都営バス資料館

×草79

[草79]←[49]

担当営業所

新宿営業所

運行区間

系統 区間 距離 備考
新宿車庫~新宿駅西口~曙橋~水道橋~妻恋坂~駒形橋(←浅草雷門)~二天門 (13.356km)
新宿車庫~新宿駅西口~曙橋~水道橋

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要
49 S28. 4.24 新宿 11.586km 新宿駅西口~浅草寿町が開通
49 S29.11.15 新宿 11.211/12.998km 新宿駅西口~二天門・浅草公園に変更延長、浅草の終点部を循環状にする
49 S34.11. 1 新宿 11.311/13.098km 新宿駅付近で経路変更
49 S37. 8. 6 新宿 11.511/13.098km 新宿三丁目→厚生年金会館間を新宿二丁目経由に経路変更
49折  S40. 1. 8 新宿 2.780/ 2.580km 新宿駅西口~曙橋を開設
49 S41.12.20 新宿 13.311/14.898km 新宿車庫~西参道~新宿駅西口を延長、今までの本系統は折返しに
49 S43.11. 1 新宿 13.111/14.698km 新宿車庫~新宿駅西口を西参道経由から中央公園経由に変更?
草79  S49. 6.15 新宿 (13.655km) 新宿駅西口~厚生年金会館間を歌舞伎町(靖国通り)経由に変更
草79  S51.10. 1 新宿 (13.356km) 新宿車庫~新宿駅西口間を中央公園経由から西参道経由に変更
草79折  S51.10. 1 新宿  *** 新宿駅西口~二天門、新宿駅西口~曙橋を廃止
草79  S54.11.23 新宿  *** 新宿車庫~二天門を廃止

路線概要

atozc_344 新宿車庫と浅草を、おおむね中央線・総武線から少し離れて並行したところを結ぶ。終点の浅草は、浅草寺のを回り込むように大きなループを描いて折り返しており、行き先表示は「浅草公園」、書類上の終点は二天門となっていた。
新宿車庫を出発すると、甲州街道に出て新宿駅西口を目指す。[秋76](新宿車庫~秋葉原駅東口)は新宿郵便局を経由していたが、[草79]はそのまま直進し、角筈二丁目の停留所の先、現新宿駅ルミネの角を左折して新宿駅のロータリーに入っていた。新宿駅西口ではロータリー内の島中の7番乗り場から発車していた。
新宿駅西口を出ると、新宿大ガードをくぐり、歌舞伎町から靖国通りを走る。曙橋までは現在の[白61](新宿駅西口~練馬車庫)と同経路である。市ヶ谷自衛隊(現防衛省)の停留所を過ぎ、防衛庁の敷地を抜けるころには右手から外堀通りが合流し、お堀が見えてくる。右に曲がれば市ヶ谷駅だが、バスはそのまま外堀通りを直進し、市ヶ谷見附・新見附・牛込見附と、かつての江戸城の見張所の名を伝える停留所が続く。飯田橋で五差路を抜けて[秋76]と合流し、さらに外堀通りを進む。
小石川橋を過ぎ、後楽園遊園地が左手に見えると水道橋である。ここで一部便は終点となる。水道橋交差点を左折すると、白山通り上に[水59](巣鴨駅~一ツ橋)等が停まった後楽園停留所があるが、[草79]は少なくとも末期は停車しなかったようだ。ちなみに、水道橋の副名称は後楽園前、後楽園の副名称は水道橋と互いに交差する名を名乗っていた。
白山通りを走るのはわずかな区間だけで、壱岐坂下の交差点で右折して壱岐坂を上る。江戸時代に彦根壱岐守屋敷があったことからついた古い名で、かつての壱岐坂は東洋女子短大(現東洋大本郷キャンパス)でバス通りと斜めに交差する道路であったが、関東大震災の復興計画で幅広の道路が完成して新壱岐坂を名乗り、今ではこちらの壱岐坂がメジャーになった。停留所は、新旧壱岐坂が交差する短大の辺りに設けられていた。
坂を登ると壱岐坂上の交差点で、合流する手前に本郷二丁目の停留所があり、本郷通り上の停留所とは別に存在した。そこから右折して僅かに本郷通りを走り、蔵前橋通りに入る。この系統の単独区間でもあった。坂を下り、千代田区に入ると秋葉原電気街の外れに出る。妻恋坂の交差点を過ぎ、中央通りの銀座線の末広町駅の真上には外神田五丁目の停留所となる。かつてはバス停名も末広町だったが、住居表示の際にバス停名だけ変えられてしまった。
さらに直進して線路をくぐり、昭和通りと交差して台東区に入る。鳥越一丁目停留所は、「おかず横丁」の別名でも有名な鳥越商店街の最寄り。そして左手に鳥越神社の境内を過ぎると、蔵前一丁目で江戸通りに左折して浅草を目指す。ここからは[東42](東京駅八重洲口~南千住)としばらく並走する。駒形どぜうの古い建物を左に見て、駒形橋西詰を過ぎて左手の先に雷門が見える頃になると浅草の中心街に入る。
浅草地区では[草79]は明確な終点を持たず、大きくループ状に折り返す経路を取っていた。江戸通りから浅草松屋の建物を右に見ながら浅草松屋(現東武浅草駅)、そこから都立産業貿易会館の前を通って二天門に、次いで言問通りを左折して浅草観音裏を経由。浅草三丁目の先で再度左折して国際通りに入って公園六区を通り、浅草一丁目で左折してからはアーケードが連なる中心街に入り、雷門前を右折して浅草雷門に停車という順序で進み、その先の駒形橋で江戸通りに入り、新宿発の経路と合流していた(下図)。
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歴史

