担当営業所
杉並営業所
運行区間
系統 | 区間 | 距離 | 備考 |
本 | 清水操車所~四面道~荻窪駅~杉並車庫~鍋屋横丁~新宿駅西口 | 9.176km | |
出入 | 清水操車所~四面道~荻窪駅~杉並車庫 | ||
出入 | 杉並車庫~鍋屋横丁~新宿駅西口(宿73) |
年表
系統 | 年月日 | 営業所 | 距離 | 概要 |
102 | S22. 2.15 | 堀ノ内 | 15.508km | 荻窪駅~新宿駅西口~四谷見附~日比谷~東京駅南口が開通 |
202 | S23.12.26 | 小滝橋 | 15.972km | 荻窪駅~築地が開通(日祝年末年始に運転) |
300 | S24. 9.15 | 堀ノ内 | 15.508km | 102系統を300系統に変更 |
304 | S25.12. 1 | 堀ノ内 | 15.972km | 202系統を通年運転とし、304系統に変更 |
304 | S26. 5. 1 | 堀ノ内 | 17.013km | 築地~月島8(現勝どき駅)を延長 |
304 | S32. 4.15 | 堀ノ内 | 17.603km | 月島8~晴海埠頭前(現晴海3)を延長 |
300甲 | S32.11. 1 | 堀ノ内 | 16.008km | 四面道~荻窪駅を延長、300甲とする |
300乙 | S32.11. 1 | 堀ノ内 | 21.505km | 東伏見操車場~四面道~東京駅南口を開設、300乙とする |
304甲 | S32.11. 1 | 堀ノ内 | 18.103km | 四面道~荻窪駅を延長、304甲とする |
304乙 | S32.11. 1 | 堀ノ内 | 23.603km | 東伏見操車場~晴海埠頭前が開通、304乙とする |
304甲 | S37. 7.15 | 堀ノ内 | 18.703km | 晴海埠頭前~晴海貿易センター(現ほっとプラザはるみ入口)を延長 |
304乙 | S37. 7.15 | 24.203km | 同上 | |
304甲 | S39.10.10 | 堀ノ内 | 19.403km | 貿易センター~晴海埠頭終点(現晴海埠頭)を延長 |
304乙 | S39.10.10 | 24.903km | 同上 | |
300甲 | S40. 6.10 | 堀ノ内 | 16.008km | 麹町~三宅坂を半蔵門経由から隼町経由に変更 |
304甲 | S40. 6.10 | 20.603km | 四面道~沓掛町(現清水操車所)を延長、麹町~三宅坂を隼町経由に変更 | |
300 | S41. 4.20 | 堀ノ内 | 21.508km | 甲乙を統合、東伏見操車場~東京駅南口に変更 |
304 | S41. 4.20 | 堀ノ内 | 20.603km | 甲乙を統合、沓掛町~晴海埠頭に変更 |
300 | S41.11.30 | 杉並 | *** | 堀ノ内営業所の杉並営業所への移転改称に伴い、杉並に移管 |
304 | S41.11.30 | 同上 | ||
300甲 | S45. 3.27 | 杉並 | 17.208km | 清水操車所~東京駅南口に変更短縮、300甲とする |
300乙 | S45. 3.27 | 杉並 | 13.476km | 東伏見操車所~新宿駅西口の折返系統を300乙とする |
304 | S45. 3.27 | 杉並 | *** | 清水操車所~晴海埠頭を廃止 |
東75 | S47.11.12 | 杉並 | 17.208km | 新番号化、東75とする |
宿75 | S52.12.16 | 杉並 | 9.176km | 清水操車所~新宿駅西口に変更短縮、宿75とする |
宿75 | S54.11.23 | 杉並 | *** | 清水操車所~新宿駅西口を廃止 |
路線概要
青梅街道・新宿通り・晴海通りを貫通する系統である。幾度の系統再編で運行範囲が縮小していき、廃止直前は新宿駅西口から荻窪駅を経由して清水操車所までを結ぶ[宿75]のみが運転されていたが、ここでは東京駅南口を発着していた[300]→[東75]時代、そして晴海埠頭発着だった[304]も併せて取り扱う。
