都営バス資料館

都02・×急行02

[都02][急行02]←[塚20]←[516]←都電16

担当営業所

巣鴨営業所

運行区間・運行回数

系統・枝番 起点、経由地、終点           備考 キロ程(往/復) 平日 土曜 休日
都02 大塚駅~窪町小学校~春日駅~御徒町駅~本所1~錦糸町駅 10.419km 113 118 99 101 93 94
都02折返-1 大塚駅←窪町小学校←春日駅←御徒町駅←本所1 7.657km 1
都02折返-2 大塚駅~窪町小学校~春日駅~東京ドームシティ 4.080/4.020km 1 1
都02出入-1 窪町小学校~春日駅~御徒町駅~本所1~錦糸町駅 8.789km 3 2 1 1
都02出入-2 大塚2~大塚駅 1.330km 11 15 13 10 15 10
都02出入-3 真砂坂上→御徒町駅→本所1→錦糸町駅 6.447km 1
都02折返-4 大塚駅~窪町小学校~春日駅 3.630km 1 1 1 1


現在

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要               
516 S46. 3.18 大塚・江東 10.069/10.369km 都電16(大塚駅~錦糸堀)の代替で大塚駅~文京区役所~錦糸町駅が開通
516折  S46. 3.18 大塚・江東 7.707/ 7.507km 大塚駅~厩橋を開設
516折  S46. 3.18 大塚・江東 6.439km 錦糸町駅~文京区役所を開設
516 S47. 3.26 大塚・江東 10.069km 大塚駅発を、南大塚郵便局経由から南大塚通り直進経由に変更
516折  S47.11.12 大塚  *** 大塚駅~厩橋、錦糸町駅~文京区役所を廃止
塚20 S47.11.12 大塚 *** 系統番号を[塚20]とする
塚20折  S47.11.12 大塚 8.439km 大塚車庫~錦糸町駅を開設
塚20折  S47.11.12 大塚 7.267km 大塚駅~本所1を開設
塚20折  S47.11.12 大塚 5.997km 大塚車庫~本所1を開設
塚20  S57. 4.17 大塚 10.019km 錦糸町駅の乗り場がガード下から北口ターミナルへと変更
都02  S61. 3. 3 大塚 10.019km 都市新バス化、[都02]とする。愛称はグリーンライナー
都02  H2ごろ 大塚  *** 錦糸町駅北口バスターミナル工事にともない、太平1→錦糸町駅を江東橋・錦糸町駅(南口)経由に変更してループ化
都02  H 9. 6. 1 大塚 10.419km 錦糸町駅北口バスターミナルの新設により元の経路に戻す
急行02 H12.12.12 大塚 3.630km 大塚駅~春日駅が開通、途中停留所は新大塚・大塚3・茗荷谷駅・伝通院
都02 H14.12. 1 大塚 *** 21時以降の上野広小路経由への迂回をとりやめ
急行02 H14.12. 1 大塚 *** 大塚駅~春日駅を廃止
都02折 H16.11. 1 大塚 4.080/ 4.020km 大塚駅~春日駅の折返を大塚駅~東京ドームシティに変更
都02 H27. 3.30 巣鴨 *** 巣鴨に移管

