都営バス資料館

錦37

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担当営業所

青戸支所

運行区間・運行回数

系統・枝番 起点、経由地、終点           備考 キロ程(往/復) 平日 土曜 休日
錦37 青戸車庫~四ツ木橋~八広~押上駅~錦糸町駅 8.080km 51 51 60 60 54 54
錦37折返 新四ツ木橋~八広~押上駅~錦糸町駅 5.980km 7 7


現在

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要               
8 S24. 9. 1 新谷町 8.468km 吾嬬西5(現八広2)~吾嬬西9(八広)~浅草寿町~上野広小路が開通
125 S25. 8. 8 新谷町 8.468km 京成と相互乗入を開始、125系統とする
125 S25.12.27 新谷町 11.800km 青戸1(青戸公団住宅)~本田警察署~吾嬬西5~押上~上野広小路に変更延長
125 S27. 7.31 新谷町 12.220km? 四ツ木橋の架け替えにより、(新)四ツ木橋経由に変更
125 S34.11. 1 青戸 11.850km 青戸支所の開設により移管
25 S47. 5. 1 青戸 9.700km 青戸車庫~押上駅~上野広小路に変更短縮、相互乗入を中止し25系統とする
上37 S47.11.12 青戸 *** 新系統番号化、上37とする
上37  S52.12.16 青戸 11.300/10.721km 上35の廃止により、上野広小路~須田町を延長
上37  S57. 4.16 青戸 *** 上野広小路から上野松坂屋に改称
上37  S57.12.26 青戸 9.700km 上野広小路~須田町を短縮
錦37  H 2.11. 5 青戸 6.995km 平23乙と行き先を振替、青戸車庫~錦糸町駅とし錦37とする
錦37折 H 2.11. 5 青戸 *** 新四ツ木橋~錦糸町駅を開設
錦37  H 8. 6. 1 青戸 *** 錦糸町駅の乗り場をガード下から南口(楽天地向かい)に変更
錦37  H 9. 6. 1 青戸 7.395km 錦糸町駅北口バスターミナルの新設完了により経路変更
錦37  H17. 4. 1 [青戸] 7.395km (直営)青戸分駐所に移管
錦37  H18. 4. 1 [青戸] *** キロ程の修正
錦37  H20. 4. 1 青戸 *** 青戸支所に移管、はとバスに運行を委託
錦37  H24. 4. 1 青戸 8.080km 押上駅(交通広場)に乗り入れ開始

