都営バス資料館

草41

[草41]←(廃止←[65])←[11]

担当営業所

千住営業所

運行区間

系統番号 枝番 起点、経由地、終点 備考 キロ程(往) キロ程(復)
草41 足立梅田町~千住桜木~町屋駅~三河島駅~鶯谷駅~浅草寿町 8.402 8.402
折返 足立梅田町←千住桜木←町屋駅←三河島駅←鶯谷駅 6.095

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要
11 終戦時 新谷町? *** 西新井橋(現千住桜木)~道灌山下が存在
11 S21.3.15 新谷町 *** 西新井橋~浅草寿町に延長
11 S23.8.1 新谷町 6.422km 馬道(現浅草2)経由から浅草公園六区経由に変更
11 S27.7.5 新谷町 9.995km 浅草寿町~精華小学校~浅草橋~浜町中の橋~蛎殻町を延長
11 S27.9.7 新谷町 11.465km 千住梅田町~西新井橋を延長
11 S29.6.1 新谷町 11.975km 足立梅田町~千住梅田町を延長
11 S33.11.1 新谷町 13.625km 蛎殻町~兜町~宝町1~東京駅八重洲口を延長
11 S41.3.10 新谷町 8.402km 系統分割、11系統:足立梅田町~浅草寿町、65系統:日暮里駅~東京駅八重洲口とする
草41 S47.11.12 新谷町 *** 新系統番号化、草41とする
草41 S50.12.21 南千住 *** 新谷町の閉所移転により、南千住営業所に移管
草41 S52.12.16 千住 *** 千住に移管
草41折 S52.12.16 千住 7.312km 放水路土手下~浅草寿町を開設

路線概要

浅草寿町から荒川放水路を西新井橋で渡った先の足立梅田町まで至る。主に鶯谷駅・尾竹橋通り・千住桜木を経由し、鉄道で直接行きづらいところを南北に結んでいる。昭和41年の分割までは東京駅八重洲口から直通する長大路線だった。分割された後は南千住の[65](日暮里駅~東京駅八重洲口)の項も参照のこと。

路線

▲浅草寿町[ゆる]

地下鉄銀座線田原町駅そばの浅草寿町から[草41]は出発する。雷門からは少し離れているが、この辺りも歩道にアーケードがついて商店が並んでおり、バスを待つ姿の人も多い。
国際通りを北上し浅草一丁目、浅草公園六区と続いて多くの乗客を乗せる。西浅草3丁目交差点を左折し、東京スカイツリーをバックに言問通りを西へと進む。昭和通りとの交差点を過ぎた先の左側に寺が見えてくる。眞源寺という名で、入谷鬼子母神の名のほうが有名だろう。毎年七夕の前後3日間開催される朝顔市は有名で、眞源寺前の言問通りを通行止めにして歩行者天国が実施されるため、[草41]は上野駅方向へ迂回運転を行う。これについては別項を参照されたい。
▲浅草公園六区[M]

鶯谷にも近年はビジネスホテルが立ち並ぶようになったが、昔ながらの大人の歓楽街もそれなりに残っている。鶯谷駅前交差点を右折し尾竹橋通りを進む。尾竹橋通りでは鶯谷駅前交差点から宮地交差点までの区間で電線共同溝工事が行われており、電柱がなくなるだけで沿線の景色にも以前とは全く違った趣を感じる。

▲三河島駅

タワーマンションが建設され景色が一変した三河島駅前を過ぎ宮地交差点を通過する。前方に京成線が見えてくると町屋駅前。都電荒川線と地下鉄千代田線、京成線との乗換停留所で、[草41]では乗客の入れ替わりが一番多い停留所だ。さらに尾竹橋通りを北上。町屋一丁目から尾竹橋にかけては、道の両側に商店が多く並んでおり、昼間から夕方にかけては買い物客の乗降が多い。

▲尾竹橋、千住桜木[ゆる]