[東75]は東京駅南口の発着で、そこを出発して都庁前(現国際フォーラム)の脇を通り抜け、有楽町駅で山手線のガードをくぐり、数寄屋橋の交差点を右折して晴海通りに入る。そのため、至近となる数寄屋橋の停留所には停車せず、有楽町駅の次は日比谷となっていた。[304]は晴海埠頭始発で、[銀71](新宿駅西口~晴海埠頭→[都03])と同じく晴海通りを直進していた。
日比谷からは[銀71]とほぼ平行していたが、一点大きな違いがあり、三宅坂~麹町の間については [東75]は三宅坂交差点で一旦左折し、R246に入って三宅坂に停車し、すぐに右折し国立劇場裏のかつて [茶81](渋谷駅~順天堂病院)も通っていた道を通って麹町二丁目に出ていた。このため、三宅坂停留所の位置は現在も残る内堀通り上のバス停とは大きく離れていた。
その後は新宿通りを西進し、新宿三丁目からは新宿駅東口を経由して大ガードをくぐり新宿駅西口のターミナルに入っていた。
新宿駅以西は [宿91](新宿駅西口~駒沢陸橋)や[王78](新宿駅西口~王子駅)と同じように青梅街道に入り、丸ノ内線の真上を東高円寺駅まで進む。高円寺陸橋もさらに直進、杉並車庫を通り過ぎると南阿佐ヶ谷の駅前で杉並区役所停留所となる。ここからは [梅70](阿佐ヶ谷駅~青梅:当時)が併走する。
さらに直進し天沼陸橋で中央線を越える。越えてすぐの「荻窪公団アパート」の停留所は新宿駅方面のみ停車となっていた。そしてすぐに荻窪駅前となる。駅前には関東バスのターミナルがあるが、都営バスはそこに入ることはなく、駅の脇に停留所が置かれており、少し分かりづらい位置にあった。
ここからは関東・西武バスが今でも頻発する区間となり、[東75]は区間急行運転となっていた。民営エリアでの競合を考慮したのだろうか。荻窪駅を出ると上荻一丁目(新宿発のみ停車)、四面道、荻窪警察署、桃井四丁目、善福寺、水道端、関二丁目(現関町二丁目)、関郵便局(現関町郵便局)、関四丁目(民営は慈雲堂)、北裏のみの停車となっていた。北裏から各停留所停車に戻り三ツ塚に停車、その先で保谷市(現西東京市)に入ると東伏見坂上、東伏見(現在の関東バス・西武バスの東伏見稲荷神社)と停まる。並行する当時の[梅70]も同様の停車となっていた。
東伏見の前後は早くから青梅街道が拡幅された区間で3車線が確保されており、そこを過ぎるとすぐに東伏見操車所の終点となる。ここは終点専用で、[梅70]や並行する民営バスは通過していた。
清水操車所発着便については、四面道交差点を右折して環八に入る。当時は拡幅が進もうとしている最中で、交差点付近以外は片側1車線の道路であった。そのまま環八を北上し、清水一丁目、二丁目と過ぎると清水三丁目の手前、現井荻トンネル入口の手前付近で清水操車所の終点となる。並行して民営バスが頻発しているが、この停留所は都営バスのみ停車となっていた。
▲都バス路線案内(昭和48年頃)
歴史
青梅街道側から新宿駅~東京駅方面へと向かう系統は、昭和初期から東京乗合自動車(→東京地下鉄道)の手によって運行されてきた。青梅街道沿線から直接都心部に出られることもあって盛況だったと言う。新宿駅から都心方面には並行して市電・市バスが走っていたこともあり、東京市電気局の強力なライバルだったと言えるだろう。
昭和17年の東京市の交通一元化により市バスが運行することになった。統合直前は荻窪三丁目(現荻窪駅南口付近)・西馬橋・杉並警察署~築地方面の系統が運行されていたが、市バス統合後は[15]荻窪駅~新宿三丁目、[16]中野天神~新宿駅~東京駅~門前仲町の2系統に分割しての運行となった。戦中の物資不足で昭和18年6月に[10]荻窪駅~新宿三丁目の運転のみとなった後、昭和19年5月の改編で全線廃止された。荻窪~新宿の都電と並行していたこともあるのだろう。
▲トレーラーバス運行予定案内(昭和22年)
戦後の復活は早く、昭和22年2月に荻窪駅~新宿駅~東京駅乗車口が開通した。戦災によって郊外へと人口流出が進んでいたこともあって都心への直通需要は高く、鉄道だけでは輸送力不足ということもあった。都営バスではこの区間を特に重要と考えていたのか、トレーラーバス(親子バス)として運行を開始した。