路線概要

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 大塚駅から御徒町駅を経由して都心の東西を縦断する全長約10キロの路線であり、都市新バス「グリーンライナー」の愛称を持つ、大塚の一番の幹線である。
大塚駅を出発すると、緩やかな坂道を登って新大塚へ。新大塚から先は春日通りと名前を変えて、東京メトロ丸ノ内線と並行して進んでいく。
大塚三丁目で兄弟路線の[都02乙]と合流このあたりから春日駅前にかけては学校が非常に多く、文教地区となっている。通学生が利用する姿も多く見かける。
跡見学園の正門が見えてくると、まもなく大塚車庫前。都営バスの営業所・支所の建物では最も古いと思われる事務所と検車庫は、再開発第一期でも取り壊されずに、昔の雰囲気を今に伝えているが、この先の再開発の進捗状況によってはこれら建物が取り壊される可能性もある。記録するなら今のうちだろう。
小日向四丁目に差し掛かると道幅が急に広くなるが、これは区画整理とあわせて拡幅工事が行われたためである。小石川四丁目の錦糸町駅方面の停留所は、道路の中洲のようなところに停留所があるのが特徴である。
富坂上停留所を過ぎると一気に富坂を下って春日駅の停留所に到着する。文京区内の交通結節点であり、ホールや展望室も併設した文京区役所(文京シビックセンター)や東京ドームシティへの最寄り停留所でもあるため、乗客の入れ替わりが激しい。ここからは都営大江戸線の上を走るようになる。り、春日町交差点で白山通りを過ぎると、今度は真砂坂を登る。ちょうど本郷・小石川の台地に囲まれて区役所の付近が谷地になっているためだが、武蔵野台地の端を走っていることが想像できる。
春日駅の前後にある急坂のため、[都02]の都市新バス仕様車のうち、一部車については車輛仕様上特別な配慮が行われていたという。これについては別項目で述べることとしよう。
新大塚から平行してきた丸ノ内線とは本郷三丁目駅で別れ、バスはさらに東へ進む。湯島四丁目から湯島三丁目へと急坂を降っていくが、この坂道の名は切通坂(きりどおしざか)という。映画「婦系図 湯島の白梅(しらうめ)」の主題歌、最近では演歌歌手氷川きよしの歌に「青い瓦斯灯境内を/出れば本郷切通し」という歌詞があるが、その本郷切通しこそが、この切通坂である。
湯島三丁目の錦糸町駅方面の停留所は、春日通りの本線から側道に入ったところにある変わった構造になっている。昭和44年に旧岩崎弥太郎邸の一角を開発して作られた当時の先進的な高層マンションで、春日通りの拡幅の計画があるためにセットバックした形で建設され、ここだけ先行して拡幅した部分も道路が作られたためである。しかし、その後は計画が遅々として進んでいないようだ。
また、この坂道の脇には湯島天神がある。正式名称は湯島天満宮、学問の神様として知られる菅原道真公を祀っているため受験シーズンともなると多くの学生が訪れる。天神下交差点を過ぎると上野広小路、続いて御徒町駅となる。[都02]の旅客流動では最も核となる停留所である。ここで大きく乗客が入れ替わり、時間調整もここで行う。ちょうどアメ横エリアの入口に近く、買い物需要も多い。
御徒町駅を過ぎると沿線の景色も下町の街といった趣へと変わる。厩橋の手前には蔵前駅前の停留所があるが、ここは大江戸線の蔵前駅の最寄りである。浅草線の蔵前駅へは右折し、江戸通りへ200mほど歩かなければならない。
厩橋で隅田川を渡ると墨田区へ入る。バスは本所一丁目交差点を右折するが、実は大塚駅前を出発時に交差点を曲がって以降、ここまで一度も交差点を曲がっていない。都心部の路線で交差点を曲がらずに長い距離走り続けるというのもある意味で希有な路線である。
清澄通りを僅かに走って、石原一丁目で蔵前橋通りへと左折し、真下を走っていた都営大江戸線とはここでお別れとなる。新大塚からここまで比較的長い距離を地下鉄2路線としてきたが、それぞれの地下鉄の駅間が長いことや、駅のホームまで全般的に時間がかかることや、台地で坂が多いという自然環境など様々な要因が重なって、地下鉄と共存していると言える。
蔵前橋通り沿線は高いビルも少なく住宅・中小の工場や低層ビルが並ぶ下町の雰囲気であるが、錦糸町駅が近くなるにつれて商業施設が目立ってくるようになる。太平三丁目の交差点でバスは右折し四ツ目通りに入ると、終点まではあと少し。交差点の角には精工舎の工場跡地を再開発した複合施設「オリナス」が開業しており、ここを目的として[都02]を利用する客も少なからずいる。なお、経路の都合で太平三丁目(錦糸町駅方面)は他の停留所の停留所とは少し離れており、大塚駅方面に至っては停留所がない。そのため、他系統からの乗り換えには、少し離れているが太平二丁目か錦糸公園のいずれかまで歩くことになる。
錦糸公園停留所を過ぎ、交差点を右折すると錦糸町駅前に到着である。北口ターミナルに発着となるが、混雑時間帯は錦糸公園からの右折に時間がかかることもしばしば。南口や楽天地方面なら、手前の錦糸公園で降りて歩いたほうが早い場合も。
 ダイヤは大塚駅~錦糸町駅の全線運転を基本とし、出入庫はほとんどが大塚駅~大塚車庫で行っている。そのため、大塚駅~大塚車庫の運転本数は非常に多くなっている。大塚車庫~錦糸町駅は早朝・深夜のみの運転に限られている。そのほか、平日朝ラッシュ時に春日駅で分岐して東京ドームシティが終点となる便が僅かに運転されている。

