担当営業所
北営業所
運行区間・運行回数
系統・枝番 | 起点、経由地、終点 | 備考 | キロ程(往/復) | 平日 | 土曜 | 休日 | |||
→ | ← | → | ← | → | ← | ||||
王41 | 王子駅~王子5~新田橋~新田2~新田1 | 3.803km | 70 | 70 | 61 | 62 | 44 | 50 | |
王41出入 | 北車庫~王子駅 | 2.730km | 17 | 14 | 15 | 16 | 7 | 11 | |
王41折返 | 王子駅→王子5→新田橋→新田2 | 3.203km | 1 | ||||||
王45 | 王子駅~王子5~新田橋~小台土手上~千住桜木~北千住駅 | 9.815/9.745km | 25 | 25 | 18 | 18 | 14 | 14 |
現在
年表
系統 | 年月日 | 営業所 | 距離 | 概要 |
31 | S25.12.25 | 滝野川 | 3.160km | 王子駅~豊島8~野新田(現新田3)が開通 |
73 | S34. 2. 1 | 滝野川 | 10.875/10.210km | 王子駅~豊島8~足立区役所(現千住1)が開通 |
31 | S34.8.5 | 滝野川 | 3.803km | 新田下町(野新田)~新田上町(現新田1)が開通 |
31 | S37.1.25 | 滝野川 | 3.803km/3.803km | 新田橋~北本通り間で、王子方面の経路変更 |
73 | S37. 1.25 | 滝野川 | 10.875/ 9.935km | 道場 |
73 | S41.12.22 | 滝野川 | 9.300/ 9.935km | 千住桜木~足立区役所を千住元町→氷川神社→千住寿町→千住龍田町→足立区役所→千住中居町→千住桜木から千住桜木→足立区役所→千住中居町→千住桜木の小ループに変更 |
73 | S45 .8. 1 | 滝野川 | 9.300/ 9.365km | 一部経路変更 |
王45 | S47.11.12 | 滝野川 | *** | 新系統番号化、王45とする |
王41 | S47.11.12 | 滝野川 | *** | 新系統番号化、王41とする |
王41 | S53.11.1 | 志村 | *** | 志村営業所に移管 |
王41 | S57.3.29 | 北 | *** | 志村の閉所により北営業所に移管 |
王45 | S53.11. 1 | 志村 | *** | 志村営業所に移管 |
王45 | S57. 3.29 | 北 | *** | 志村営業所の閉所により北営業所に移管 |
王45 | H 8. 5 7 | 北 | 9.640/ 9.385km | 足立区役所の移転により王子駅~北千住駅に延長変更 |
王45 | H12. 4.15 | 北 | 9.610/ 9.540km | 一部経路変更 |
王45 | H17. 6.27 | 北 | 9.815/ 9.745km | ハートアイランド付近(新田東~新田土手通り)で経路変更 |
路線の概要
王子駅と隅田川・荒川放水路に挟まれた足立区南部の沿線を結ぶ。新田地区を結ぶ短距離系統[王41]と、荒川放水路の土手沿いに宮城・小台・千住地区を結ぶ[王45]の2系統から成り立っている。系統番号は別々だが、共通でダイヤを組んでいることもあり、ここでは一緒に取り扱う。
王子駅と足立区の新田地区を結ぶ[王41]、そして新田地区を経由して北千住へと向かう[王45]は、途中までの経路が同じであることや、バスの運用から兄弟路線として扱われることが多い。王子駅の1番乗り場から発車するとまずは北本通りを北へ進み、王子消防署
前の交差点を右折して紀州通りへ、そして東京成徳大学高校の先の交差点を左折して、狭い路地へと進んでいく。曲がってすぐに停車するのは豊島七丁目、そしてさらにバスは細い道を進んでいく。
突き当たりを左折してすぐに交差点を右折。まるで教習所のクランクのようだ。路地からバスがヌッと出てきて曲がる光景は、見ている方もヒヤヒヤするかもしれない。
隅田川に架かる新田橋を渡り新田地区へ。なお、王子方面は新田橋から来ると右折し、庚申通り商店街を北本通りへと進む。両岸には桜の木が植えられており、春には見事な桜並木を見ることができる。新田地区は
荒川と隅田川に挟まれた土地で、住所は足立区ではあるが人の流動は北区王子側への流動が多い。
新田橋を渡った付近は小規模ながらも商店街が形成されており、地域住民の買い物スポットとなっている。新田三丁目交差点で[王45]は右折してハートアイランド方面へと向かい、[王41]はそのまま直進、その先の交差点で[王55]と合流して北西へと進路を変える。環状七号線を渡ると程なく終点の新田一丁目となる。終点については折返所の章も参照。