路線概要

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 錦糸町駅から墨田区を北上し、四ツ木橋を渡り葛飾区の青戸車庫で終点となる。東墨田地区を縦断する数少ない系統である。また平日土曜のラッシュ時を中心に、墨田区内で完結する錦糸町駅~新四ツ木橋の折り返しが運転されている。
城東地区最大の繁華街である錦糸町と墨田区北部を直結する。現在ではスカイツリーお膝元の押上駅ターミナルにも乗り入れ、 通勤通学のほか、行楽客やウィンズ(競馬)客で終日賑わいを見せる路線である。
錦糸町駅を出発したバスは四ツ目通りを北上する。進行方向前方には東京スカイツリーの姿がある。押上停留所を過ぎると、錦糸町駅から同じ経路を走ってきた[都08][S-1]は交差点を左折するが[錦37]は直進、京成橋を渡り左折して押上駅バスターミナルへ乗り入れる。東京スカイツリーのほぼ真下に位置し、錦糸町駅からここまで利用する乗客も多い。ちなみに京成橋の名前は京成電鉄の本社が橋のたもとにあったことに由来する。
押上駅を発車するとバスは先ほどまでの通りに戻って北上、押上三丁目交差点を右折し、いったん南東の方角へと向きを変え、突き当たりの十間橋通り交差点を左折し、十間橋通りに入る。
東武亀戸線の踏切を通過し、明治通りとの交差点である中居堀にたどり着く。橘通り商店街も近い。この先は八広はなみずき通りを北上していくが、町工場や低層の住宅が立ち並ぶ、昭和の下町を思い起こさせる町並みである。ただ、「八広」という地名自体は、昭和40年に誕生したもので、歴史は浅い。住居表示の実施に伴い、それまでの寺島町六・八丁目、隅田町四丁目・吾嬬町西五~九丁目の8地区から「八」を連想し、末広がりの「広」を組み合わせて命名されたものである。なお、京成電車の「八広駅」も、かつては「荒川駅」であったが、平成6年に地元の要望により改正された。ちなみに八広駅最寄りのバス停留所は駅名改称前から「八広」であり、「○丁目」も付かないが「駅前」も付かないまま現在に至る。
京成押上線の高架をくぐった次の信号を、新四ツ木橋ゆきの便は右折する。この交差点は五叉路となっているが、歩道橋がX字型に架けられているのが珍しい。また、この歩道橋には更正橋と書かれているが、この名前はかつて曳舟川に架かっていた橋の名前であった。今では曳舟川は埋め立てられ、橋の名前だけが当時を偲ぶように残っている。
新四ツ木橋停留所は、交差点を右折後、新四ツ木橋の側道に入ったところに所在する。錦糸町駅ゆきのバスは橋の下を折返し逆方向の側道上にある。平成3年の[錦37]誕生時にはむしろ新四ツ木橋折返しが主力で、青戸車庫発着は出入庫便として不等間隔の運転であったが、その後、水戸街道の渋滞が緩和されてきたこともあってか、あるいは葛飾区側の需要に応えるためか、現在では新四ツ木橋発着は朝夕の一部を残すのみとなった。
さて、[錦37]の本線は先ほどの交差点を直進し四ツ木橋南交差点を右折して、国道6号線水戸街道に入る。ここからは[草39]と同経路である。新四ツ木橋を右手に見ながら荒川と綾瀬川を渡って四ツ木橋停留所である。
さて、新四ツ木橋からの下り線の高架橋が合流してきたのもつかの間、今度は本田陸橋の高架を横目に側道に入り、平和橋通りと交わる本田(ほんでん)広小
路交差点の前後にあるのが葛飾警察署で、交差点近く
にはイトーヨーカドー四ツ木店があり、買物客の利用も多い。ここまで来ると車内の乗客も少なくなり、最後の一走りの後、終点の青戸車庫に到着である。