隅田川を渡り足立区へ入ると最初の停留所は千住桜木。その昔、お化け煙突で有名な千住火力発電所があったところだ。隅田川の水運を生かし石炭を船で運べるとの利点から大正15年に稼働開始。しかし、国産石炭の質低下や豊洲に新発電所が建設されたことから昭和38年に稼働停止。跡地は東京電力の施設に活用されている。
千住桜木町交差点を直進し、西新井橋で荒川を渡る。西新井橋北詰で右折し梅田排水場交差点を直進して細い道へに入り最初の停留所は放水路土手下。この放水路とは荒川のことだ。岩淵水門から中川までの荒川は人工的に作られた河川で、以前は荒川放水路と呼ばれていた。昭和40年に新河川法により荒川放水路は荒川に組み込まれるようになったが、停留所名には名残を残しているのである。
この先は都営バスが運行する道路としては比較的狭い道路を走る。歩道の白線は引かれているが、その歩道の幅は非常に狭く、バス停も道路に対して平行に設置されている。右手に操車場が見えてくると終点の足立梅田町。ここから東武線梅島駅までは徒歩5分程度である。

▲放水路土手下、足立梅田町[ゆる]

▲足立梅田町[ゆる]

路線の歴史

 町屋や尾竹橋通り沿線から都心へと直通する役割という意味では、戦前から歴史の続く非常に息の長い系統である。
 昭和8年11月に開通した[22](三河島~道灌山下~上野広小路)がこの系統の祖先である。交通局30年史によれば、新規開通区間は道灌山下~尾竹橋となっているが、昭和9年12月現在の路線一覧によれば「三河島」(町屋駅付近)が終点となっており、正確な区間は不明だ。昭和10年度内には尾竹橋まで営業していたようである。尾竹橋通りを南下し、宮地交差点から道灌山下まで直進して不忍通りへ左折、上野広小路まで走っていた。新谷町営業所所管。
▲昭和15年の配布路線図

 尾竹橋自体は関東大震災復興事業で昭和9年に完成していたが、バス路線が尾竹橋以北に伸びたのは昭和12年のことで、西新井橋(千住桜木付近)まで延伸された。昭和13年には[14](駒込駅~道灌山下~上野公園~押上駅)と統合して西新井橋~道灌山下~上野公園~押上駅に、翌14年には柳島・中居堀経由で玉ノ井・吾嬬西九丁目(現・四ツ木橋付近)に延伸されたが、昭和17年の陸上交通調整の各社統合時に分割され、再び西新井橋~上野広小路に戻った。その後昭和18年6月の改正で組み替えて根津から帝大農学部経由で御茶ノ水駅発着に変更。燃料不足の中、昭和19年5月に都電と並行する不忍通りの区間を休止して[11]西新井橋~道灌山下に短縮され、そのまま終戦を迎えた。この系統番号を戦後も長らく名乗ることになる。
 終戦直後の昭和21年3月改編では、さっそく浅草寿町発着に延伸された。宮地交差点~道灌山下を廃止し、三河島駅・鶯谷駅・入谷を回る現在と同じルートである。上野よりも浅草のほうが需要が大きいと判断されたのだろうか。宮地~鶯谷は戦前もバスがほぼ通っていなかった経路で、なかなか興味深い変化である。なお、一時期は馬道・二天門を経由していたようだが、昭和23年8月に現在と同じく国際通り経由に改められた。
 昭和27年には路線が南北とも伸びた。南は浅草寿町から南下して蔵前一丁目、浅草橋、浜町中ノ橋、水天宮を経由して蛎殻町まで延伸された。現在の蛎殻町交差点付近が終点となり、少し中途半端にも見える。
この辺りは既にバスは引かれていたが、浅草から水天宮方面は初だった。そういう需要に応えたのかもしれない。
 北側は同年9月に西新井橋から北上して橋を渡り、千住梅田町まで延伸された。現在の足立梅田町とは別で、赤不動から290mとなっていることから、現在の梅島第二小学校付近だろう。

