都営バス資料館

練馬支所

車庫の概要

 練馬区の環七近く、西武池袋線の桜台駅から歩いて数分のところに車庫がある。都営バスのエリアと言うにはかなり外れており、都営バスの路線網でもほぼ端にあると言ってもいいだろう。桜台駅から練馬駅付近にかけては国際興業・関東・京王・西武と多数の民営事業者の路線が交錯する都区内では珍しいエリアとも言える。
 元々は営業所格だったが、現在は北営業所の支所扱いとなっている。営業所記号はF。所属車輛数もさほど多くなく、目白通りを走る系統を中心に所管する。メイン路線としては、新宿区の域内輸送と練馬区・山手線の連絡を同時にこなす[白61](新宿駅西口~練馬車庫・練馬駅)が挙げられる。
 車庫の敷地は公道を挟んで南北の2つに分けられており、千川通りに面した北側が営業所や整備場の建物もあるメインの部分となっている。都営住宅の併設も特にない平面的な車庫で、間に公道が挟まっていることもあり、見通しは良いと言える。

所管系統

系統・枝番 起点、経由地、終点           備考 キロ程(往/復) 平日 土曜 休日
池65 練馬車庫~豊玉北4~江古田2~目白駅~池袋駅東口 8.330km 14 15 16 17 14 14
池65折返-1 江古田2~目白駅~池袋駅東口 5.650km 58 58 57 57 57 57
池65折返-2 目白駅→池袋駅東口 2.170km 1 1
学05 目白駅→日本女子大→日本女子大(豊明小学校)→目白駅 3.256km 80 46
学05-2 目白駅~(日本女子大→)日本女子大(豊明小学校) 1.663km/1.593lkm 1 1
白61 練馬車庫(←新江古田駅、東長崎駅通り→)目白駅~江戸川橋~新宿駅西口 12.350/13.130km 83 88 67 69 61 62
白61折返-1 練馬車庫←新江古田駅←目白駅←江戸川橋 7.930km 2 2 4
白61折返-2 目白駅→江戸川橋→曙橋→新宿駅西口 8.100km 1 1 1
白61折返-3 目白駅(川村学園)~ホテル椿山荘東京 2.280km 22 22 20 22 20 22
白61折返-5 練馬車庫→東長崎駅通り→目白駅→江戸川橋→山吹町 7.540km 1 1 3
白61出入 練馬車庫(←新江古田駅、東長崎駅通り→)目白駅 4.250/5.040km 6 1 3 1 2
白61折返-6 練馬車庫→東長崎駅通り→目白駅→ホテル椿山荘東京 6.530km 2 2
白61-2 練馬駅(←新江古田駅、東長崎駅通り→)目白駅~江戸川橋~新宿駅西口 13.530/14.310km 9 7 12 12 12 12
白61折返-7 山吹町→新宿駅西口 4.810km 1
練68 練馬駅~練馬車庫~練馬総合病院入口~落合南長崎駅~目白駅 5.430/ 5.650km 5 7


現在

基本データ

住所 練馬区豊玉上二丁目7番地 (平成2年1月1日住居表示実施)
開設期間 昭和17年2月1日~
交通機関 バス:練馬車庫 鉄道: [西武]桜台
基本配置 旧基本車種:日産ディーゼル、旧合成音声機:レシップ、旧次停留所機:レシップ

沿革

年月日 できごと
S10-12頃 環状バス練馬営業所が開所
S17. 2. 1 陸上交通事業調整法に基づいて一元化、東京市電気局練馬自動車営業所となる
S20. 6.16 戦災被害により、大塚自動車営業所練馬分車庫に格下げ
S21. 4. 1 復旧、練馬自動車営業所に格上げ
H11. 4. 1 北自動車営業所練馬支所に格下げ