歴史

 青戸車庫から八広・東墨田地区で集客しつつ、押上を経て錦糸町に向かう系統である。今の姿になったのは平成2年のことで、それ以前は[上37]と名乗って押上から浅草・上野松坂屋へと向かっていた。
 八広地区に初めて市バスが通ったのは昭和8年4月、水戸街道経由で寺島終点(現東向島広小路)まで来ていたバスが玉ノ井まで延伸されたときであった。その後向島更生小学校、吾嬬西九丁目と終点が変わった。吾嬬西九丁目は現在の八広バス停に相当する。
 [錦37]のように押上から来る系統は、昭和12年に[35,36](大島車庫~亀戸駅~中居堀橋~吾嬬西九~寺島広小路~白鬚橋~今戸町・東武浅草駅・千束町循環)が開通したのが最初である。ほどなくして[36](大島車庫~吾嬬西九~東武浅草駅~入谷町)に改められた。この時点では亀戸駅から八広・白鬚橋を回る形だったが、昭和14年頃に再度組み替えて[22](吾嬬西九~押上~浅草雷門~上野公園~道灌山下~西新井橋)となり、昭和17年2月の交通調整時に上野で2分割されて吾妻西九丁目~押上~上野広小路という姿になった。これが[上37]の原型である。
 ただしこの形も長持ちせず、戦時中の路線縮小で昭和17年12月には浅草発着に短縮され、昭和18年6月の改編では他と合体して熊野前~三ノ輪~日本堤~雷門~吾妻西九に、昭和19年5月の改編では浅草~押上~吾妻西九~向島~浅草と循環になり、とにかく一定しなかった。結局昭和20年の東京大空襲後は押上経由の部分が廃止され、向島(水戸街道)経由の便が残るだけとなった。
 戦後に復旧したのは昭和24年9月のことで、吾妻西五丁目(八広二丁目)~吾嬬西九丁目(八広)~上野広小路という設定となった。このときは向島経由で、八広二丁目から見るとかなり大回りして浅草に出ていた。[8]系統を名乗ったがそれも1年限りで、昭和25年8月には京成と共同運行を行うことになり、[125]と名を変えた。都営と京成の混在するエリアであり、相互乗り入れ扱いで共同運行することで両者をまたいだエリアの柔軟な運行ができるという見込みからだったようだ。
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▲配付路線図(昭和25年、昭和29年)
 この時点では運転区間は変わらず、免許区間的には京成の一方乗り入れだったたものの、協定文書には「京成に於て立石~青戸の免許を得た場合は青戸~押上~上野広小路に変更する」と書かれ、同年12月にはその通りに延伸された。
 すなわち、本所吾妻橋~吾妻西九丁目を押上・中居堀経由に変更し、吾嬬西九丁目から(旧)四ツ木橋を渡り、四ツ木駅・本田小学校・青砥駅を通って青戸一丁目を終点とするように延長された。沿線には(旧)葛飾区役所もあり、葛飾区の中心部と上野・浅草を結ぶ系統として期待されての延伸だった。昭和27年7月には四ツ木橋の現橋への架け替えにより、幾分距離が長くなっている。
 終点の青戸一丁目は青砥駅から北上したところにあり、昭和39年頃に団地の建設とともに青戸公団住宅に改称された。開通当初は青砥公団の敷地にあった大日本機械工業青戸製造所の玄関の円形ロータリーを使って折り返し、後に現在の公団北側にあった操車所で折り返していたようだ。
しばらくはこのまま続いたが、京成・都営1号(浅草)線の直通運転開始や、共同運行系統の見直しが始まる中で、昭和47年5月に共同運行を取りやめ、都営は[25](上野広小路~押上~四ツ木橋~青戸車庫)として青戸車庫発着に短縮した。
 昭和52~57年の間は一部便のみ須田町まで延伸されていたが、それ以外の運行形態は平成に入るまで変わらなかった。なお、昭和52~57年の一時期は須田町まで延伸されていた(後述)。浅草から見ると[上37]と[草39]の2通りの青戸車庫方面があったことになるが、水戸街道を直線状に走る[草39]に比べ、住宅地の中を通る[錦37]はより地元密着感の強い系統だった。だが、70~80回の運行回数で営業係数は150前後と、都営バスの中では収支があまり良くない系統だった。
 これが変化するのが平成2年11月のことである。より近場で需要の高そうな錦糸町駅発着に切り替え、押上以西は[平23乙]に譲ることし、また、押上~十間橋を[平23乙]が通っていた押上駅・押上
三丁目経由に変更した。同時に、ラッシュ時を中心に水戸街道に入らない新四ツ木橋~錦糸町駅の折返便を作り、系統番号を[錦37]とした。
 距離短縮の効果はてきめんだったようで、収支係数は平成2年度の154から平成4年度には113と大幅に改善され、乗客数も4,220人/日→4,915人/日と2割増加した。錦糸町駅と墨田区の北部を直接結ぶ系統は従来なく、ニーズを上手くつかんだのだろう。
 以後20年あまり、基本的な姿は変わっていない。平成9年に錦糸町駅北口ターミナルの完成に伴い北口発着となったほか([都08]の項も参照)、平成24年4月から押上駅の交通広場に乗り入れるようになり、同時に方向幕の行先表示の地色が無地から紫色になったくらいだろうか。
 平成15年には半蔵門線の押上延伸があり、対錦糸町では鉄道利用への転移も予想されたが、1割程度の減便で乗り切り、それ以後も本数は減っていない。土曜休日は5本/時が確保され、利便性は高いと言える。以前は平日土曜の昼間にもあった新四ツ木橋発着が解消されて青戸車庫発着に延伸されているのも変化と言える。
 平日朝の上り所要時間が、平成12年は車庫→錦糸町で50分だったのが現行では40分と短くなっていること合わせても、水戸街道の渋滞が昔ほどではなくなっているのだろう。
 平成20年からははとバスに委託されたものの、青戸支所の中では大型車が配車される傾向が強く、はとバス委託系統の中でも重要性の高い系統として活躍している。
須田町発着
 昭和52年12月~昭和57年12月の期間は、上野広小路からさらに中央通りを南下して須田町を終点としていた。都電代替路線でもあった[上35](亀戸駅~須田町)の廃止時に代わりに延長したからである。かつては上野広小路から南側も様々な路線があったのだが、残るは[上37]のみとなった。
 上野広小路の南行き停留所は松坂屋の南館前にあり、次は末広町駅の交差点にあった外神田五丁目、そしてソフマップの交差点そばに外神田三丁目があり、そこから先は一方向循環で昌平橋手前に外神田二丁目、淡路町駅A3出口に近い小川町駅、靖国通りに入って須田町、総武線ガード近くの秋葉原駅に停まって折り返していた。
 しかし、都電時代は須田町止まりに意味があったのだろうが、ただの交差点で中途半端な終点というのは意味が薄かった。もっとも、末期の上野広小路以南は平日のみ1時間に1本程度で、休日は全便運休という有様だった。昭和57年12月の廃止で、上野広小路から南側に行く系統はなくなった。その後、平成20年に夢の下町バスこと[S-1](東京駅北口~都営両国駅)が走るようになり、久々の復活を果たすことになった。
 なお、その後方向幕の交換のタイミングがなかったこともあり、平成2年の[錦37]化に伴う交換までずっと「須田町」のコマが残った状態になっていた。