▲西新井橋~千住梅田町の申請時の文書
 延伸先の梅田町周辺は戦災を免れた地域だが手近な交通機関がなく、西新井橋まで徒歩で出ているため住民の陳情もあったと当時の免許申請書類に記されている。終点近くの道路際に折返所が設けられた。
 さらに昭和29年6月には2停留所分延伸され足立梅田町を新たな終点とし、千住梅田町は「学校通り」に改められた。
 南側は昭和33年11月に延伸し、水天宮から現在の[錦11](亀戸駅~築地)と同様に八丁堀二丁目交差点まで南下、そこから八重洲通りを経て東京駅八重洲口を終点とするようになった。
 郊外の足立区から都心まで直通する13km超の長い路線となったが、北と南では乗客数は対照的だったようだ。昭和40年の乗客調査では、足立梅田町発着は159.5往復と数多く運転されている。僅かに千住桜木始発があったが、入谷鬼子母神から144.5往復、新谷町車庫から114往復、浅草寿町以遠は51.5往復とかなりの段落としとなっていた。
 最混雑区間は町屋一丁目→町屋稲荷(現・町屋駅)で、ここから京成・都電への乗り換えが多かったのだろう。次に日暮里駅通り(現・東日暮里四丁目)から鶯谷駅にかけて半分超が下車しており、鶯谷から多少の乗車があるものの、そこから浅草寿町まで各停留所ともに降車が目立っている。浅草以南は本数が半数以下に減るが、都心に出るには大回りということもあるのか、浅草橋以南の混雑率は10%以下と乗客に大きな差が見られた。
 非効率な状態の是正と早期ワンマン化もあったのか、昭和41年3月に[11](足立梅田町~浅草寿町)、[65](日暮里駅~東京駅八重洲口)に分割され、同時に[11]はワンマン化された。[65]はその後早くに廃止されてしまったが、詳しくは南千住の巻を参照のこと。

 残った[11]は路線の形として完成していたのか、その後50年以上変化がない。変更点は所管の変化と使用車輛の中型化くらいである。長らく新谷町所管だったが、営業所の南千住への移転(昭和50年)もあり、昭和52年12月の改編時に[里22](日暮里駅~亀戸駅)と交換する形で千住に移管された。以来、千住の所管系統となっている。
 乗客数は昭和50年頃までは1万人/日前後を保っていたが、53年度に急減して7,500人を割り、昭和58年度には6,000人にまで減った。沿線で鉄道が開業したわけでもなく、大幅減の要因はよく分からない。それ以降は横ばいとなるが、営業係数は昭和57年度で140に悪化しており、効率化を目的として昭和60年度から中型車の導入が始まった。後の項も参照。

 これ以降は本数の減便と乗客数の持ち直しもあり、平成に入ると営業係数120前後に改善する。だが、平成12年12月に本数が一気に2割程度削られた。平成15年3月、16年4月にも平日を中心に削られ、[草43]と同様の平日<土曜<休日という本数構成が定着する。浅草のWINS・行楽需要など、休日が一番混むということもあるのだろう。
 その後も本数は下げ止まっておらず、現在は平日は1時間3本と平成初期に比べると寂しい本数になっている。沿線の高齢化もあるのだろうか。平成26年度の乗客数は5,293人/日と平成初期から1-2割減った程度で営業係数は111と改善しているので、車輛は大型に戻りつつあるのに合わせ、詰め込みを効かせて効率を高めたということなのだろうが……。今後どのようになっていくのか気がかりである。

中型車と出入庫

▲回送経路(点線)
 歴史の項でも記した通り、[草41]は昭和60・61年度の新車(P・R代車)で中型車の新車が21輛入り、原則これらの車での運行となった。従来の出入庫は放水路土手下~(土手沿い)~千住新橋北詰~千住車庫というルートだったが、中型化により足立梅田町の先を直進し、現エル・ソフィアから[王49]ルートで回送するようになった。回送距離の短縮と燃費改善が目的で、回送距離削減で中型化した都営バス系統はここくらいであろう。出庫は千住車庫から国道を北上し、東武線沿いに進む姿も見られた。足立梅田町の先の交差点には誘導員が立つ姿も見られた。
 平成7~9年度に2代目の中型車(S, B~D代車)にバトンタッチしたものの、本数減もあってそれ以降は代替のないケースや転出も目立ち、平成13年度からは全15輛に減る。さらに残った2代目中型車が平成19年度から順次更新となったが、これ以降の代替は全て大型となった。

