担当営業所
目黒営業所
運行区間
系統 | 区間 | 距離 | 備考 |
本 | 恵比寿駅~天現寺橋~愛育病院~六本木~日比谷~東京駅南口 | 7.949km |
年表
系統 | 年月日 | 営業所 | 距離 | 概要 |
101 | S22. 6.25 | 渋谷 | *** | 都立高校(現八雲付近)~恵比寿駅~東京駅南口が開通、東急と相互乗り入れ |
101 | S23.11. 1 | 渋谷 | 14.199km | 自由が丘(現八雲3)~都立高校を延長 |
101 | S24. 5.24 | 渋谷 | 13.909km | 駒沢~国立病院~三谷~五本木~恵比寿駅~東京駅南口に変更延長 |
101 | S28. 6. 1 | 渋谷 | 15.009km | 一部経由地変更 |
101 | S30. 4. 1 | (目黒) | *** | 目黒分車庫開設により目黒に移管 |
101 | S30. 6. 1 | 目黒 | *** | 目黒分車庫が目黒営業所に昇格 |
101 | S31.10. 1 | 目黒 | 16.459km | 桜新町~新町~駒沢を延長 |
101折 | S42.12.10 | 目黒 | 9.910km | 桜新町~天現寺橋を開設 |
101折 | S42.12.10 | 目黒 | 9.189km | 正覚寺~東京駅南口を開設 |
7 | S46. 9. 1 | 目黒 | 7.949km | 上記折返系統を廃止、桜新町~恵比寿駅を短縮。7系統に変更 |
7 | S46.10. 1 | 目黒 | 11.189km | 目黒駅~東京駅南口に変更延長 |
7 | S46.11. 5 | 目黒 | 7.949km | 恵比寿駅~東京駅南口に変更短縮 |
東80 | S47.11.12 | 目黒 | *** | 新番号化、東80とする |
東80 | S52.12.16 | 目黒 | *** | 恵比寿駅~東京駅南口を廃止 |
路線概要
東京駅南口から恵比寿駅経由で桜新町とを結んでいた。昭和22年に開通した戦後第一期の相互乗り入れ路線のうちの1つである。東京駅南口(開通当初は乗車口)から馬場先門経由で日比谷通りに出た後、田村町一丁目(現西新橋)まで直進して右折して外堀通りに出て、虎の門のビジネス街を抜けた後は溜池から六本木通りに入る。ここからが独特のルートで、赤坂から六本木へ坂を登って六本木の交差点を抜けた後、材木町(六本木六丁目)の脇左折していわゆるテレ朝通りの小道に入り、愛育病院まで坂を登って[橋86](目黒駅~新橋駅)の経路と合流し、有栖川公園を左手に見ながら坂を下って広尾橋に出る。
広尾橋で外苑西通りに出た後はかつての都電の広尾車庫、現在は都営アパートを見つつ天現寺橋を右折して明治通りに出て、都電8系統(中目黒~築地)と合流し、広尾から恵比寿界隈を通り過ぎて恵比寿駅に出て終点となる。
昭和46年までの短縮前はそのまま恵比寿駅から駒沢通りを直進し東急バスのエリアに入っていた。鎗ヶ崎交差点で東横線の線路と近づいてからはまた離れて坂を下り、正覚寺(しょうがくじ)で山手通りとクロスする。右手近くに中目黒駅が近くに見えるが、駅前には立ち寄らず通りを直進する。
ここからは住宅街の中の道路という趣が強くなる。片側一車線の道路を進むと左に見てくるのが祐天寺の境内。祐天寺の停留所は少し先にあり、東横線の祐天寺駅とは数百メートル離れている。
頭上に東横線の線路が通り過ぎると五本木で、現在は補助26号線の道路が三宿から学芸大学に向けて少しずつ建設中である。ここを過ぎると一瞬世田谷区に入り、駒沢陸橋で環七と立体交差をくぐると再び目黒区に入って柿の木坂の住宅街を過ぎる。柿の木坂の交差点を過ぎると不意に住宅街が途切れて国立第二病院(現東京医療センター)の敷地が右手に現れる。現在は建物も真新しくなっており、中にはバスターミナルが設けられている。
ここで駒沢通りと別れ、次の交差点を右折して自由通りを北上する。駒沢競技場とオリンピック公園の広大を敷地を右に眺めながら進み、真中(まなか、現駒沢大学駅)で玉川通りに右折する。真中はかつての小字の名で、しばらく交差点の名として残っていたが現在は駒沢大学駅に統一された。
ここまで来ると終点は近く、今の田園都市線、かつての玉電に沿って新町から桜新町駅へと向かう。現在の桜新町駅の上には東急バスの桜新町駅の停留所があり、[黒07](目黒駅~弦巻営業所)が停車する弦巻寄りの駅西口前と、[都立01](都立大学駅~成城学園前駅)が停まる用賀寄りの2か所あるが、当時は前者が桜新町、後者が桜新町操車場として2回停車していた。行先表示は桜新町だったが実際は桜新町操車所まで乗車可能だった。
歴史
GHQの勧奨のもと、不足する郊外と都心との需要を満たすために終戦後すぐに設定された路線で、終点は桜新町とはいっても渋谷駅経由の桜新町行き[東83]とは別物で、玉川通り沿線ではなく駒沢通り沿線と都心を結ぶことを主眼にしていた。