歴史

 都電代替であり、大塚管内の一番の幹線系統である。春日通りを貫通する市電としては、昭和初期の時点で17系統(大塚駅~厩橋一丁目)があり、厩橋まで現在の[都02]と同じ経由で走っていた。市電の当時の路線網の中では郊外から東京中心部に向かわない経路設定は比較的少数派だが、大塚・春日・本郷・上野を結ぶ流動がそれだけ多かったのだろう。様々な統合・変更が行われた戦中も形が変わらなかったのも珍しい。
 終戦直前の空襲で一旦運休するも、終戦の頃には復旧した。昭和22年秋頃に池袋駅発着と系統番号を交換して16系統となったのが少し不思議であるが、このときに戦後お馴染みの番号となった。昭和23年12月には厩橋から蔵前橋通りに転じて本所・太平経由で亀戸天神橋まで延伸された。この区間は、戦前は亀戸天神橋~森下町~(清澄通り)~門前仲町~永代橋~都庁方面の系統が走っていた区間だが、戦災で休止しており、改めて復活した際に16系統に付け替わったものである。もっとも、翌昭和24年11月には末端部を廃止し、新たに錦糸堀(後に錦糸町駅に改称)を終点とした。現在の四ツ目通り上、錦糸町駅ガードの北側に折り返しホームが設けられ、南口側の都電とは線路はつながっていなかった。
 以降は昭和46年3月の廃止まで運行区間は変わらず、バス代替時も、[516]として都電を忠実になぞるルートで設定された。両端とも既に国電の駅に接続しており、特に変える必要もなかったということであろう。
 なお、バス代替からしばらくの間は、大塚に加えて江東が所管していたのも面白い。今では想像しづらい文京区役所~錦糸町駅という折り返し運用もあったが、担当割合は多くなかったようだ。ただし、これも1年半程度のことで、昭和47年11月に江東区内を中心とした都電廃止の際に、江東は他の都電代替系統の所管で手一杯になるためか[516]から撤退した。同時に新番号化し、[塚20]を名乗った。[錦]糸町駅を基準で名乗らなかったのが興味深いが、あくまで山手線内の駅のほうが付番ルール上は格上ということだろうか。
都営バスでは比較的長距離路線の部類に入るが、地下鉄と並行せず、沿線のバス需要が大きいことや、途中で山手線(御徒町駅)と交差することもあり乗客の入れ替わりも非常に多く、乗客数は五本の指に入り、収支の面でも優良路線であった。それでも、渋滞等による逸走は避けられず、昭和50年度には35,416人/日を数えた乗客数は緩やかに減少し、昭和59年度は25,847人/日となっていた。
 さて、昭和59年に都市新バスに転身を遂げて大成功をおさめた[橋89]→[都01]に続き、交通局は頻発・ハイグレードな専用車で快適・バスロケーション(接近案内)システムで便利という条件を満たした、都市新バスの第二弾の検討に着手した。そして、整備効果が大きいことやバスレーンの整備がしやすいことなどの条件を満たす路線の中から第二弾に選ばれたのが、大塚駅と錦糸町駅を結ぶこの系統であった。選定理由は、当時の資料によれば、非定期客の比率が高く、御徒町を中心とした需要があること、また豊島・文京・台東・墨田の4区にまたがってPRできることが挙げられている。
 また、当時は春日通りの渋滞が激しく、昼間でも6分間隔で運行しているはずなのに、本郷や上野広小路ではしばらくバスが来ないことがザラであったという。これは、遅れが発生すると運用を戻すべくとりあえず大塚駅~文京区役所の折り返しに変更を指示していたためで、運行管理の効率化で利便性も上げるという目的もあったものと思われる。[都01]の成功を受けて交通局はかなりの力を入れており、開通前からバスの垂れ幕やPRグッズが作られ、沿線の小学生等に配布された。
 昭和61年3月3日、早朝に出発式が行われ(巻頭カラー参照)、「塚20」は「都02」に生まれ変わった。愛称は「グリーンライナー」。メインスポンサーは上野松坂屋となり、車内には松坂屋の広告が至るところにあった。専用車が28輛導入された他、当初は車輛が不足する分について一般車を格上げして都市新バス車として運行されたが、詳しくは車輛通史の項を参照されたい。
 [都02]は乗客数も伸びて、この路線も変身で成功を収めることができたと言える。平成元年度には29,012人/日と都市新バス化直前と比べ乗客数は2割弱増え、乗客数1位の系統の座にも輝いたこともあった。都電代替から始発最終時刻も大きく変わっておらず、大塚駅始発は6:00、錦糸町駅最終の大塚車庫行きは23:02と、都電時代の利便性を保っていたと言える。平成2年~9年の間は錦糸町駅周辺で北口再開発に伴って経路が大きく変更されていたが、それについては後の項を参照のこと。
 平成に入ると、路線の多くの区間で都営大江戸線の環状部の工事が始まり、渋滞が激化する。一時は大江戸線開業時には路線が分断されるとも噂されたが、平成12年12月12日の改編を、[都02]はそのままで持ちこたえた。ダイヤ改正によりラッシュ時を中心に運行されていた本所一丁目折り返しはほぼ全廃されたが、錦糸町駅までの通し運転の本数は1割強の減少程度にとどめられたのである。大江戸線改編では最も優遇された系統とも言え、それだけバス利用が根付いていたとも言えるだろう。この改正で誕生した大塚駅~春日駅の折り返し便と、同区間を急行運転する[急行02]については別項を参照のこと。
 それ以降、大塚駅~春日駅の折り返しは段階的に削減されていったが、錦糸町駅側に目を向けると平日・休日ダイヤは錦糸町までの本線の本数が一旦減ったものの徐々に増えている。また、始発・最終の時刻についても昔と変わっていない。都電時代の姿をほぼ残す系統として、現在も活躍していると言えるだろう。
 平成27年3月末からは大塚の閉所により巣鴨に移管された。同時に出入庫が大塚駅~大塚二丁目、窪町小学校(大塚車庫)~錦糸町駅に変更されたが、始発前の5時代の出庫や23時代までの運行はそのままとなった。利用が盛んなことの表れだろうか。