当時の進駐軍は大都市の公営交通の復旧のために軍用の中古トラックを払い下げることになり、都営バスには昭和21年末に400輛が割り当てられた。ガソリンの配給もこれにあわせて行われ、戦災で動ける車がほとんどなかった都営バスにとっては正に天の恵みとも言える出来事だった。バス用の車体は新たに作られければならないが、各メーカーが突貫工事で製作し、昭和22年2月に最初の16輛が完成した。また、国産車よりパワーが高く100馬力以上(当時の国産車は70馬力程度)あり、輸送人員を考慮しても余裕があったため、戦中に故障で動けなくなったまま放置された遊休車を牽引して使うという発想が生まれた。これらを利用して開通したのがこの系統で、トレーラーバス専用系統という扱いであった。
100番台は後から見ると郊外との相互乗り入れ系統に使われた番台だが、[102]は都営単独の系統である。[102]という中途半端な番号を見ても分かる通り、当初は郊外までトレーラーバスを運行する計画であり、その中の1系統という扱いであった。その他の予定線は民営エリアに入っていることもあり、幾分か形を変えて昭和22年6月に民営との相互乗り入れ系統として開通した。その後も、100番台の系統は民営との系統という扱いが続いたため[102]は浮いた存在になり、昭和24年9月に[300]に変更された。300番台は都営単独の長距離系統というような扱いだった。
▲昭和25年現在
これとは別に、昭和23年12月に年末年始の人出に合わせて設定されたのが[202](荻窪駅~築地)であった。都電も並行していたが、新宿駅で乗り換えが必要でそれなりに歩く必要があり、直通する系統は需要があったのだろう。その後も休日のみ運転の行楽系統として運転された。200番台は臨時系統だったが、昭和25年12月に通年運転して[304]と改めた。昭和26年5月には月島八丁目(現勝どき駅)まで、さらに昭和32年4月には晴海埠頭前(現晴海三丁目)まで延伸された。
さらに、昭和32年11月には[300][304]とも本線が四面道まで延伸され、同時に枝線の乙系統として一部便は東伏見操車所発着まで延伸された。四面道発着は東伏見からみた場合は路線上の折り返し系統なのだが、甲乙で系統番号を分けたのは興味深い。
▲昭和35年現在
ピーク時の昭和35年度を見ると、[300]は東伏見発着は15.5往復、四面道発着は8往復、荻窪駅から急激に本数が上がって新宿駅~東京駅南口は75回程度。[304]は東伏見発着は22往復のほか、蚕糸試験場~新宿駅は110回弱、新宿駅~築地は95回前後、築地~晴海埠頭は85回前後の運転となり、双方を合わせると、荻窪駅から先は昼間でも数分間隔と多数運転されていたことが分かる。さらに[304]は昭和37年7月に貿易センター(→晴海見本市会場)、昭和39年10月には晴海埠頭終点(現晴海埠頭)まで延伸された。ただし、昭和35年の運行成績表では、既に貿易センターまで運転されていることになっているため、実態については多少気になるところだ。[304]東伏見~晴海埠頭の距離は24.9kmと、都営バス単独系統としてはかなり長い方の系統であった。
都営バスの営業エリアを東西に貫き、堀ノ内営業所の幹線として君臨した[300][304]であるが、転機になったのは丸ノ内線の延伸である。昭和34年3月に霞ヶ関~新宿が延伸して新宿~四谷間で並行したのを皮切りに、昭和36年11月には新宿~新中野が延伸、その後も順次延伸を続け、昭和37年1月には荻窪まで全通した。さらに昭和39年9月には東高円寺駅も途中に開業し、路線の主要区間で地下鉄が並行することになってしまい、乗客が大幅に地下鉄へと移行していった。
▲昭和39年現在
昭和38年12月には都電の廃止代替で[79](四面道~新宿駅西口)が開通したが、[300][304]と並行することもあって、3系統で1グループのような存在であった。([79]の項も参照)
▲昭和43年現在
昭和40年6月には四面道発着便が沓掛町操車所(清水操車所)まで延伸され、郊外で二股に路線が分かれる形になったが、路線拡張体制はここまでであった。昭和41年4月には[79]が廃止され、[300]は東伏見発着、[304]は沓掛町発着に統一され、東伏見~晴海埠頭の直通運行は廃止された。
