須田町→[上58])の代替と同様の回り方である。しかしバス代替されると、並行する路線が色々とある中で運輸成績も悪くなり、運行の必然性も薄れていったと考えられる。昭和49年度には82往復運転されたことが記録されているが、幹線だらけの都電代替系統の中にあっては、本数が少なかったことは否めない。
 この路線の末期の存在意義と言えば、唯一上野広小路~須田町間を運行することだった。バス・都電街道だった中央通り北部も、相次ぐ短縮や廃止によって、[上35]の廃止時には、須田町~上野広小路はこの系統のみが走っているという有様であった。しかし浅草側からの需要は上野広小路までが大半であり、最早数少ないものであった。廃止時に、この区間は[上37](上野広小路~青戸車庫→[錦37])が須田町まで延長されて引き継ぐこととなり、バス代替から5年しか経たずに廃止されてしまった。最後にバス代替された下町の都電系統の中では、唯一廃止された系統となっている。
 なお、[上35]の廃止ととに並行する[門33]が増強され、柳島から亀戸駅発着の比率が高くなった。

最大番号、724

atozl_218  昭和47年4月に、上野地区の中央通りで歩行者天国が開始され、上野駅~須田町が通行できなくなるために、一足先にこの区間の代替バスが昭和通り経由等で運行された。これが[724]系統である。都営バスの系統番号では最大番号であり、珍しいマークが車体に掲げられていた。もっとも、11月には全線がバス代替されたたため、この運行は7ヶ月のみの幻の系統だった。なお、所管は新谷町(現南千住)営業所となっていた。旧番号:724系統の項も参照。

柳島電車営業所

 柳島電停の目の前にあり、明治38年の開設と都電の中でも非常に歴史のある車庫だった。目の前の北十間川と、街路の柳の木は風情ある風景だった。今も昔の名残を留めるが、護岸工事で姿が変わってしまった。
 また、この車庫独特の風景として、本線上の折り返し待ちが上げられる。福神橋から折り返してきた都電が柳島の本線上で何台も滞留し、柳島で改めて発車を待つのである。福神橋から乗った客はここで何台も前の電車に乗り継がなくてはならないが、実質的な始発が柳島だからできた技だろう。
 錦糸堀車庫とともに、昭和47年の廃止まで残った車庫となり、昭和48年~52年の間、都営バスの江東営業所の仮車庫として使われた。この部分については車庫の歴史の章もあわせて参照されたい。

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