隅田川花火

 [都02]の方向幕に用意されている三筋二丁目行き。何とも中途半端な終点で、普段これが使われることはない。ではどのようなときに使うかというと、隅田川花火の交通規制時である。隅田川周辺の浅草橋~言問橋近辺の道路が一斉に規制となるため、橋の手前の停留所で終点となる。三筋二丁目だと規制区間までは少しばかり余裕があるが、これは折り返しのためである。三筋二丁目で回送になったバスはすぐに左折してかっぱ橋通りに入り、菊屋橋で右折して浅草通りに入る。次の浅草寿町(寿四丁目)の交差点を右折し、寿三丁目で右折して春日通りに戻る。そのため、大塚方面は寿三丁目始発となる。この時だけは、都市新バス車が浅草通りを少しだけ走る姿を眺めることができる。
 ちなみに、三筋二丁目行きは、東京マラソンの規制時にも登場する。だが、放送の設定までは作り替えておらず、東京マラソンの規制時も「本日は、隅田川花火……」という放送が流れていた。
 隅田川花火の際には、錦糸町駅側も分断運転で石原三丁目止まりとなる。隅田川までは距離があるが、ここから先が交通規制区間に入るためだろう。既に石原三丁目の停留所は規制区間に入っており、バリケードが敷かれた中、都営バスだけ特例で通行が許されており、何台か待機している姿も見られる。
 石原三丁目止まりはかつて白幕表示だったが、平成12年の大江戸線改編時に表示が整備された。途中停留所の表記もないシンプルなものとなっている。
 なお、東京マラソン開催時も分断運転となるが、こちらは本所一丁目行きとなる。折返所の章の本所一丁目も参照されたい。

