都営バス資料館

×東72

[東72]←[40]

担当営業所

新宿営業所

運行区間

系統 区間 距離 備考
新宿駅西口~代々木駅~青山一丁目駅~乃木坂下~新橋~東京駅八重洲口 11.643km
新宿駅西口~代々木駅~青山一丁目駅~乃木坂下~新橋 10.013km

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要
40 S27. 5. 5 新宿 10.085km 新宿駅西口~代々木駅~東京駅南口が開通
40 S27. 7. 5 新宿 12.786km 東中野駅北口~新宿駅西口を延長
40 S28. 3.10 新宿 12.804km 北青山一丁目~溜池を赤坂見附経由から乃木坂経由に変更、また終点を東京駅八重洲口に変更
40 S37. 5.10 新宿 13.404/12.804km 東京駅行きのみ千駄ヶ谷駅を経由するように経路変更
40 S39.12. 1 新宿 13.404/12.884km 青山一丁目交差点付近で経路変更
40 S45.10.15 新宿 14.344/13.824km 新宿駅西口~代々木駅を南新宿経由から西参道経由に変更
40 S46.11. 1 新宿 11.643/11.043km 東中野駅北口~新宿駅西口を短縮
40折  S46.11. 1 新宿 10.013/ 9.413km 新宿駅西口~新橋を開設
東72 S47.11.12 新宿 *** 新番号化、[東72]とする
東72  S47.12.10 新宿 11.643km 新宿駅西口行きを千駄ヶ谷八幡経由から千駄ヶ谷駅経由に変更
東72折 S47.12.10 新宿 10.013km 同上
東72  S52.12.16 新宿 *** 新宿駅西口~東京駅八重洲口を廃止

路線概要

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 東京駅八重洲口と新宿駅西口を結ぶが、幹線道路をあまり通らずジグザグに進むのが特徴であった。
 東京駅八重洲口を出ると、まずは外堀通りを南下。数寄屋橋を経由して新橋で右折、引き続き外堀通りを進み虎ノ門・溜池を直進し、山王下を左折して通称TBS通りを走る。山王下の停留所は外堀通り上ではなく、左折した先に独自のポールがあった。
 千代田線赤坂駅の出入口が見えると、右手にTBSの大きな局舎が見えてくる。その少し先にあるのが「赤坂福祉会館」停留所。昭和51年に日大三高が町田に移転するまでは、日大三高という名だった。現在は鹿島建設のビルとなり、敷地脇に碑が残っている。
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▲外苑東通りから乃木坂・赤坂方面(北)
 さらに進み、右手に檜町小学校(現赤坂小学校)の敷地が見えてくると同名の停留所となる。次の乃木坂下停留所を過ぎ、外苑東通りの乃木坂陸橋を目前に左手の側道を登って外苑東通りに合流する。この上り坂が乃木坂であり、大正元年に乃木大将の殉死を悼んで後に命名されたもので、いつしか周辺の地域を指す地名となり、地下鉄の駅名としても採用された。
 外苑東通りを青山一丁目駅まで直進し、突き当りで青山通りに左折する。そして、このまま渋谷駅に向かうと思いきや外苑前交差点で右折してしまい外苑前停留所に停車する。青山通り上の停留所とは別に存在した。ここは神宮での野球開催日は多くの人が通る道路で、秩父宮ラグビー場、神宮球場、日本青年館と神宮外苑の施設を通り過ぎる。明治公園の角で右折し、東京体育館を左手に目の前に立体交差の道路が見えてくると側道を登り、千駄ヶ谷駅に到着する。
 ここからはこの系統の単独区間となる。中央線と首都高沿いに進み、国立能楽堂を過ぎてカーブしながら緩やかな坂を下り、北参道で明治通りと交差するがそのまま直進し、山手線をくぐる。正面には明治神宮の門へと続く雰囲気ある道となるが、行き止まりとなるのでここで右折する。明治通り上の[池86](池袋駅東口~新宿駅西口)が停まる北参道とは離れたところにあり、この辺りに停留所があった。ほどなくして代々木駅前の交差点に到着する。代々木駅を経由する唯一の都営バス系統で、停留所は交差点付近にあった。
 代々木駅~新宿駅は時代によって経路が異なるが、末期は代々木駅前を左折し、予備校の建物群を通り過ぎて小田急線のガードを抜ける。この辺りに代々木一丁目の停留所があり、南新宿駅もに乗り換え可能であった。首都高新宿線に突き当ると右折、西参道でも右折して甲州街道に出て、西側から大回りして新宿駅西口を終点としていた。
 昭和46年までは、さらに東中野駅まで路線が伸びていた。新宿駅西口を貫通していたのも特徴的である。新宿駅西口からは青梅街道を進むのだが、山手通りではなく、中野坂上交差点の手前の小道を右折していたのである。現在は青梅街道に中央分離帯が設けられ、ここで右折することは不可能となっている。ここからは現在バスのない区間で、右折した先に中野坂上停留所があり、北上して大久保通りと交差する前に中野簡易裁判所の停留所が、そして中央線のガードをくぐる前に「東中野駅南口」、交差した先に終点の「東中野駅北口」があった。東中野駅の出入口自体は東・西口であるが、東口には北側・南側に出入口があるため、便宜的にそう呼んでいたのだろう。
 東中野駅北口は、どこで折り返していたのかは定かではない。当時の路線図から、ループ状に折り返すような経路ではないことは確実であろう。詳しくは終点の章の東中野駅のページも参照されたい。現在はビルが建ち並んでおり、当時の面影を探すのは困難である。

