都営バス資料館

×東82

[東82]←[101]

担当営業所

渋谷営業所

運行区間

系統 区間 距離 備考
渋谷駅~南青山5~西麻布~六本木~神谷町~新橋~東京駅八重洲口 8.092km
出入 渋谷駅~渋谷車庫←東2(田87) 0.830km

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要
102 S26. 5.21 渋谷 16.092km 等々力~駒沢~渋谷駅~六本木~新橋~東京駅八重洲口が開通、東急と相互乗入
東82  S47.11.12 渋谷 *** 新番号化、東82とする
東82  S59. 2.16 渋谷 8,092km 等々力~渋谷駅を短縮、東急と相互乗入を中止
東82 H 2. 3.31 渋谷 8.092km 渋88(渋谷駅~東京タワー)と統合、系統番号を渋88甲に変更

路線概要

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 東京駅八重洲口と渋谷駅を新橋・神谷町・六本木経由で結ぶ。昭和59年までは東急と共同運行を行い、さらに等々力まで達していた。
 東京駅八重洲口は八重洲南口の都営バス乗り場で、発車するとUターンするように外堀通りを南下し、数寄屋橋を経て新橋に至る。
新橋駅の構内には入らず、外堀通りの新幹線ガードの脇に「新橋」停留所があった。そこから右折して新橋駅のガードをくぐると「新橋駅北口」停留所(昭和59年増設)で、ここからは系統番号が統合された後の[渋88]と同じ経路となるが、ここでも述べておこう。
 しばらく西新橋のビジネス街を走り、虎ノ門で左折すると今度は桜田通りに入る。虎の門病院、ホテルオークラも近いが、大通りからは引っ込んだところにあるため、車窓からは窺えない。車窓には「第xx森ビル」と名のついたビルも目立つ。神谷町駅を過ぎると麻布台に向かって坂を上り始め、上り切った飯倉の交差点で東京タワーのふもとを見ながら右折する。
 外苑東通りに入ると、東京タワーを背にして進む。飯倉片町で首都高をくぐれば段々と六本木の風景が近づいてくる。六本木交差点を左折してからは六本木通りをしばらく走り、高樹町(南青山七丁目)で六本木通りと別れる。骨董通りと呼ばれるだけあって、骨董品の店が集まっている。根津美術館等も近く、戦後にこの通りに自然発生的に店が集まってきたともいう。
 南青山五丁目で青山通りに抜け、青山学院大学のキャンパスを左手に見ながら金王坂を下って渋谷駅ターミナルに到着して終点となる。
 昭和59年までは渋谷駅ターミナルに入らず、渋谷駅のガードをくぐった先の国道246号上に停留所があった。そのまま玉川通りに入り、三軒茶屋で世田谷通りと分かれ、上馬で環七と交差し、駒沢交差点で左折して駒沢公園通りに入る。
 曲がって次の停留所は「駒沢営業所」。右手に小さな東急バスの車庫があったが、昭和59年の分断直後に営業所は廃止され、駒沢折返所と変更された後、現在は駒沢公園西口と名乗っている。現在はお洒落なカフェやレストランが点在し、駒沢公園でドッグランができるのに合わせて、犬が同伴可能なカフェもある。
 住宅街の中を進み、深沢不動で駒沢通りとクロスする。鉄道駅から離れている一帯で、東急バスが四方八方に走っている。深沢不動の先の二股を右に進み、玉川郵便局、玉川警察署を過ぎて緩やかに坂を下っていくと、終点の等々力となる。
駅前にロータリーを設けるスペースもないため、バスは駅手前の交差点を左折し、玉川区民館の先、線路沿いの目黒通りの陸橋下を折返所として使っている。この系統だけ等々力操車所を折返所として使っていないのが面白い。
 なお、渋谷駅~等々力については東急バスが[渋82]として運行を継続している。