新田三丁目交差点で[王41]と別れた[王45]はハートアイランド方面へと直進し、スーパーマーケットがある交差点を右折して、ハートアイランド西停留所。[王55]の本線ではカバーできない部分を[王45]がカバーし、[王55折返]が運行しない時間帯でもハートアイランド地区の利便性を補わないようにしている。
ハートアイランド西停留所の先にある交差点を左折し、荒川の土手道路をしばらく走っていく。信号も少なく、壮快な区間だ。
江北橋が見えてくると宮城土手上停留所。さらに土手道路を走って尾久橋通りを越えると日暮里舎人ライナーの足立小台駅がある。ただし[王45]は並行するはるかぜとは異なり、王子駅方向のみ停留所が設けられている。それ以外の土手道路の区間は歩道もなく、停留所のところだけ歩道と小さなバス停のスペースが設けられている区間が続く。隅田川と荒川に挟まれた土手の道路を走ること約4km、西新井橋が見えてくるとバスは土手上の道路から別れて墨堤通りを走って行く。ここからは[端44](駒込病院~北千住駅)と合流となる。千住竜田町停留所をすぎ、千住龍田町交差点を左折して北千住の駅前通りに入る。この区間は渋滞も多く、悩まされる区間でもある。
日光街道との交差点を抜け、北千住駅前の商店街を抜けると終点の北千住駅である。
歴史
足立区でありながら隅田川・荒川に囲まれた離れ小島のような新田地区。元は鹿浜の新田という意味で名付けられたようだが、大正時代に掘削された荒川放水路により対岸の鹿浜地区と分断され、鹿浜の渡しが設けられた。また、王子エリアとの間には宮堀の渡し(現在の新神谷橋付近)と野新田(やしんでん)の渡し(現在の新田橋付近)が整備されたものの、自動車は直接行き来できなかった。新田橋が架けられたのは昭和16年のことで、既に戦中の路線縮小期に入っていたこともあってバス路線は設定されなかった。住民は北本通りか下十条(現・東十条)駅まで歩いて交通機関を利用していたという。利便性向上や、沿線の都営住宅の建設もあって路線開設の運びとなった。
初のバス路線が引かれたのは昭和25年12月のことで、[31](王子駅~野新田)が開業した。北本通りから新田橋を渡って現在の新田三丁目付近が終点となった。野新田はこの地域一帯を指す呼び名で、今でも地元の住民はその名で通じることも多いという。庚申通り商店街の区間は戦前に休止したままの免許区間を復活して再利用した。申請時の書類では新田橋停留所が「豊島城址」になっており、豊島八丁目停留所が存在していないが、開通直後の昭和26年の路線図では豊島八丁目・新田橋の並びになっている。運行した後にすぐ変えたのかは謎である。
昭和34年には新田上町(現・新田一丁目)まで延伸され、現在の路線の形が完成した。同時期に野新田は新田下町に改称されている。
唯一、豊島八丁目付近の経路だけが変わっている。当初は往復ともに庚申通り商店街を通る経路だったが、昭和37年1月に、狭いために一方通行の指定がかかって新田方面は旧・須賀貨物線沿いから住宅街を抜けて新田橋に至るようになった。
これ以降、新田地区の重要な足として君臨し、短距離ということもあって高い効率を誇った。昭和43年に環七の新神谷橋が架橋され、昭和45年3月に環七経由の[79](駒込駅~千住車庫→[王49])が開通したが、新田地区には停留所が1箇所設けられたのみであり、地域の足としては[王41]が中心だった。例えば昭和52年では平日164往復も走り、乗客数は11,147人/日、営業係数は67と大きな黒字になっていた。平成に入る頃でも9,000人/日程度と健闘しており、朝ラッシュ時は4分間隔での運転となっていた。
転機となったのは平成3年の南北線王子神谷駅の開業だろう。多少離れているとはいえ、沿線の多くが駅徒歩圏となったためか、本数は少しずつ減り始めたが、21世紀に入っても110往復以上を維持していた。
次の変化はハートアイランドの開発と[王55]の発展である。詳しくは[王55]の項を読んでいただくとして、年々本数が増加する[王55]に振り替える形で漸次減便され、平成23年3月改正では一気に10往復程度が削減された。と言っても、新田地区全体で見れば[王41]・[王55]を合わせて昭和50年代に近い本数が走っている。
今後の注目は新田橋の架け替えだろう。昭和36年に架橋された現在の橋は、歩道の狭さや老朽化で耐震基準を満たさないことが分かり、架け替えと拡幅の検討が平成20年から始まった。しかし、仮橋に自動車を通すか、架け替え後の位置を上流にするかで意見がまとまらず、ようやく現位置の架け替えで仮橋は歩道のみとすることとなった。平成29年に仮橋が完成すると現在の新田橋は解体される予定で、 [王41]は長期間の迂回となりそうだ。架け替え後に従来の経路に戻るかも含めて気になるところである。