歴代所管一覧

年月日 所管開始時の区間 所管開始 所管終了 備考
8 練馬車庫~江戸川橋 S20以前 S21. 7.31 →分離([20],[21])
20→池65 哲学堂~江戸川橋 S21. 8. 1 運転中
21 練馬車庫~目白駅 S21. 8. 1 S22. 8.31 廃止
108 大泉学園駅~新橋駅 S22. 9. 1 S45.10.20 廃止
21→白61 豊島園正門~目白駅 S23. 5. 9 運転中
112 鷺ノ宮駅~新橋駅 S23.10. 1 S44.11.15 廃止
121 新井薬師駅~東京駅降車口 S25. 4.15 S36.12.14 →移管(小滝橋)
55→学05 目白駅~日本女子大 S27. 7. 1 運転中
8→橋68 豊島園~新橋駅 S30.12.25 S52.12.15 廃止
132→宿62 大泉学園駅~新宿駅西口 S34. 3. 1 H 9.12.18 →短縮[新江62]
143 池袋駅東口~上井草駅 S43. 9.29 S46. 7.31 廃止
中63 下田橋~国立病院医療センター S54.11.23 S63.10.15 廃止
王78 新宿駅西口~王子駅 S62頃 H15. 3.31 →撤退(杉並)
王40丙 王子駅~宮城循環 S63.10.31 H3.11.28 →移管(北)
新江62 大泉学園駅~新江古田駅 H 9.12.19 H21. 3.31 →移管(杉並)

車庫の歴史

 元々の東京市から外れたエリアに車庫があることでも分かるように、練馬営業所は戦前に民営によって開設されたものであった。[白61]の源流となった豊島園~目白駅は昭和初期にダット自動車によって開設された路線であるが、昭和6年頃の路線図では練馬車庫の停留所はなく、東長崎車庫・椎名町営業所の名が見えるのみとなっている。現在地に車庫が開設されたのがいつかは正確には分からないが、昭和11年の航空写真でも車庫らしき用地が見えないことから、それよりも後と考えられる。
 車庫の目の前には千川通りと千川上水が流れる立地であった。明治以降は清戸道とも呼ばれた街道で、江戸川橋から現在の清瀬市を結ぶ江戸時代からの街道で、農民が農作物を江戸市中に、帰りは栽培に必要な下肥を運搬した際に使われた道路で、往来が盛んな道路であった。そのような由来を持つことから、後の世になってもこの沿線の流動も多かったのだろう。
 昭和11年に現在の都電荒川線の部分の経営母体だった王子電気軌道の傍系である王子環状乗合が高田馬場駅~早稲田・若松町を運行していたダット乗合(前述のダット自動車とは別会社)、市ヶ谷駅~新橋駅を運行していた日比谷乗合を吸収し、東京環状乗合自動車と社名を改めた。ダット自動車もこれに吸収され、その他は目白駅~江戸川橋を運行していた江戸川乗合自動車商会、池袋駅~大塚辻町(現新大塚)を運行していた東京郊外乗合らも取り込んで東京の北西部に根を張る路線網の一部となった。当時の市バスのライバルだった東京地下鉄道の「青バス」に対して、車体色から「黄バス」の愛称があった。新橋駅~市ヶ谷見附~江戸川橋~目白駅~豊島園の幹線を中心に運行しており、既にこの時点で[白61]の路線の半分以上が出来上がっていたことが分かる。
 その後、昭和17年に戦時体制に対応すべ旧東京市の市内交通を市営に一元化することになり、東京環状乗合の路線網・車庫は全て市バスでの運行となった。山手線の駅を境に原則として西側は民営のエリアとなったが、目白駅をまたぐ流動も多く、そのまま継がれたのだろう。それが今に至るまで名残として路線網に残っていると言える。この時に練馬も東京市バスの営業所となった。
 統合直後の練馬の所管路線は[24](高田馬場駅~若松町)、[25](高田馬場駅~新橋駅)、[27](豊島園~江戸川橋)、[28](武蔵高校~新橋駅)、[29](東長崎~東京駅降車口)と、多少の組み換えがあった[29]以外はほぼそのままの形で市バスに引き継がれた。当時は車庫・事務所ともに木造の粗末な車庫で、現在の敷地の南半分は木炭の倉庫だったようだ。