この頃より回送経路も従来の土手ルートに戻されている。他で使い道のなくなった中型ロング(K代車)が中心に入るようになったが、平成22年1月に中型車は全て引退し、平成28年度からは中型ロングも順次引退が進み、現在はほとんどが大型車の運用になっている。中型よりは大型のほうが混雑対応も優れているということなのだろう。
 現在は足立梅田町の先の道路が整備され、大型車でも何とか千住車庫まで通れそうにも見える。千住車庫や足立区役所まで営業すれば便利かもしれないが、そこまでの需要はなさそう、ということだろうか。

放水路土手下と足立の花火大会

 普段は浅草寿町と足立梅田町を往復する便ばかりだが、行き先表示は放水路土手下や町屋駅といったものが用意されている。「放水路土手下」は浅草側からかつての大型時代の入庫に使っていたようだが、それ以降は年1回、足立区の花火大会のときのみ使用する行き先である。

 昭和54年より始まった花火で、長らく7月最終週の土曜の手前の木曜開催だったが、平成23年の東日本大震災で平成23, 24年は10月開催となり、平成25年からは隅田川花火の1週前の土曜日となり、夏の東京各地で行われる花火大会の第一弾という立場になった。
 平成16年頃まで、[草41]は花火の際に放水路土手下で折り返しとなり、土手下停留所は放水路を渡ってすぐ坂を下りたところに臨時停留所が作られ、そこで路上転回して折り返して行った。この転回もなかなか迫力あるシーンであった。
 それ以降は川を渡る手前の千住桜木発着となり、花火会場そばの土手際に停めるようになり、LED行き先表示は専用の表示を作るようになった。
 また、花火終了後の観客輸送では町屋駅止まりも随時出すなど臨時運転をしていたが、浅草までの運転が基本となり、町屋駅止まりを見る機会はほぼなくなっている。

祭り迂回3題

▲祭り迂回(点線ルート) 主要停留所のみ記載

 [草41]は下町を走るだけあって、沿線の祭りで影響を受けることが多い。ここでは過去の定期的な迂回運転を3題紹介しよう。
 まずは北側の素盞雄(すさのお)神社天王祭の交通規制。6月に開催される。神社そのものは日光街道沿いの南千住交差点そばにあるが、各地に神輿が出ることで交通規制となり、荒川四丁目~町屋三丁目を明治通り・尾久橋通り・電化通り経由に迂回し、熊野前に臨時停車となる。これにより、一本松・町屋一丁目・町屋駅・荒川五丁目の各停留所は休止となる。本社の神輿が出る本祭は3年に1度だが、規制自体は毎年実施されている。
 南側は東京の夏の風物詩としても有名な入谷朝顔まつり。日本最大の朝顔市で、付近は多くの人で賑わう。言問通り上で7月上旬の3日間にわたって開催されるため、下谷二丁目~入谷鬼子母神を迂回する。1停留所ではあるが方面によって迂回経路が異なるのが特徴で、浅草方面は北側の小道に、鶯谷方面は南側の上野郵便局まで大きく回り込む。このときはさすがに時間通りの運転とはいかないようだ。
 真ん中の迂回は鶯谷駅そばにある元三島神社の例大祭によるもの。3年に一度の5月の土日に例大祭が行なわれ、町内神輿が各地から尾竹橋通りを練る。バスの間近を神輿が進む景色はここならでは。
上根岸から三河島駅付近にかけて通行止めとなり、[草41]は鶯谷駅から日暮里駅に抜け、一旦日暮里駅ロータリーに入って降車した後、そこから普段はバスの通らない「七五三通り」を通って三河島駅の南側まで抜けていた。なお、年度によって交通規制の状況は変わっているため、体験される場合は最新の案内をチェックのこと。

途中始発

 通常ダイヤでは全線の通し運転のみだが、始発のみ鶯谷駅→足立梅田町が設定されている。送り込みは回送ではなく、[草43]千住車庫→三ノ輪駅として運転される。詳しくは[草43]の項参照。三ノ輪駅からは日光街道を直進して[草41]の経路に合流するようだが、入谷鬼子母神から営業にならないのは何かの名残だろうか。
 これ以外には、リスト上では荒川五丁目→足立梅田町が用意されている。明治通り経由で回送して宮地交差点から合流するのだろうが、一回も設定されたことはない。そのうち有効活用されたりするのだろうか。

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