都営バス資料館

×水59

[水59]←[浜59]←[535]←都電35

担当営業所

巣鴨営業所

運行区間

系統 区間 距離 備考
巣鴨駅~白山上~文京区役所~水道橋駅~一ツ橋 5.030km

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要
535 S43. 2.25 巣鴨 9.747km 都電35系統(巣鴨車庫~西新橋1)の代替で巣鴨駅~~浜松町駅が開通
535 S46. 3.18 巣鴨 9.987/ 9.747km 一ツ橋~神田橋間の一方通行規制に伴い経路変更
浜59  S47.11.12 巣鴨 9.987/ 9.747km 新番号化、[浜59]とする
水59  S49. 7. 1 巣鴨 5.030km 一ツ橋~浜松町駅を短縮、折返を本系統とし[水59]とする
水59  H12.12.12 巣鴨 ***  巣鴨駅~一ツ橋を廃止

路線概要

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 巣鴨駅から一ツ橋まで白山通りを走る都電代替系統である。都営三田線と完全に並行していることもあり、乗客は少なく、廃止前は赤字路線の常連的存在であった。古参車がよく入るのも特徴だったと言える。
神保町駅のほど近く、周囲をビルに囲まれた白山通りの路上にある一ツ橋が起点である。ここから文京区役所(現春日駅)までは本数は少ないながらも[都02乙]と2系統が並走していた。
日本大学の校舎が見えてくるとまもなく水道橋駅前。神田川を水道橋で渡り、外堀通りとの交差点を過ぎると左側に東京ドーム、そして後楽園ゆうえんちが見えてくる。東京ドームに隣接して場外馬券売り場が併設されており、競馬新聞片手に乗車してくる客の姿を見る事もある。
丸ノ内線の高架をくぐると文京区役所となる。都営地下鉄三田線はこの先駅間が長くなるのと、白山駅が地形の関係で地中深いところに位置するためか、ここからの利用者は今までより少々増える。拡幅の進んだ白山通りから、白山下交差点でバスは右折して旧道へと進み、白山上へと急坂を登っていく。
白山上からは[草63]と合流して巣鴨へと向かう。東洋大学では、学生が大挙して乗ってくることもある。池袋駅東口行の[草63]がなかなかやって来ないタイミングで[水59]がやって来ると、行先表示を見て落胆する姿を見かけることも。
千石駅前付近で白山通りの新道と合流し、不忍通りの交差点を過ぎると千石一丁目の停留所がある。三田線の千石駅は交差点の南側、バス停は北側で少々離れていた。
山手線の巣鴨駅の駅舎が見えてくると巣鴨駅南口。山手線利用客のほとんどがここで降車し、山手線を越えたところで終点の巣鴨駅前である。バスは巣鴨車庫構内に一旦入って折り返していく。