▲昭和18年6月改編の路線図(部分、練馬以外を淡色に)
※東京都政地図(日本統制地図株式会社)より
 戦後の昭和22年の航空写真を以下に示す。戦前の統合時からは大きく変わっていなかったと思われる。現在の敷地に相当する部分を枠で囲ったが、現在の営業所の建物のある東側は更地となっており、後から買収したのか、単なる遊休地だったのかは不明である。屋根付きの小さな車庫が両側に並んでいる様子が分かる。
 ただし、戦時体制下の燃料不足による路線網縮小で、昭和17年12月には[29]が朝夕のみの運行になり昭和18年4月に早速廃止され、残った路線も昭和18年6月に組みかえられ、[12](新宿駅~市ヶ谷駅~牛込北町~高田馬場駅)、[15](豊島園~練馬車庫~目白駅)、[16](目白駅~新橋駅)の3系統となった。昭和19年5月改正では旧[12]が廃止され、[13](江戸川橋~新橋駅)、[14](練馬車庫~江戸川橋)と分割形態が変わった。都電との連絡を重視したと言える。さらに昭和20年春に[13]も運行停止して残すは練馬車庫~江戸川橋だけになり、山の手地区の空襲のあった後、6月16日付の改正で練馬営業所は廃止され、一旦分車庫格に落とされてしまう。近隣で生き残っていた営業所は大塚だけなので、大塚所管の扱いだったのだろうが、車の停泊等は練馬車庫で行っていたのかは謎が残るところだ。
 終戦前後も練馬車庫~江戸川橋の路線は残り、旧系統番号のペースとなった昭和21年3月の改編では[8]の系統番号を与えられた。4月には練馬も営業所格に復帰し、戦後の路線網の復旧が始まることになった。
 ただし、[8]の番号は長持ちせず、同年8月には[20](哲学堂~目白駅~江戸川橋)・[21](練馬車庫~東長崎~目白駅)の2系統に変化した。分割・拡充した感じだが、これがそれぞれ[池65][白61]の直接の祖先となり、現在に至るまでの練馬の二大看板路線となっている。昭和23年には[21]が豊島園に乗り入れ、戦中は途絶えていた行楽輸送も復活した。

▲関東新交通図(野村書房、昭23)
 次いで、昭和22年には民営との相互乗り入れによる郊外~都心の直通として、昭和22年に[108](豊島園~新橋駅)を西武と、昭和23年の[112](鷺ノ宮駅~新橋駅)と、昭和25年には[121](新井薬師駅~東京駅降車口)を西武・関東との運行で相次いで開通させた。なお、[121]は昭和36年には小滝橋に移管しているほか、[108]は昭和23年に石神井公園駅まで大きく延伸し、豊島園発着は後に別建てで[8](→[橋68])として一般系統で独立している。
 さらに、目白駅から多少離れた日本女子大への学生輸送として、昭和27年に[55](目白駅~日本女子大)の学バスが開通し、昭和20年代でほとんどの路線が出揃った。昭和34年には山手通りの開通により、複数社が新規バス路線を競願となった中、都営は西武と共同で[132](大泉学園駅~新宿駅西口→[宿62])を新たに走らせた。路線網の多くが目白駅・目白通り・新青梅街道に関係し、23区の西端に近い大泉学園駅から山手線の東側にも複数系統が達するなど、営業エリアとしてはかなり広いものだったと言えるだろう。
 昭和30年代には営業所の目の前の千川上水も埋められ、暗渠となった。跡地は歩道となったため、この区間の歩道は幅広に取られている。桜の木がその後に植えられ、車庫の近くには「桜の碑」も建っており、今は桜並木の名所ともなっている。昭和38年の航空写真(前ページ)では建物は建て替えられているものの、車庫・営業所の建物は今よりもいずれも小さい。また、南側の第二車庫の部分には建物が建っており、車庫としても一部活用されている様子が分かる。昭和40年代に営業所の建物が完成し、車庫の南側が露天になってほぼ現在の形が完成した。

