担当営業所
深川営業所
運行区間
系統 | 区間 | 距離 | 備考 |
本 | 東京駅南口~銀座4~永代橋~門前仲町~東陽町駅~旧葛西橋~北砂7 | 12.104km | |
折1 | 東京駅南口~銀座4~永代橋~門前仲町~東陽町駅 | 7.859km | |
折2 | 東京駅南口←銀座4←永代橋←門前仲町 | 6.641km | |
折3 | 東陽町駅~旧葛西橋~北砂7 | 4.245km |
年表
系統 | 年月日 | 営業所 | 距離 | 概要 |
27 | S22.8.5 | 洲崎 | *** | 袖ヶ浦~門前仲町が開通 |
27 | S22.12.1 | 洲崎 | *** | 葛西橋(現旧葛西橋)~門前仲町~有楽町駅に延長 |
27 | S23.11.1 | 洲崎 | 10.954km | 東京駅南口~有楽町を延長 |
27 | S26 | 洲崎 | 11.054km | キロ程修正? |
27 | S29.12.28 | 洲崎 | 12.104km | 北砂町5(現北砂7)~葛西橋を延長 |
27 | S43.5.27 | 深川 | *** | 洲崎営業所の深川への移転改称により深川に移管 |
東21 | S47.11.12 | 深川 | *** | 新系統番号化、東21とする |
東21 | S63.6.8 | 深川 | *** | 有楽町線新木場延伸に伴う改編で東京駅南口~北砂7を廃止 |
路線概要
東京駅から江東区の砂町地区各地を回り、北砂七丁目を終点とする。本数は少なめで、昼間は1時間に2本程度だった。
東京駅南口を発車し、有楽町駅から晴海通りに入って銀座を通る。方面を見ると北口発で永代通りを直進しそうにも見えるが、銀座・築地をぐるっと回るのを特徴としていた。勝どき橋を渡る直前で左折、聖路加病院や明石町を北上する。[東15]の東京駅八重洲口発のバスとすれ違うのが少し不思議な感じだ。新川二丁
目で右折、永代橋の停留所で左から来た永代通りに合流、永代橋を渡り、しばらく東西線の真上を走る。門前仲町・東陽町駅発着の表示も用意されていたが、ほとんどが東京駅南口からの通し運転だった。
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東陽町駅からは後から開業した[亀21](亀戸駅~東陽町駅、江東の巻参照)が並走し、南砂三丁目からは元八幡通りの商店街を走る。昔ながらの商店と住宅が混在する通りで、大型車がすれ違うのはギリギリの道幅だ。
突き当りで左折すると袖ヶ浦の停留所。一般的には千葉県の袖ヶ浦市や習志野市の地名のほうが有名だが、ヤマトタケルの東征時に荒れる海を鎮めるため入水した弟橘媛の袖が流れ着いた伝承がここにも伝わるのだろうか。
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旧葛西橋の丁字路を左折して清洲橋通りに入り、亀高橋を右折する。しばらく進んだ砂町銀座入口手前の北砂七丁目で終点となり、バスは道路脇の小さな折返所を使って元来た方向へと折り返す。
路線の歴史
江東区南砂地区の[亀21]の走る南砂三丁目~袖ヶ浦の区間は戦前からバス路線が設定されており、少なくとも昭和10年代には洲崎(現・東陽三丁目)~袖ヶ浦が走っており、城東電気軌道・葛飾乗合自動車を合併した東京地下鉄道によって運行されていた。昭和17年の陸上交通調整による統合後は市バスの運行となり、江東所管で[58]を名乗った。
昭和18年6月の改編では他の系統と統合して[34](東京駅~日本橋~門前仲町~洲崎~袖ヶ浦)に延長、昭和19年5月では門前仲町発着に短縮され、昭和20年3月の東京大空襲後に運行を休止、4月1日付でそのまま廃止となった。
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戦後、昭和22年8月に戦前と同じ形で袖ヶ浦~門前仲町が復旧し、12月には葛西橋(現・旧葛西橋)~有楽町駅に両端が延長、さらに昭和23年11月には東京駅に延伸された。昭和29年には葛西橋から亀高橋を経由して北砂町五丁目(現・北砂七丁目)まで延伸され、路線の形ができあがる。今から見ると中途半端な終点だが、当時は丸八通りもまだ未整備で、北砂七丁目以北はバスの通れるような道が存在しなかったのである。折返所については本書の終点訪問の章を参照のこと。
当時の永代通りは都電が中心で、永代通りを東西に走り抜ける唯一のバス路線だった。洲崎営業所の目の前を通る唯一の系統ということもあり、往時は本線と呼ばれていたようだ。東西線開通前の昭和38年頃のデータでは90~100往復程度の本数があり、昭和40年度の乗降調査では8,400人/日と幹線の立場だったことが分かる。
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だが、昭和44年の東西線全通後は渋滞による定時性の低下と相まって徐々に価値を落としていく。昭和49年に並行する[亀21]が開通し、[東21]は本数と乗客数を減らしていく。東京駅から東陽町までは都電代替の[東22](東京駅北口~錦糸町駅)もあり、砂町エリアから東陽町駅までは[亀21]で十分となると、[東21]の需要は限られたものになっていったのだろう。
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それでも昭和53年度には6,088人/日の乗客数があったが、昭和57年度に3,866人/日に、昭和61年度に3,093人/日とほぼ半減、営業係数もこれとリンクするように悪化し、昭和62年度には178とかなりの赤字系統となってしまう。昭和50年代の路線再編成の嵐を乗り越えたのは、乗客数が一定数いて残しておく価値があったと判断されたからかもしないが、結局、昭和63年6月の再編で有楽町線延伸と直接の関係は薄いものの全廃された。このとき同じ数字の[門21](門前仲町~東大島駅)が誕生したが、江東区内のバスが少なかった地域と区役所を結ぶように誕生した路線で、[東21]との関連性は薄い。
晴海通りバスロケ
晴海通りの銀座四丁目などの停留所にはバスロケーションシステムが整備されていたが、これは昭和63年の都市新バスに伴うものではなく、少し前の昭和61年頃に整備されたもので、昭和63年廃止の[東21]や[東18]も対応系統となっていた。下りは数寄屋橋・銀座四丁目・築地三丁目・築地六丁目、上りは勝どき橋南詰・築地六丁目・築地三丁目などに接近表示つきの停留所が作られたほか、運行管理用のチェックポイントとなる路上機つき停留所も各地に増設された。
銀座四丁目や晴海見本市会場は表示面の大きい大型のずんぐりした停留所が採用されたのも特徴で、平成12年の機器更新まで長らく、接近表示欄に廃止系統がシールで隠されたままバス停に名残が残っていた。