 昭和28年4月に新宿~浅草が開通した。靖国通り・外堀通り・蔵前橋通りと東西を結ぶのはルーツがなく、戦後オリジナルの路線と言える。当初は浅草側の終点は浅草寿町で、江戸通りから北上してきた後は浅草雷門を経由し、浅草寿町の操車所で折り返していたと思われる。昭和29年11月には経路が拡大し、浅草地区が大きなループになった。浅草地区を循環して折り返す系統と言えば、かつての[草64](池袋駅東口~浅草寿町)や二階建てバス(上野広小路~浅草雷門)が似たようなループを描いていたが、この時期の都営バスは大きなループ状で折り返すような系統が非常に少なかったこともあり、当時としては珍しい存在だったと言える。
 水道橋から壱岐坂経由で蔵前橋通りというのも面白いが、なるべく都電や他のバス路線通らないところを経由させようとしたのだろうか。小石川橋~末広町(外神田五丁目)は、昭和33~45年の間は[72](西新井駅~小石川橋)が並行していたが、[72]の廃止後は再び系統単独区間となっていた。
atozc_348 ▲昭和35年10月現在
 昭和49年までは新宿駅西口~曙橋のルートが靖国通り経由ではなく、新宿駅東口・追分と一旦新宿通りを経由した後、靖国通りに転じていた。新宿三丁目(現世界堂ビルの角)を左折し、新宿五丁目東の交差点(現パークシティ伊勢丹の角)を右折していたと思われる。ここに「三光町」停留所があり、他系統の靖国通り上の三光町(現新宿五丁目)とはやや離れた位置にあった。
この付近は細かい経路変更が多く、正確にはつかみ切れていないが、昭和37年8月からは新宿駅発のみ新宿通りをさらに直進して新宿二丁目で左折し、路地を北上して厚生年金会館近くに出てくるという経路だったようだ。当時のキロ程の記録の変化を見ると、新宿駅発のみ変更となっている。このときに「三光町」は今の新宿一丁目北(厚生年金会館)に移設されたようだ。当初は「三光町」を名乗っていたようだが、昭和40年の時点では厚生年金会館に改称されている。このため、厚生年金会館~花園町の停留所間隔がかなり短くなったのだろう。
atozc_349 ▲昭和43年1月現在
そして昭和49年6月に経路変更され、このときの免許記録では新宿二丁目→厚生年金会館の経路が廃止されている。このときに歌舞伎町経由に変更されたのはほぼ間違いないと思うのだが、都バスガイドブックの昭和50年版では相変わらず新宿駅東口経由であるように描かれている。誤植説も捨てきれず、この辺りの変遷には謎が残る。
atozc_351 ▲昭和51年11月現在
 新宿駅より西側に目を向けると、昭和41年12月には新宿駅西口~新宿車庫が延伸された。当時は西参道経由での延伸で、現在は[宿75出入](新宿駅西口~西参道~新宿車庫)が通る経路であった。新宿車庫発については、現在と同じく新宿郵便局経由となっていた。