▲昭和49年(国土情報Webマッピングシステム)
 しかし、昭和40年代から始まった財政再建の下で、長距離・非効率な路線は順次廃止することになり、乗り入れ先の関東・西武ともに同時期に路線網縮小を行っていたこともあって、これらの路線は早期にカットされてしまう。[112]は昭和44年に、[108]は昭和45年に廃止され、これらの廃止と前後するように、新たな需要を創出する目的で池袋駅東口から新青梅街道経由の[142](池袋駅東口~上井草駅)が西武との共同運行で誕生したが、鉄道並行だったこともあり僅か3年弱で廃止された。これにより、昭和47年の新系統番号付番時は、[学05][白61][宿62][池65][橋68]の5系統となっていた。なお、[宿62]は西武こが昭和49年に撤退したものの、都営は単独で運行を続け、大泉学園への乗り入れを守った。
 さらに昭和50年代の財政再建に伴う改編で路線整理が行われた。昭和52年には長距離で非効率路線とされた[橋68]が廃止された。また、同時期に豊島園から順次撤退が始まり、[白61]が練馬車庫に短縮、さらに昭和53年に[池65]も練馬車庫発着に短縮され、全線が撤退した。

▲昭和51年(練馬区東部、日本住宅地図出版)
 新たな試みとして、昭和53年にはサンシャインシティの開業により[池65]が乗り入れたほか、昭和54年には[橋63](下田橋~新橋駅)を分割した郊外側の[中63](下田橋~国立国際医療センター)を新たに所管した。乗務員数の余裕の都合もあったのだろう。しかし、[池65]の乗り入れは昭和57年に、また[中63]は昭和63年に全線廃止された。新規路線と言えるのは、昭和60年に[学05乙](目白駅~獨協学園)を廃止して開通させた[白61折](目白駅~椿山荘)だろう。短距離のホテルアクセス路線は都営バスとしては珍しいが、現在に至るまで続いている。
 廃止の[中63]と入れ替わりで受け持ちを始めたのが、[王78](新宿駅西口~王子駅)と[王40丙](王子駅~宮城循環)である。[王78]は環七を走り、車庫のすぐ近くを通っていたが今まで担当したことはなく、杉並との共管になった。[王40丙]は車庫から離れていたが、車庫間の担当数のバランスで他に適当なものもなかったのだろう。この体制は平成3年11月の南北線開業の改編まで続き、この時の改正で北の[王57](豊島五丁目団地~赤羽駅東口)の減便で余裕が生まれたことで[王40丙]から撤退し、[王78]の持ち分を多くすることで所要車輛数は変わらなかった。
 これ以降、しばらくの間は担当路線も変わらなかった。平成9年の12号線(大江戸線)新宿駅延伸で[宿62]が短縮され、新江古田駅発着になって[新江62]と名乗ったくらいだろうか。当初は地下鉄との乗継割引も試行されたが、結局定着することなく消えた。平成11年度からは北の傘下の支所格になった。他よりもタイミングが早い格下げで、このタイミングで車輛数が減ったわけでもない。大江戸線全通を見越しての組織のスリム化でもあったのだろうか。始めから支所として開設されたものを除くと、これが戦後初の支所格下げであった。
 所管路線に変化が起こるのは平成15年のことで、杉並のはとバス委託により担当数の少なくなっていた[王78]を手放し杉並に一本化した。また、乗客数が少なく本数も減少が続いていた[新江62]は平成21年度より杉並に移管し、残る所管は3系統のみとなった。
 幹線の[白61]は大江戸線に続き、副都心線の開業はあったものの、今でも便利な本数を保って運行を続けている。また、[白61]の目白駅~椿山荘の練馬車庫からの通し運転や、本線が練馬駅まで延長・増便されるなど、利便性を高める改編も行っている。これ以上所管が減ることも考えづらく、小粒ながら幹線を抱えた営業所として活躍を期待したい。

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