都営バス資料館

里22・×南千47・×南千48

[里22][南千47][南千48]←[12]

担当営業所

南千住営業所

運行区間・運行回数

系統・枝番 起点、経由地、終点           備考 キロ程(往/復) 平日 土曜 休日
里22 日暮里駅~三河島駅~荒川区役所~泪橋~白髭橋東~中居堀~亀戸駅 9.416km 60 60 56 54 35 35
里22出入-1 南千住車庫←泪橋←白髭橋東←中居堀←亀戸駅 5.442km 7 5 3
里22出入-2 南千住車庫←泪橋←荒川区役所←三河島駅←日暮里駅 4.474km 8 6 5
里22出入-3 日暮里駅←三河島駅←荒川区役所←泪橋←橋場2 5.071km 3 1
里22出入-4 泪橋→白髭橋東→中居堀→亀戸駅 5.192km 7 3 2
里22出入-5 泪橋→荒川区役所→三河島駅→日暮里駅 4.224km 7 8 9
里22プロム 日暮里駅~三河島駅~荒川区役所~泪橋~白髭橋東~中居堀~亀戸駅 9.816km 21 20


現在

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要               
12 終戦時 千住 ***  三ノ輪車庫(現三ノ輪駅)~亀戸駅が存在
12 S22. 4.21 千住 10.042km 千住車庫~亀戸駅に延長
12 S25. 6. 1 千住 6,186km 三ノ輪橋~亀戸駅に短縮
12 S35. 4. 1 千住 9.416km 日暮里駅~三ノ輪橋を延長
12 S47. 7. 2 (南千住) *** 南千住分車庫の新設により南千住分車庫に移管
里22 S47.11.12 (南千住) *** 新系統番号化、里22とする
里22  S50. 5. 5 千住 *** 南千住分車庫の廃止により千住に移管
里22  S52.12.16 南千住 *** 南千住に移管
南千48 H14. 4. 1 南千住 7.335km 南千住駅東口~亀戸駅が開通
南千47 H17. 5.30 南千住 7.881km 日暮里駅~南千住駅東口が開通
南千48 H18. 4. 1 南千住 6.918/ 7.038km 南千40の廃止により、南千住汐入~白鬚橋東を墨堤通り経由に変更
南千47 H25. 4. 1 南千住 *** 日暮里駅~南千住駅東口を廃止
南千48 H27. 3.30 南千住 *** 南千住駅東口~亀戸駅を廃止、錦40に統合

路線概要

 日暮里駅から明治通りを経由して亀戸駅を結ぶ環状系統。枝系統として、南千住駅東口から汐入地区・水神大橋を発着する[南千48]が存在したが、こちらは平成27年3月限りで廃止となった。
 日暮里駅を出発したバスは日暮里中央通りを走り、日暮里中央通り交差点を左折して尾竹橋通りを北上する。途中には都営バス難読停留所名にランクインするであろう「大下」。「おおさがり」と読む。かつての字名からつけられた。次の停留所は三河島駅前であり、亀戸駅とは全く違う方角へバスはどんどん進んでいくので不安になる頃だが、前方に陸橋が見えてくると宮地交差点で、ここでバスは鋭角に右折し明治通りに入る。かつてはロータリー型の交差点で、宮地ロータリーと呼ばれていた。
 ここから先はひたすら明治通りを走って行く。左手に公園が見えてくると荒川区役所前停留所。荒川区のほぼ中心にあるが、鉄道の最寄り駅は都電荒川線のみで、ほとんどが路線バスでのアクセスに頼らざるを得ない立地であり、区内を横断するように走る[里22]の役割は大きい。ちなみに[里22]の通らない南千住(汐入)地区については、[里22]の枝系統と言える[南千47]が運行していたが、コミュニティバス「汐入さくら」の開業もあり、[南千47]は廃止された。詳しくは歴史の項も参照。
再び常磐線の高架をくぐると大関横丁となる。相撲に由来があるのか思ってしまうが、下野国黒羽藩の第11代藩主大関増業の屋敷に由来し、都電荒川線の線路脇には「大関横丁由来碑」がある。都電荒川線三ノ輪橋電停の最寄りでもあり、中規模なスーパーマーケットや盛り場もあり、乗降も多い。
 また大関横丁の名は明治通りと昭和通りとの交差点にも名付けられているが、この交差点は台東区。一方で停留所は荒川区。ちょうど交差点とバス停の間にある細い路地が区界となっており、戦前はこの道路を使ってバスが折り返していたともいう。
 そして三ノ輪二丁目の交差点を明治通りに沿って緩やかに左折し「泪橋」に到着する。[里22]の入庫便は泪橋交差点を曲がって南千住車庫前まで営業運転を行うが、出庫便は南千住車庫前からではなく、泪橋から営業運転を行う。そのため[里22]泪橋停留所はどの方向でも交差点の先に停留所がある。なお、日暮里駅からの入庫便の一部は、泪橋の2つ先の橋場二丁目まで延長運転され、近隣住民の便を図っている。
 泪橋停留所を出てしばらくすると左手に東京ガスの千住テクノステーションが見えてくる。天然ガスを利用したコージェネレーションシステム等の研究施設で、天然ガス自動車充填所も併設されている。そのため、都営バスで最初にCNG車を導入した際の配属営業所が南千住であったたのも、営業所の至近距離にこの設備があるのが理由の一つだった。
 橋場二丁目停留所を過ぎると、隅田川を白鬚橋で渡り荒川区から墨田区に入る。
 向島百花園最寄りの百花園前停留所を過ぎ、東武線高架を抜けると今度は真新しい高架橋が見えてくる。京成押上線の高架橋で、既に押上方向が高架化され、青砥方面も鋭意建設中である(平成26年7月現在)。[里22]は都営バスでは珍しい2回踏切を通過する路線であるが、この高架橋が完成すると都営バスが渡る踏切がまた1つ減ることになる。
 そしてバスは京島エリアへと進んでいく。京島は関東大震災の被害や第二次世界大戦時の空襲被害が少なかったために、大正~昭和時代の長屋や町工場が古い建物が密集して建ち並び、狭い路地が入り組んだ東京の下町風情が多く残っている。近年、明治通りに面してマンションが建ち並ぶようになったが、明治通りに繋がる路地の先にそのような景色がちらりと見える。時間に余裕があれば途中下車して散策してみたい。
 中居堀を過ぎると明治通りは右へと曲がり、[里22][南千48]も明治通りに沿うように進む。東武亀戸線の踏切を通過すると文花二丁目。踏切の脇には方面別の小さな駅舎が建ち、小村井駅前といっても差し支えない場所だ。北十間川にかかる福神橋を渡ると江東区に入り、亀戸四丁目から商店街を抜けると終点の亀戸駅前に到着する。なお、日曜日には亀戸四丁目交差点から亀戸駅までの区間が歩行者天国のため迂回運転を行っている。

