担当営業所
江戸川営業所
運行区間
系統 | 区間 | 距離 | 備考 |
本 | 押上駅~太平三丁目~石原一丁目~浅草橋~東日本橋駅 | 5.603/ 4.716km |
年表
系統 | 年月日 | 営業所 | 距離 | 概要 |
41 | S27. 7. 5 | 江東 | 6.863km | 押上駅~浅草橋~東京駅八重洲口が開通 |
41 | S33. 6.10 | 江東 | 10.074/10.532km | 平井3(現平井西袋)~中居堀~吾嬬西1~押上駅を延長 |
41 | S42. 6.10 | 江東 | 10.444/10.702km | 平井3の終点を変更延長 |
41 | S47. 2. 1 | 江東 | 9.063/ 8.803km | 平井側を平井駅まで延長し、平井駅~東日本橋駅に変更短縮 |
41 | S47.10.20 | 葛西 | 9.063/ 8.803km | 葛西営業所の営業所昇格により移管 |
草32 | S50. 8. 1 | 葛西 | 5.603/ 4.716km | 草32:押上駅~東日本橋駅と平23乙:平井駅~両国駅に分割 |
草32 | S52.12.16 | 葛西 | *** | 押上駅~東日本橋駅を廃止 |
路線概要
(
押上駅と東日本橋を結ぶ系統である。太平三丁目から蔵前までは蔵前橋通りを横一直線に通っており、主に墨田区内から両端の駅に接続する役割を担っていた。なお、両端とも折返所がないためループ状の経路で折り返していた。
葛西駅から東西線と京葉線に囲まれた江戸川寄りの地域を南北に結ぶ。なぎさニュータウン・コーシ
押上駅は路上の四ツ目通りのバス停から出発となる。ここから四ツ目通りを太平三丁目まで南下し、錦糸町駅を目前にして右折し蔵前橋通りに入る。[塚20](→[都02])と並走し、石原一丁目を直進し同愛記念病院から蔵前橋を渡る。
蔵前一丁目で浅草線の駅と接続して左折し浅草橋方面に向かう。浅草橋を過ぎ、京葉道路をまたぐと[東42](東京駅八重洲口~南千住)と同じように馬喰町まで進み、総武線馬喰町駅の真上を通り馬喰町で左折し、東日本橋駅で終点となる。すぐ先の東日本橋交差点を鋭角にターンし、浅草橋で直進して元の経路に戻っていた。
歴史
元々は昭和27年7月に押上駅~東京駅八重洲口の路線として開業した。当時は浅草線も総武快速線もなく、主に墨田区の蔵前橋通り沿線から日本橋・東京駅方面へのアクセス改善を目的として開業したのだろう。沿線に都電は走っていたが上野広小路・大塚駅方面のみだった。なお、当時の押上駅はループ状に折り返していなかったようにも見えるが、どこで折り返していたのかは定かでない。
浅草橋~東京駅は都電22系統(南千住~新橋)とは異なり、浅草橋から村松町(東日本橋)・久松町まで南下し、右折して人形町・小舟町と進み、日本橋川北岸を進み、中央通りに当たると左折して日本橋を渡り、そこから通り三丁目経由で東京駅八重洲口を終点としていた。都電とわざと異なる経路にすることで、新たな需要を掘り起こそうとしたのが分かる。
さらに、昭和33年6月に平井駅北側地区にバス路線がなかったこともあり、交通事情の改善もあり平井三丁目まで延伸された。これが初めて中平井橋を渡った都営バスである。なお、既に[25][34](浅草寿町~東小松川五丁目、三角~平井四丁目)が平井に走っていたが、平井三丁目の終点は他系統の平井三丁目のいずれとも異なった位置にあった。だいたい今の平井西袋停留所にあった思われる。確かに旧住所で言えば、どの停留所も平井三丁目に属してはいたのだが……。同時に平井地区には新平井橋(→東墨田一丁目)・中平井(→平井七丁目第三アパート)停留所が新設された(下図)。
昭和42年6月に平井三丁目~平井三丁目終点が1区間延長された下図)。終点は現在の平井操車所で、折り返し所の位置も変わっていない。なぜ紛らわしい「平井三丁目終点」と名づけたのかは分からない。従来からの行き先表示を書き換えず済むためだろうか。
しかし、昭和30年代後半の都営1号線(浅草線)・営団日比谷線の開業で多くが地下鉄でカバー可能になり、押上からも地下鉄でアクセスできるようになった。非効率となっていたためか、総武線延伸が間近に迫った昭和47年2月に[41]系統は東京駅八重洲口を切り捨て、東日本橋駅止まりに短縮した。やや中途半端な終点だが、実質的には浅草橋までの足が確保されていれば良しとしたのだろう。
同時に平井側では延伸され、平井三丁目終点から平井駅まで延長されたのである。今考えても平井操車所から先は大型バスを通すにはかなり無理のある道路だが、ここをバスが通っていた時代もあったのである。
平井駅から見ると、押上方面は平井橋方面にまっすぐ進んだ後、旧中川沿いに平井操車所まで進み、平井操車所から見るとしばらく進んでから左折するという上下で相当離れた経路をとっていたようだ。かなり無理して結んでいることがうかがえるが、国鉄駅へと結ぶことで新たな需要を獲得しようとしたほか、[25]廃止(昭和46年3月)の代替という意味合いも少しながらあったのかもしれない(下図)。
しかし、この経路は無理があったようで、昭和50年8月に大掛かりな改編が行われた。[草32]は押上駅を境に分割され、都心側は[草32]東日本橋駅~蔵前橋~太平三丁目~押上駅に、また平井側は平井駅付近の経路を現在と同じく平井七丁目・中平井経由にした上で、押上駅~平井駅という路線になり、系統番号は[平23乙]となった。同時に平井操車所にバスが来なくなる補償も含めて、[平23]は平井駅から先、往復とも平井七丁目・中平井経由で平井操車所まで延伸された。
これで現在の路線網が完成したが、以降の[平23乙]については[上23]の項を参照。平井小学校付近の都道が開通して、往復とも同じ経路が取れるようになったためであろう。
しかし、押上駅での分割は疑問が残る設定だった。[草32]・[平23乙]ともに都営浅草線の駅に接続すればいいという考えだったのだろうが、残った蔵前橋通りの区間で押上・浅草橋に出る需要がそこまで多いわけもなく、頻発する[塚20](大塚駅~錦糸町駅)の方が明らかに便利であった。
昭和52年度には営業成績ワースト4、営業係数200超えという不名誉な成績を残し、昭和52年末の路線再編成で廃止された。墨田区内の区間は区役所連絡の目的もあり、[平23乙]が廃止前の昭和52年3月に押上駅~両国駅を延伸したため、この系統の独自性を発揮する部分は僅かに蔵前橋を渡る前後のみとなっていた。
所管も当初の江東から昭和47年の葛西開設とともに葛西に移管されたが、葛西からはかなり離れた路線で、担当していたのが不思議である。江東は都電代替で多くの系統を手放す必要があり、青戸や南千住も担当する余裕がなかったのだろうか。
なお、出入庫は当時の記録でも設定がなかったため、全て回送だったようだ。