設定当初はかなりの急行運転が行われ、東京駅を出ると日比谷、田村町一丁目、虎の門、六本木、材木町、広尾橋、恵比寿駅とかなり停留所を絞っていたことがうかがえる。この頃は都心部の交通は都電に委ね、バスは早く直通するという棲み分けが図られていた。その後は徐々に途中停留所が増え始めるが、一気に増えたのは昭和40年代の都電代替時で都電の役割も全てバスに負わせるようになってからである。この頃になると100番台の相互乗り入れ系統は急行系統ということもほとんどなくなり、経路上の各停留所停車となるのが普通になっていった。
さて、この系統の開通当初であるが、都立高校~東京駅という路線になっている。この近辺で都立高校といったら都立大学附属高校くらいしかないが、国立第二病院から見ると都心に戻る方角となる。国立第二病院で右折して目黒通りのほうに進んでいたのだろう。なお、国立第二病院から深沢方面は駒沢ゴルフ場の敷地に遮られ、当時はここから先の駒沢通りはなかったようである。
昭和23年11月には自由が丘まで延伸となっている。現在の八雲三丁目停留所に相当し、目黒通りに出て等々力方面へと向かっていたのだろう。同じタイミングで[東98]、当時の[113]系統は自由が丘~目黒駅~東京駅という系統で開業しており、この系統を目黒通りに回す必然性が感じられないが要望でもあったのだろうか。
結局この形は長続きせず、半年後の昭和24年5月には国立第二病院から逆に右折して駒沢で終点となるように変更された。どこで折り返していたのかは定かでない。近くには東急の駒沢営業所があったが、営業所開設は昭和39年とかなり後である。それ以前はかつて折り返し所があったのか、それとも拡幅する前の玉川通り沿いに折り返し所があったのかは定かでない。
当初は渋谷所管だったが、昭和30年の車庫開設時に目黒に移管された。恵比寿を通るためどちらでも良さそうだが、受け持ちのバランスを考えて移管したのだろう。翌昭和31年には駒沢から桜新町まで延長され、路線の形が完成した。
しばらくはそのまま推移したが、昭和42年に折返系統として桜新町~天現寺橋、正覚寺~東京駅の2系統を開設している。区間を見るとどう見ても出入庫専用のようだが、開設した理由はよく分からない。
その後、昭和40年代に進んだ長距離系統の見直しが進む中で、昭和46年9月に恵比寿駅で分断された。背景としては昭和39年8月に日比谷線が全通して東横線と相互乗り入れを開始し、役割がそっくり移行したことが挙げられる。昭和42年には都心部で日比谷線と役割が重複していた都電8系統が廃止され、代替系統が設定されなかった。この[101]系統が代替の役割として案内されたことからも、わざわざ代替を設定することもないくらいだったのだろう。
なお、分割後の1か月後の昭和46年10月にには目黒駅~医科研病院~恵比寿三丁目~恵比寿駅を延長している。しかし、目黒から恵比寿を経由して行くのはどう考えても遠回りで、僅か1ヶ月後には元の恵比寿駅~東京駅南口の運行に戻った。出入庫を全区間営業運転していたのか、全便延長されたのかは定かではないが、目黒駅へ運行された1ヶ月間は何だったのであろうか。
ただし、分断後はかつての都電8系統と同じく、日比谷線と役割が重複していることもあって中途半端な存在だった。乗客数も低迷した結果、昭和52年の第一次の路線再編で全線廃止されてしまった。
分断された後の東急側は、えびす駅~桜新町として系統番号が後に与えられ[恵33]と名乗った。しばらくはそのまま走っていたが、恵比寿駅から駒沢通りの区間は並走する[恵32](えびす駅~祖師ヶ谷大蔵駅、後に用賀駅)で十分で、自由通りや桜新町から恵比寿に出る需要は多くなかったと思われる。昭和54年12月の改編でえびす駅~駒沢~駒沢営業所に短縮された後、1年半後の昭和56年5月に全線廃止された。現在も、自由通りの区間は幹線格のグランド線こと[渋11](渋谷駅~田園調布駅)が走っている。
わずかな単独運行区間
[東80]の単独運行区間は愛育病院前~六本木六丁目のみであり、途中には元麻布三丁目(←麻布桜田町)停留所があるのみであった。
広尾から六本木に抜けることを考えると、今の常識で言えば外苑西通りから西麻布交差点を抜けるのが自然で、わざと狭い裏通りを通っているようにみえる。
しかし、戦前は広尾橋以北の外苑西通りは専用軌道だった区間で、そもそも道路がなかった。そのため、戦前のバス路線もこの区間は愛育病院経由で走らせていた。そのような意味では、戦争で休止された免許を有効活用したとも言える。
広尾橋以北が車が通れるようになった時期は明らかではないが、戦後すぐの時点で西麻布~広尾橋は車道が一応存在したようだ。ただし、併用軌道として車道がしっかりと整備されたのは昭和39年の東京オリンピックの頃で相当後になってからである。この区間は昭和44年に都電が廃止されるまでバス路線は設定されず、バスのメインルートはあくまで愛育病院経由であった。