昭和43年の本数は[300]が東伏見発40回、新宿駅~東京駅の間は37回、[304]は清水操車所発93回、新宿駅~晴海埠頭が48回と都心側の本数が少なくなっていることが分かる。
その後も乗客減は止まらず、昭和45年3月に[304]は廃止され、東伏見発着については短縮されて[300]扱いになり、[300]は東京駅~清水操車所、新宿駅~東伏見操車所に分割され、東京駅~東伏見を直通する便は消滅した。
▲昭和48年現在
新番号化で前者は[東75甲]、後者は[東75乙]となったが、東伏見まで達する便は既に非常に少なかったようだ。昭和50年の交通センサスの調査では、[東75甲]の乗車人員は13,015人/日と杉並管内では第二位だったが、[銀71](新宿駅西口~晴海埠頭→[都03])との並行区間が長いこともあり、混雑度という観点では12.7%と下位で、乗車密度自体は高くなかったことが想像できる。昭和52年の時点では東京駅~清水操車所は50往復と当時にしては少なめで、新宿駅~東伏見はわずか5往復しか運転されていなかった。
結局、昭和52年12月の改編で新宿駅西口~東京駅南口と四面道~東伏見操車所を切り落として[宿75](新宿駅西口~清水操車所)だけ残った。改編後は61往復と多少は増便されたものの、新宿駅西口をまたぐ流動を無視した状態では乗客は大きく減少してしまったようで、2年後の昭和54年11月の改編で全線廃止されてしまった。
▲昭和54年11月現在
ページ下に短縮・廃止のときのチラシの該当部分を示す。[宿75]の廃止時は四面道以北を除いて細切れに平行路線が残っていたとは言えるが、四面道~杉並区役所の間で[梅70]というよりは、清水~荻窪駅~杉並区役所まで関東バス・西武バスが多く運行されていることや、[渋66]はの平行区間が細切れすぎて乗り継ぎは非現実的といえる。よっぽど丸ノ内線を案内したほうが親切だとは思う。
北裏に残る都営バス
[宿75]の廃止、そして昭和59年の[梅70]の短縮により、杉並区役所~荻窪駅~田無の青梅街道の区間には都営バスの営業路線がなくなった(一時期深夜中距離バスが走っていたのを除く)。現在は関東バス・西武バスがこの区間に多数のバスを引き続き運行しているが、都営バスの撤退から30年近く経っても残る痕跡を紹介しよう。
荻窪駅と三鷹駅からの系統が合流し、折返所も設けられている北裏の停留所。青梅街道上の下り方面の関東バスの停留所には、よく見ると都の紋章が掲げられたまま。色はだいぶ褪せているが、紛れもなく昭和時代の都営バスの停留所仕様そのままであり、残っているのが奇跡的とも言える。「都営バス」などと文字で書いてなかったのが幸いしたのだろうか。この地に都営バスが走っていたことを示す生き証人とも言えるもので、長く残ってほしいものだ。
隼町経由
▲昭和13年8月現在の路線図(細線は市電)
[300][304]は、昭和40年から廃止までの間は麹町~三宅坂の間で外堀通りを経由せず、国立劇場裏の隼町停留所を経由していた。この区間だけ裏通りを走るのが面白いが、戦前の新宿駅から都心方面に向かう市バスもこの経路を通っており、先祖返りと言えるだろう。戦前にこの経路を取っていた理由は定かではないが、半蔵門経由となる市電との差別化なのだろうか。戦後の[102]としての路線復活時に、この経路で復活しなかったのが不思議だが、レーラーバスでの運転だったため、細い道は通りづらかったのかもしれない。
その後、昭和41年11月に[46](渋谷駅~御茶ノ水駅→[茶81])が開通し、国立劇場裏を通る系統は他にも誕生した。そのため、昭和52年に[東75]が区間廃止された時も隼町の停留所は残ったが、最高裁脇の三宅坂交差点~隼町交差点の間の200mは路線バスが消えた区間となった。もっとも、劇場バスの[劇04]国立劇場→渋谷駅はこの区間を通るため、都営バスが全く通らない区間というわげはないが……。なお、国立劇場裏の区間については、平成12年12月に[茶81]が廃止され、バスが全く通らない区間となった。