歴史

昭和27年5月に新宿駅西口~東京駅南口が開通し、次いで7月には東中野駅まで延長されて全線が開通した。新宿と東京を結ぶというよりは、今までバスが通っていなかった千駄ヶ谷・青山・赤坂等を結ぶという目的であったのだろう。戦前の路線網で言うと、外苑前~千駄ヶ谷は市バスが開設した区間、千駄ヶ谷~代々木~新宿は現在の京王バスが運行し、昭和17年の一元化で東京市に引き継がれた区間で、この部分は戦前の復活と言える。
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▲大東京地典(交通協会、昭6)より甲州街道乗合路線図
当初は経路が異なっており、青山一丁目~山王下は赤坂見附を経由していたが、昭和28年3月には開通から1年も経たずに赤坂の(現)TBS通りを通るように変更された。当初から赤坂経由の経路で計画していたのだろう。このとき終点が東京駅八重洲口に変更された。
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▲昭和35年10月現在(細線は[44]→[早81])
代々木駅~新宿駅西口の区間も、開通当初は代々木駅前の交差点を直進し、二股を左手に進み、小田急の踏切を越えて鉄道病院の裏を通り、甲州街道を横切って新宿郵便局から右折し(現)スバルビル前経由で新宿駅西口に到着するという経路でショートカットしていた。途中には「南新宿」「新町」「新宿郵便局」の停留所があった。「南新宿」は小田急線の踏切、旧南新宿駅のそば (昭和42年現在地に移設)にあった。今は大型車が通るような道路にも見えず、俄かには信じがたい。現在では代々木駅から山手線沿いに直進する道の方が道幅が広く、そこを進むのが自然に思えるが、昭和30年代まではかなり細い道で、前述のバスが通った道より細かった。大型車の運行には適さないと判断されたのだろう。
西参道を大回りする経路に変更されたのは昭和45年10月のことである。小田急線の踏切がラッシュ時は閉まりっぱなしになることや、道路が狭いためにワンマン運転に適さないということもあったのかもしれない。
また、開通当初は千駄ヶ谷駅付近の経路も大きく異なっていた。外苑前から日本青年館に来た後、国立競技場と明治公園の間を通り過ぎ、観音橋交差点で外苑西通りと交差するところを直進し、今は一方通行になっている細い道を進んでいった。乗用車はすれ違える幅だが、大型バスが交互通行していたとは思えない道である。そのまま鳩森八幡の五差路を直進し、北参道の交差点まで出ていた。つまり、開通時は千駄ヶ谷駅の近くまで来ていながら駅を完全に無視するルートだったことになる。戦後すぐの時点では、外苑西通りは千駄ヶ谷駅~明治公園手前(観音橋交差点)までが開通していたので、千駄ヶ谷駅に寄ることも可能だったのだろうが、戦前の経路を優先したということだろうか。
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▲昭和44年1月現在(細線は[44]→[早81])
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▲昭和49年2月現在(細線は[44]→[早81])
この千駄ヶ谷八幡経由については、昭和37年には東京駅行きのみ千駄ヶ谷駅を経由するように、昭和47年12月には往復とも千駄ヶ谷駅経由にするように改められたため、、鳩森八幡前後の区間はバスが通らなくなった。現在はごく一部のみ、ハチ公バス神宮の杜ルート(渋谷駅~代々木駅)が通る程度である。
全線通しでの運行が基本であったが、昭和40年以降は新宿駅西口~東京駅八重洲口の折り返し運転が1/3程度を占めるようになり、昭和46年11月に全便新宿駅西口発着に短縮されてしまう。それまでは東京駅行きは小田急ハルク前の乗り場から出発していたが、[宿74]と入れ替わりに西口ターミナルの島中の3番乗り場から発車するようになった。

そして昭和52年12月の路線再編成で全線廃止となった。昭和50年の交通センサスに伴う乗車人員推計では6,100人/日程度とそこまで悪い数字ではないが、乗車密度は16.6%と高い数字とは言えず、交通局の廃止基準に該当してしまったとも言えるだろう。
この系統の独自区間も各所に存在したが、近年のコミュニティバスの相次ぐ開設で復活する区間も出ている。港区ちぃばすの赤坂ルート(六本木ヒルズ~赤坂見附循環)がTBS通りの区間を、そして前述の渋谷区ハチ公バスの神宮の杜ルートが、経路は一部異なるものの、千駄ヶ谷二丁目~代々木エリアの区間を走らせている。

品川車庫に残る生き証人

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 品川車庫の営業所の建物向かいの車庫の出入口に朽ちたポールが立っているが、よく見ると「東72」の文字。新宿駅西口の旧ポールで、廃止から30年経っても奇跡的に残っていた品物である。[東72]の系統番号になってから廃止まで5年しかないため、末期の品であることは間違いない。消えかけの時刻表を読み取ると、平日朝は8~9分間隔、昼でも11~12分間隔、土曜は15分間隔と便利な本数だったことが分かる。新宿駅西口~新橋の折返は平日昼間に僅かに運行されていたようだ。

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