 その経路が、昭和43年頃に新規ルートとなる中央公園経由に差し替えられた。現在は[宿74出入](新宿駅西口~中央公園~新宿車庫)が通る経路だが、淀橋浄水場が昭和40年3月をもって廃止され、新宿副都心として再開発が始まって道路が出来上がった時期の経路変更であり、将来の路線網拡張に備えて線を引いたとも解釈できる。しかし、なぜかこの経路は続かず、昭和49年2月の路線図では中央公園経由と西参道経由の両方に線が引かれた状態となり、昭和51年10月の経路変更で西参道経由に戻ってしまった。中央公園経由は、[宿74]の出入庫が引き続き通っていたものの路線図からは抹消されてしまい、マイナー区間として細々と残ることになる。
 この改編で、折返系統として少しばかり走っていた新宿駅西口発着が廃止され、新宿車庫発着に一本化された。また、昭和40年1月に開設された折返系統である新宿駅西口~曙橋も廃止された。曙橋には折返所はなかったので、靖国通りと外苑東通りとの立体交差の連絡路である側道を使ってUターンするように折り返していたのではと思われる。
 これ以外には折返系統として新宿車庫~水道橋という設定があった。新宿側の本数増強のために運転されていた折り返しで、水道橋到着後は白山通りを北上し、今の[都02乙](池袋駅東口~東京ドームシティ)が折り返しているように、文京区役所・東京ドームシティの周囲の道路を回っていた可能性が高い。
 新宿~浅草を一本で結べる利便性もあり、比較的多くの乗客に利用されていた。特に休日はレジャー用途の乗客で賑わっていたという。しかし、昭和50年の交通センサスの調査では7,000人/日程度とそれなりの客がいるものの、混雑率は17.2%とやや下位であった。新宿車庫から浅草まで14km程度と都区内の一般系統としては長距離路線で、収支が悪くなりやすいのもあったのだろう。そして、昭和54年の改編でそのまま全線廃止されてしまった。新宿~市ヶ谷は現在の都営新宿線とある程度並行しているが、この区間の新宿線の開業は昭和55年3月と改編の後であり、地下鉄が直接の影響というわけでもなく、廃止がややもったいない系統だったとも言える。
 市ヶ谷見附~飯田橋、壱岐坂の区間、本郷二丁目~(蔵前橋通り)~台東一丁目といった区間からはバスが消滅した。末広町駅付近は上野地区の歩行者天国時にバスの迂回路として使われたが、休止された今では年に一度の上野まつりの時に使われるのみである。
浅草側と鳥越地区の蔵前橋通りの区間のみ、代替で[東42乙](南千住~岩本町、現在の[東42乙]とは別)という系統が開通した。岩本町で都営新宿線に乗り換えるという目的で作られたのだろうが、バスで東西を一本で結べるから価値があったのであり、このような形では乗客がつかないのは明白であった。結局[東42乙]も3年後の昭和57年12月の改編で廃止されてしまい、鳥越地区のバス路線の復活は、台東区が補助を出して運行する(新)[東42乙](南千住~秋葉原駅)が秋葉原まで延伸される平成3年まで待たなければいけなかった。

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