地下鉄とバスの連絡とは

 平成12年の大江戸線開業時の改編では、[都02]に大塚駅~春日駅の折り返しが朝夕に新たに設定され、それに加えて、急行バス[急行02]も同じ区間で走り始めた。途中停留所は新大塚・大塚三丁目・茗荷谷駅・伝通院で、なるべく主要停留所に絞ろうとした跡がうかがえる。従来も文京区役所(現:春日駅前)止まりの設定はあったが、ダイヤ乱れ時に現れるのみで、定期便で本格的に登場するのは初めてであった。
 この設定は、大塚方から上野・蔵前方面へと[都02]に長距離乗車している乗客(あるいはその逆)が、地下鉄開業により春日駅で大江戸線に乗り換える利用に移行するを想定していたものと思われる。
しかし、わずか2年後には急行が廃止され、各停便も改正の度に春日駅折り返しの数を減らしていき、平成16年11月のダイヤ改正で平日朝に僅かに残っていた春日駅折り返しが東京ドームシティ発着に変更されて、朝3本残っているのみである。
 結局、他の都市のような乗継割引も都営では存在せず(連絡定期を除く)、乗り換え抵抗もあって、大江戸線に移行しなかったということだろう。[急行02]に至っては、各停留所に明確な乗降客の差があるわけでもなく、速達性も薄いとあっては姿を消すのも必然だったのだろう。
 バスと地下鉄の連絡。考えるのは容易いことだが、それを成功に導くにはしっかりとしたシステムと、乗り換えに意味のあるような路線網の両方が必要であることを思い知らされた歴史といえようか。

錦糸町駅の折り返し

 [都02](←[塚20])の錦糸町駅の乗り場は時代によって変遷している。代替直後は四ツ目通りの錦糸町駅ガード下に乗り場が設けられており、錦糸町駅(四ツ目通り)に到着したバスは錦糸町駅~江東車庫前を回送し、江東車庫前の切れ込みでUターンして元来た道を戻っていたと考えられる。
 昭和57年4月に(旧)北口乗り場が完成、四ツ目通りから右折して(旧)北口ターミナルに入るようになった。都市新バス化されてからは立派な発車案内つきバス停が整備されたのも思い出深い。
 ただし、平成2年には北口の再開発が始まり、北口ターミナルは閉鎖された。乗り場は再びJR総武線のガード下に移設となったが、この時は錦糸町駅に至る経路自体が変更された。蔵前橋通りを東に進んだバスは法恩寺橋を渡った先の交差点を右折して大門通り([錦13](錦糸町駅~晴海埠頭)の通る道路)に入り、右折した先に太平一丁目の停留所が移設され、大門通りを南下し、総武線のガードをくぐって京葉道路に左折して江東橋に停車、錦糸町駅(南口)のターミナルは素通りし、錦糸町駅前交差点を四ツ目通りに左折してガード下で終点となった。そのため、この時期は南口のターミナルを通る[都02]の姿も見ることができた。また、錦糸町駅行きは、太平二丁目~錦糸公園の停留所に停まらなかったため、錦糸町駅をまたいでの継続乗車が認められるとともに、現在のオリナス前にある[都02]だけが停まる太平三丁目(錦糸町駅方面)の停留所は休止の表示が架けられ、しばらくの間謎のポールとして立ち続けていた。
 平成8年には、半蔵門線の工事でガード下の乗り場が使えなくなったため、駅南口のテルミナ前、現在のタクシー乗り場付近に乗り場が移設された。[都07]をはじめ、南口発着の他系統との乗り継ぎが一番便利だった時代と言えるだろう。平成9年6月には北口の再開発が進捗し、現在の北口駅前広場が完成、 [都02]の経路も7年ぶりに元に戻った。それ以来、総武線のガードを通る都営バスも見納めとなった。
 直後には北口ロータリーの中央に鎮座する「エコー」が完成。交通広場の吸気・排気塔を利用し、「音楽都市すみだ」を象徴する作品をテーマとしてヘ音記号を2つ組み合わせた金色のオブジェで、両側から吊っているワイヤーは五線譜を表しているとのこと。「エコー」の真下は、[都02]の一時待機場所としても使われている(巻頭カラー参照)。

愛称 グリーンライナー

 昭和60年に都市新バス第二弾としてこの路線が選ばれたが、交通局は愛称を広く公募した。結果としては「グリーンライナー」が選ばれたのだが、当時の応募作の一部をご覧いただこう。特にグリーン●●という縛りを設けていなかったようだが、人の頭の柔らかさに感心する。色々な案が出てくるものだ。
 錦ちゃん、新ちゃん、葉子ちゃん、緑子ちゃん、愛される君、よこづな、あまがえる、オオキニ、エドッコバス、下町宅急便、七福神、うまやバス、湯島のしらうめ号、おった号、バスクル、タシカー、便利バス、ハッピーラッキー、ルンルンバス、延命号、つるかめ、爆走グリーン号、グリーンファントム……
 このときの応募作には「大江戸線」というものもあった。まさか、十数年の時を経て地下鉄の路線名になろうとは応募した人も思わなかったであろう。
※「都バス系統別データ集'90」より