歴史

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▲昭和15年の配付路線図
 明治通り北東1/4を走り抜ける系統で、その歴史は都営バスの中でもかなり長い。始まりとなったのは昭和7年12月に[56](三ノ輪車庫~白鬚橋)が開通したときである。環状道路として関東大震災後の都市計画で現在の明治通りが計画・整備され、昭和6年6月には隅田川を渡る白鬚橋(現)が架橋された。この時点では、橋近辺から三ノ輪で市電連絡をするフィーダー系統という扱いだった。
 昭和10年11月には明治通り沿いに亀戸駅・大島車庫まで延伸されて[28]に改番し、一気に現在の原型が出来上がった。さらに昭和15年には明治通りを南下して南砂町・東陽公園(現東陽町駅)まで延伸されるが、戦時中の規模縮小で昭和18年6月には大島七丁目発着に、11月に大島車庫止まりに再び短縮され、昭和20年の東京大空襲後は亀戸駅止まりとなった。それでも他の多く系統が廃止・休止される中で、終戦時に残った12系統の中の1つとなったのはそれだけ需要があったということだろう。
 戦前は三ノ輪車庫発着となっていたが、どのように折り返していたのかは不明である。都電の車庫敷地(現根岸図書館・東日暮里一丁目アパート)を使っていたか、昭和27年に免許廃止した三ノ輪ループ部(明治通りから荒川区・台東区境の細い道路を通って昭和通りの三ノ輪駅2番出口脇に出る道路)を使って折り返していたのだろうか。
 昭和22年4月には三ノ輪から日光街道を北上して千住車庫まで延伸されるが、他系統との重複で非効率とされたのか、昭和25年6月には三ノ輪橋まで短縮された。このときは日光街道上の三ノ輪橋が終点だったが、この時代の折り返し方法も不明である。当時の航空写真を見る限り、折返所があった可能性は低そうだ。
 しばらくはその形で走っていたが、昭和35年4月に明治通り・三河島駅を経由して日暮里駅まで延伸された。明治通りの大関横丁以東は既に[43](池袋駅東口~浅草寿町→[草63])が走っているなど、延伸区間は既に何らかの系統が走っていたが、それらをつなぎ合わせて国電駅までを結んだというのが目新しい。日暮里駅は当時錦糸町駅への[23](→[都08])など南東方面への系統のみだったこともあるのだろう。
 これで路線は完成したということか、以降は路線の形は全く変わっていない。唯一変わったのは所管である。戦前は新谷町が持っていた明治通り筋の系統も、戦中の縮小で千住に移管され、戦後の[12]は千住所管だった。日暮里駅延伸以後も三ノ輪橋行きは入庫として設定が残っていたが、昭和50年に南千住営業所が現地に移転してきたことで路線と非常に近くなったこともあり、昭和52年12月の改編時に[草41]と交換の形で南千住に移管された。以後は一貫して南千住担当となっている。
 昭和47年には新系統番号になって[里22]になり、総武線で1駅違いの場所を結ぶ[里23]とは兄弟系統のような関係だった。しかし、都市新バス化された[里23]とは営業成績には開きがあり、記録に残る昭和50年代後半以降でも[里22]は営業係数110~120の赤字、[里23]は80~90の黒字であった。浅草などの集客ポイントを通らないこと、地下鉄開業・都電廃止による三ノ輪のターミナル性低下もあるのだろう。昭和62年度の新車では南千住に多くの中型車が入ったが、[里22]は一時期中型での運用が目立つようになった。路線環境は大型でも問題なく、燃費などのコスト圧縮による収支改善を試みたのだろう。結局これらの車の置き換え後は再び大型車に戻っている。
 21世紀に入ってからの動きは、南千住駅東口ターミナル開設による枝系統の出現である。まず、平成14年4月に[南千48](南千住駅東口~亀戸駅)が開通した。