もう一つの新田地区を通る[王45]についても紹介しよう。昭和34年2月に、[31]から分岐するように[73]が開業した。現在の新田三丁目から分岐して土手沿いに千住桜木を過ぎて足立区役所とを結んだ。当時の足立区役所は日光街道から北千住駅側に入った現在の東京芸術センターのところにあり、新田・宮城・小台地区との区役所連絡の目的があったのだろう。北千住駅に入らないのは今から見ると不思議だが、当時は駅前広場がかなり狭く、バスが簡単に追加で乗り入れられる状態ではなかったと思われる。
当初の千住地区は今よりもずっと多くの停留所に停車し、往復とも土手通り経由で足立区役所に板っていた(上)。それが昭和35年に復路をショートカットし、8の字を描くように循環していた(下)。土手通りから氷川神社の角で右折、さらに千住中居町の停留所で右折し、竜田町で左折し、道なりに進んで日光街道に合流して足立区役所へと達していた。このため、千住中居町では同一のポールに2回停まっていた。
昭和41年12月に経路変更を行い、かなりシンプルな経路になり、北側の西新井橋西詰→千住中居町の区間は廃止された(右段上)。大型車では厳しい区間があったのかもしれない。なお、千住桜木町→千住中組の区間では、国際興業の[関01](京成関屋駅~鳩ヶ谷)と並行していたが、昭和53年頃に同系統が廃止されてからは、この区間に走るバスは[王45]のみとなった。この路線形態は30年近く続いた。
また、当初は宮城土手上~小台町で土手通りを走らず、宮城小学校から宮城工場街(江南住区センター付近)を経由していた点であるが、昭和40年代前半に現在の経路となった。[73]専用の「宮城工場街」停留所は廃止されたが、後述のはるかぜの開業によりバスが復活した。
平成8年5月に足立区役所が現在の中央本町に移転した際に、千住緑町付近の経路を切り捨てて往復とも千住中居町経由の北千住駅発着に変更され、ようやく駅前に乗り入れることとなった。 その後、千住緑町付近はコミュニティバスはるかぜがカバーするようになっている。
それ以降は大きな変化はなかったが、平成10年頃から東伸製鋼(トーアスチール)跡のハートアイランド開発により付近の道路が毎年のように切り替わっていった。この部分は後の航空写真で見る移り変わりで紹介しよう。
2駅間をショートカットするようになったが、元々の需要が限られているためか、本数は少ないままであり、現在はおおむね1時間に1本となっている。そんなところに、平成18年7月にはるかぜ8弾(北千住駅西口~小台宮城循環)が開業し、足立区内の大半の区間で競合するようになった。北千住駅付近の経路が大回りになっていることもあるのか、近年の本数はいずれも大きく変わっていない。足立区の公共交通計画でははるかぜを新田方面に伸ばす構想もあり、今後どの程度影響を受けるか気がかりなところだ。
新田二丁目止まり
平成17年の改正で平日最終時間帯の後に2回設定された。片道のみで、新田二丁目からは環七経由でそのまま回送となる。都営バスが最終の繰り下げにあまり積極的とは言えない中、23時近くまで繰り下がったのはそれだけ需要が多かったと言える。新田一丁目は運送会社跡地を開発したマンション建設もあって、平成17年まで2,400人と微減傾向だったのが平成28年現在は3,600人にまで人口が増えており、まだ空地もあることから開発が進むのだろう。
足立の花火大会
7月下旬に西新井橋付近で打ちあがる足立の花火大会。王子側からの輸送で[王45]は活躍し、17~19時にかけて王子駅から千住桜木行きの臨時便がおよそ10分間隔で大増発される。普段は乗客があまり多いとは言えない系統だが、このときは花火見物客が周囲の住宅地から現れてバス停に並び、各便とも満載で走るさまは地元に密着した系統であることを感じさせる。
近年はハートアイランドからの乗客も多いため、豊島七丁目南付近にバスを待機させ、豊島八丁目始発も随時設定される。
方向幕の時代は白幕で前に紙を出しているだけだったが、近年のLED行先表示では専用の表示が用意され、平成23年頃からは系統番号に特別に花火マークの入ったものになっている。
足立小台駅から東側の土手通りがバス以外通行禁止になるのを利用して、花火開催中に他系統で運行を終えたバスも次々と土手通りに並んで駐車し、花火終了直前から土手寄りに始発臨時停留所を設け、随時王子駅に臨時便を出して帰りの客をさばいていく。こちらも専用の表示が用意されているが、残念ながら花火マークは出ない。