上野地区の歩行者天国

 上野地区の歩行者天国が設定されたのは昭和47年4月からであるが、同年7月には春日通りにも拡大され、湯島三丁目(天神下)~台東四丁目(昭和通り)までの区間が通行止めとなった。そのため、[塚20]は大きく迂回することになり、大塚方からだと千代田線沿いに蔵前橋通りまで南下し末広町駅付近を経由して、昭和通りを北上する経路を通った。千代田線湯島駅そばに「上野広小路」停留所が、昭和通りの東側に[御徒町駅]停留所が移設されたが、迂回経路上に存在する他系統の停留所には一切停まらなかった。周辺道路の渋滞は激しく、場合によっては規制区間を歩いて通り抜けたほうが早かったとも言われる。
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▲歩行者天国実施中の経路 ●は通常とは異なる位置
 [都02]の都市新バス化以降、上野広小路は接近表示つきの停留所だったが、実施中は「プロムナード 実施中」の文字が反転式で表示れさ、接近案内が働かないようになっていた。
 その上野地区の歩行者天国も平成9年の12月1週目に休止されてしまい、以来復活することはなく、平成13年8月末をもって正式に廃止され、湯島駅前にあった臨時停留所も撤去された。なお、毎年7月に開催される上野まつりでは同じ区域が歩行者天国となるため、ほぼ同じ迂回方法がとられている。ただし、上野広小路・御徒町駅の移設は行われず、停車しないだけになっている。

上野地区の夜間迂回

 上野広小路でもう一点。平成4年から大江戸線環状部(都庁前~都庁前)の工事が各地で始まった。春日通りも車線規制で影響を受けたが、特に影響が大きかったのは上野広小路近辺である。夜間は工事と増えるタクシーとで、錦糸町方面が全く進まなくなってしまうこともあったようだ。 
 このため、平日錦糸町駅方面の21時以降の便については、湯島三丁目で右折し、[上58](上野松坂屋~早稲田)と同じように上野松坂屋に出ており、[上58]の松坂屋の停留所を上野広小路として使っていた。
 大江戸線の開業後も後処理や路面整備の工事があったため、この迂回は継続されたが、往時と比べるとタクシー渋滞も減り、影響は小さくなっていたと言える。工事を終えた平成14年11月限りでこの迂回も見納めとなった。
 ちなみに、上野広小路(錦糸町駅方向)のポールは[都02]の運行開始に合わせて接近表示つきの立派なものになっていたが、工事開始後は動かせるように小型のポールに変えられていた。

新大塚行きの謎

 大塚の方向幕には「新大塚~大塚車庫」という謎の短距離区間がある。わざわざ大塚駅の手前で止める理由も分からなければ、大塚車庫発着の表示しか用意していないのも分からない。唯一伝わっているのは「大塚阿波踊り用に用意された」というもの。
 ここで一枚のヒントとなる写真が右上のもの。今の[上60]の大塚駅止まりの便が走る経路で、巣鴨小学校から大塚駅前の道路に向けて走っている。昭和46年に始まった大塚阿波踊りは駅前を通行止めにして8月下旬に行われる盛大なイベントだが、この当時は、どうやら新大塚~大塚駅の長い区間が通行止めだったようだ。
合わせて考えると、[都02]は大塚三丁目から不忍通りに入り千石三丁目を左折、[上60]の通りに入って巣鴨小学校を左折、そのまま道なりに進んで[都02]の通りを突き抜け、都電とクロスした後に山手線を渡る空蝉橋付近で右折して大塚駅に向かっていた……と考えられる。この迂回方法だと新大塚にはバスが来なくなるため、救済措置として新大塚~大塚車庫をピストン運行したとも考えられるのだが、果たして真相はどうだったのだろうか。
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▲迂回時の推測経路(斜線は通行止め区間)
 現在の大塚阿波踊りでも[都02]の大塚駅周辺の道路が通行止めとなるため、新大塚の先を右折して[上60]の道路に入って大塚駅手前で終点となる。年によって異なるが、転回は大塚駅北口で行う場合もあり、この時だけは普段バスの姿を見ない北口に都営バスが現れる。
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▲現在の迂回経路(斜線は通行止め区間)

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