歴史

 中山道・白山通りを経由して巣鴨駅から都心方面に向かう路線は、戦前から重要な幹線であった。長らく18系統(下板橋~巣鴨~日比谷)として運転されたが、昭和18年5月の改編で神田橋から外堀通りを通って数寄屋橋・新橋駅北口を終点とするように改められ、昭和19年5月の乗換制度廃止時に数寄屋橋に短縮された。さらに、昭和19年10月の下板橋~志村(現志村坂上)の延伸で2系統に分離され、18系統は志村~巣鴨車庫~駕籠町(現千石一丁目)、19系統として巣鴨車庫~神田橋~数寄屋橋となったが、空襲からの復旧時に再び1系統に統合され終戦を迎える。
昭和21年からは18系統(志村~巣鴨車庫~神保町、昭和23年頃に神田橋に延伸)となった。昭和23年5月には35系統(巣鴨車庫~日比谷)が開業し、昭和27年5月
に田村町一丁目(現西新橋一丁目)まで日比谷通りに沿って延伸され、戦後の路線形態が確定した。戦前に存在した系統乗換制が廃止になり、なるべく直通で目的地に行けるようにという見方もできる。
 なお、巣鴨以北は、昭和30年6月に志村橋まで軌道が延伸されて41系統(志村橋~巣鴨車庫)が誕生した。こちらについてはされたい。
 18・35系統は非常に多くの本数が設定されており、昭和35年現在では、巣鴨以南の運転回数が18系統200回、35系統156回と頻発、両系統を合わせた乗客数は15万人弱/日と、単行の路面電車とは思えないような客数だった。
 昭和41年に18系統が廃止されると巣鴨以南は35系統だけとなるが、35系統としての巣鴨~神田橋の折り返し便が多数設定されたと思われる。
 残った35系統も昭和43年2月に廃止された。代替バス[535]は、都電そのままに白山通り(旧道)・日比谷通りを進んだが、西新橋一丁目からさらに御成門まで直進し、左折して浜松町駅を終点とした。浜松町駅は現在の世界貿易センターの脇の交通局の敷地で折り返していた。かつての浜松町営業所の敷地である。新橋駅までではなく、なぜ浜松町駅まで延長をしたのかはやや不可解である。昭和43年頃はまだ新橋駅に多くの系統が集結しており、折り返す余裕がなかったからか、それとも、所属車通史で記した通り、巣鴨にバス車庫が完成するまでは所属車は一時的に芝浦分車庫に置いていたため、近くまで路線を引いたということだろうか。
 さて、都電代替直後の[535]は、巣鴨以南の乗客を一手に引き受けることとなり、浜松町駅~一ツ橋の本数は400回、乗降客数は5万人/日を超えていた。いずれも都営バスの単独系統としては史上最多、都市新バスの最盛期でも遠く及ばない水準で、今後もこの記録が破られることは多分ないであろう。今はとても信じられない。
 しかし、昭和47年6月に都営6号線(三田線)が巣鴨~日比谷まで延長し、翌48年11月に三田まで延長された。乗客の多くが地下鉄に移行、[535]の利用は激減した。新番号化で[浜59]となったが、2年後の昭和49年には一ツ橋以南を切り捨てて[水59]となった。
 鉄道と完全並行する系統となったゆえ当然とも言えるが、この後の凋落ぶりは激しいものがあった。年々乗客数は減り、減便されるというサイクルを繰り返す。昭和50年度には10,277人/日いた乗客数も昭和54年度には5,036人/日と半減し、昭和60年度には2,189人/日とさらに半減、平成元年度には1,675人/日にまで減った。それに見合って本数も減便され、昭和57年度には平日87往復あった本数は昭和62年度には平日60往復に、平成元年度には51往復となった。営業係数も170~180前後と、都営の中では著しい不採算系統になっており、平成2年に全線廃止を交通局は打ち出した。当時はコミュニティバスの考えもほとんどない頃で、地下鉄が出来れば地上交通は用済みという観だったのだろう。しかし、区議会を中心に反対運動が巻き起こり、減便されて存続することになった。
 その後も凋落は続き、平成5年度はおおむね30分間隔の平日36往復、乗客数は1,164人/日に減り、営業係数は198を記録している。一応の利便性を確保する水準で運行するには公的補助なしではとても成りたたないレベルになっていたということだろう。結局、平成12年の大江戸線改編で便乗廃止と言われつつも廃止された。
 しかし、平成17年4月に文京区コミュニティバス「B-ぐる」が開通したが、巣鴨駅南側~水道橋までの白山通りの区間に路線が設定された。既存のバス路線を避けて、小道に入りこむことが多い23区のコミュニティバスだが、この区間は白山通り(新道)をそのまま走っており、ある意味[水59]の復活とも言える。よりこまめにバス停を設けることで地下鉄との差別化を図り、小型バスながら20分間隔で運行され、気軽に楽に乗れる乗り物となっている。
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巣鴨の原点、都営バスの原点

 巣鴨は、この系統のために開設された車庫であり、当時は[535]のみの所管であった。その意味では、[水59]は巣鴨の原点の系統とも言える。
 そして、白山通りは、大正13年に都バスの前身である市バスが開業した2区間のうちの1つである。関東大震災からの応急復旧事業として、中渋谷(渋谷駅付近)~赤坂見附~東京駅と、巣鴨駅~神保町~東京駅の2区間が開業しており、[水59]は都営バスの原点となる系統と言っても過言ではないだろう。
ちなみに、この系統は市電の復旧後も並行して走っていたが、昭和5年末にバスの独自性を打ち出す形で、途中から本郷通りに転じて巣鴨駅~白山上~御茶ノ水駅~東京駅に変化した。
文京区役所止まり
 [水59]の方向幕には文京区役所行きの表示が用意されていた。定期で使われたのは昭和57年まで[里48乙]の出入庫([里48]の項参照)として使われたくらいで、それ以降は定期的な運行はなかった。
 基本的には渋滞時の臨時の行き先として使われていたが、本数の減少とともに使われることもほぼなくなり、外堀通りの交通規制時にごくまれに現れる程度であった。文京区役所(春日駅)は、[上69](上野公園~小滝橋車庫)や、かつての[都02]でも渋滞専用の行き先と用意された経緯があり、ちょうど後楽園駅・壱岐坂下のループを使って折り返しができる都合のよい地点だったのだろう。
 [水59]の場合は、巣鴨駅から春日の交差点で右折して本線と別れ、春日通り上の区役所前の停留所か、[都02乙]の後楽園駅(現春日駅)で終点となっていたようだ。

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