歴史

 渋谷駅を貫通する東急との相互乗り入れ路線の3番目として開業した。基本的に系統番号は開通年代順に振られていくが、[102]と比較的若い番号を与えられたのは、ちょうどそこだけ欠番になっていたためである。元々100番台の系統番号は、戦後すぐにトレーラーバスとして郊外から都心直通を目指した系統がつける予定で、昭和22年2月に開通した[102](荻窪~築地→[東75])がとりあえず使い始めたものである。しかし、他の計画系統は民営バスの営業エリアにかかるためにすぐに開業できず、形を変え、相互乗り入れ路線として改めて昭和22年6月から順次開通していった。相互乗り入れでなかった[102]は昭和24年9月に[300]に改番されたため、当系統は、ちょうど空いた枠に押し込まれたことになる。東京駅と渋谷駅の間は、既に赤坂見附から虎ノ門、桜田門を回る[103](東84)、六本木・溜池・新橋を回る[123](東85)があったため、差別化もあったのか麻布台(飯倉)・神谷町を回る経路となった。当時はこの区間には都営バスは走っておらず、区間復活も兼ねていたのだろう。東急バスは等々力線と名乗っていた。
 これ以降は路線形態はほとんど変わらず、昭和40年代の渋谷駅付近の共通の変化として、往復ともハチ公前を通っていたのが、昭和41~42年頃に等々力行きが246(首都高下)経由に変更となり、昭和49年4月に東京駅行きも新玉川線の工事のためR246経由に変更となったことである。これにより、東京駅行きのバス停は文化会館脇の駅から離れたところに、等々力行きも駅西口から歩道橋を渡った先と位置が離れ、乗換がかなり不便になったことは否めない。このときは臨時の変更とされたが、結局戻ることはなかった。
 それでも、他の相互乗り入れ路線が次々と廃止されていく中で、地下鉄の並行区間が少ないこともあって最後まで生き残る姿を見せた。昭和52年の新玉川線開業で2割程度の乗客減があったものの、まだ絶対数は多かったが、昭和59年2月についに分断され、都営は[東82]として東京駅~渋谷駅を、東急側は番号を継いで[渋82](渋谷駅~等々力)となった。
 そして、直後の昭和59年3月に[渋88](渋谷駅~東京タワー)が渋谷駅~南青山七丁目の経路を[橋89→都01]と振り替えて青山学院経由に変更したことで、経路の大部分が[渋88]と重複するようになった。また、速達性という観点でも厳しいものがあり、渋谷駅~東京駅はピーク時で所定72分を要していた。新橋~東京駅だけで20分取られている時間帯もあり、現在より渋滞が激しかったことが伺える。
 昭和60年には2割程度本数を減らしたが、[渋88]と重複しているからか、平成2年に運行区間は変えずに系統番号が[渋88]に変更され、[東82]の名は消滅してしまった。区間が短いほうの系統番号が引き継がれたのは不思議だが、統合後は渋谷駅~東京タワーがメインの運行とされたからであろう。東京駅まで行く便は2/3程度に大きく減便されてしまった。そもそも虎ノ門以遠に行く場合は、[都01]のほうが速くて本数も多く、乗り通す需要も少なくなっていったのだろう。
 その後の[渋88]時代には、夕方以降や朝に渋谷駅~新橋駅北口の折り返し運行が出現し、本数自体も削減されていった。平成12年12月の改編で東京タワー発着がなくなり渋谷駅~新橋駅北口に一本化されて多少盛り返したものの、現在はまたまた本数が減ってきて1時間に2本程度とジリ貧状態にあることは否めない。
  [東82]だが、東京駅から等々力まで直通するというよりも、むしろ渋谷駅を貫通して走るという利便性も大きかったように感じる。昭和50年代の路線再編成の中で、山手線を境に営業エリアで分割されたわけだが、小ぶりな路線でも良いので、駅を貫通する路線をうまく設定できないものだろうかと思う。

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