南千住駅から[上46](上野松坂屋~南千住駅東口)と同じように汐入地区を進み、南千住東部区民事務所から東京ガスの脇を出て明治通りに合流して亀戸駅まで、というルートで、1時間に2本程度が設定された。昼間のみの運転だが、[里22]から本数が振り替えられたため、[里22]の全線通しは昼間で約15~20分おきに減ってしまった。
 その後、平成17年5月には[南千47](南千住駅東口~日暮里駅)が開通した。平日昼のみの1時間1本程度の運転で、区役所輸送対応という面が強いだろう。日暮里駅から橋場二丁目までは[里22]、南千住側は[上46]と並走となり、[南千48]とともに乗り換えが必要な2区間を1つの系統で結んで走っている感じであった。系統の区別のためか、方向幕の地色は[南千48]が緑色地、[南千47]が青色地となった。
 [南千48]は、その後[南千40](南千住駅東口~墨田一丁目)の廃止代替で平成18年4月から水神大橋・墨堤通り経由となり、白鬚橋を渡らないようになった。本数は開通当初から減って平日は1時間1本になっており、乗客流動としては従来の区間利用が中心のようだ。
 また、[南千47]で特に顕著だったが、南千住駅発着系統のダイヤは1台の車が行ったり来たりというものではなく、[里22]の出入庫の代わりに運転し、駅から車庫まで回送するような運行もあった。運行コストを圧縮する目的もあったのだろう。
 しかし、南千住側からの区役所連絡としては平成17年4月に荒川区コミュニティバス「さくら」(南千住駅西口~荒川区役所循環)が開通しており、さらに平成18年10月には「汐入さくら」(南千住駅西口~汐入地区~南千住駅東口)が運行を開始し、一部便は「さくら」~「汐入さくら」で直通運転を行うようになった。こうなると、この路線の役割と競合することになり、汐入から日暮里駅方面に直通する需要も少なかったということか、[南千47]は平成25年3月限りで廃止された。残った[南千48]も、平成27年3月に[墨38](東京都リハビリテーション病院~両国駅)の廃止による統合と効率化のため、亀戸駅側を切り落として[錦40]南千住駅東口~錦糸町駅として生まれ変わった。以降は[錦40]を参照のこと。

橋場二丁目止まり

 以前から始発時間帯に橋場二丁目始発の日暮里駅行きは存在したが、平成16年3月で誕生したのが橋場二丁目行きの運行である。橋場二丁目到着後は折り返すわけではなく、白鬚橋西詰を左折してJR貨物の隅田川駅側に回り込んで車庫まで入庫する。同時に朝の出庫も大半が橋場二丁目発となった。近隣の住民からの要望で、出入庫の経路振り替えてサービス運転したもののようだ。
 もっとも橋場二丁目行きのほうは利用率が今一つだったのだろうか。現在では休日の夕方に1本が設定されるのみとなっている。
「明治通り」?
 東向島広小路の隣、京成曳舟駅のそばに「明治通り」というバス停がある。通りの名を停留所にするときは、クロスする系統があるときにこそ意味がある(例:大久保通り)のに、この辺りでクロスしているバス路線も見当たらない。里22は明治通りを走っているので、こんな名前ならどこにあってもおかしくない……というか普通はこんな停留所名にしないはず。
 実はこれ、昭和48年まで「明治通り」バス停で[草38](浅草寿町~押上駅~[八広中央通り]~青戸車庫)がクロスしていた。しかしその存在を考えてもなお、もっとマシな名前をつけてあげれば良かったのにと思うばかりである。[草38]の廃止から30年近くが経つが、停留所名はそのままだ。
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