青戸分駐所

 平成18年には青戸がはとバスに運行を委託されたが、[錦37]は委託されずに直営のまま残った。しかし運行の拠点は青戸車庫のままだったが、どうしていたかというと青戸支所の中に直営の南千住営業所青戸分駐所を作ってそこで運行していた。人員数の都合もあったのだろう。
 そのため、[錦37]の案内上は南千住営業所の所管とされ、運行車両の局番表記も南千住を示す「K」となった。このために、青戸・新宿から青戸分駐所に9輛の車輛が転属したが、元青戸の車輛は運行拠点を変えず、側面の文字を書き換えただけとなった。
 なお、[錦37]のダイヤはそれだけでは足りないためか、南千住(本体)の担当ダイヤも存在し、リフトつき超低床車が運行に入る光景も見ることができた。
 平成20年4月より[錦37]もはとバスに移管され、1車庫2組織の状態も見納めとなった。

本田警察署

 葛飾警察署停留所。平成14年12月までは本田(ほんでん)警察署と名乗っていたもので、警察署の名に合わせて停留所が変えられた。住居表示実施より30年が過ぎて「本田」の名になじみが薄くなったことや、読み方を間違えられることが多くなったためのようだ。
「本田」は江戸時代からの由緒ある地名で、葛飾郡西葛西領(中川を境に西側の地域)を、江戸期以前に開かれた地域を「本田筋」、それ以外を「新田筋」と呼んだ。「しんでん」に対する名称なので、読み方はもちろん「ほんでん」。明治23年には南葛飾郡立石村を本田村に改称。昭和3年には本田町となり、昭和7年に葛飾区が成立すると本田町の名称は無くなるが、町名には「本田○○町」という形で名前が残され、昭和41年12月の住居表示実施で住所の地名からは消えた。
 ちなみに長寿漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」に出てくる警察署も葛飾警察署であった。架空の警察署という設定だったのだが、何と本当に葛飾警察署が出来てしまった……ので、作中では警察署が移転した設定で「新葛飾警察署」と名を変えた。
ちなみに葛飾警察署という名前自体は、昭和8年から21年までも存在した。この警察署が2分割されたのが、亀有警察署と本田(葛飾)警察署なのである。

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