都営バス資料館

×学04

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担当営業所

大塚営業所

運行区間

系統 区間 距離 備考
池袋駅東口~向原~大塚車庫~小石川五丁目 (4.358km)

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要
54 S26. 9.15 大塚 2.993km 池袋駅~向原~教育大学前が開通
54 S27 大塚 3.103km 一部経路変更
54 S30代後半 大塚 (4.258km) 教育大学の終点部を竹早町(小石川四丁目)・教育大学下(湯立坂下)経由のループ状とする
54 S45. 6. 8 大塚 (4.358km) 往路をサンシャイン通り経由から明治通り経由に変更、終点を小石川5に変更
54 S47.11.12 大塚 *** 系統番号を学04とする
学04  S54.11.23 大塚 *** 池袋駅東口~小石川5を廃止

路線概要

atozg_257  池袋駅東口から向原・新大塚を経由し、小石川五丁目を結ぶ「学バス」で、東京教育大学への足として設定された。
 学バスの中で、現在唯一欠番となっている[学04]。別に「四」で縁起が悪かったからというわけではなく、目的地の大学が消滅したために廃止となったものである。その名は東京教育大学であった。現在の茗荷谷駅前のそばにあり、教育・文・理・農・体育の5学部から成っていた。
atozg_258 ▲東京地方(日本交通公社、昭28)の路線図
 池袋駅東口を出ると、現在の[上60]と同じく六ツ又陸橋から向原に入り、新大塚で春日通りに合流する。そこから大塚車庫・小石川四丁目まで南下し、左折して吹上坂を下る。かつての[茶60]と同じコースだが、坂の途中で左折して隣の播磨坂の道路に転じ、旧村田女子商業(→村田女子高、平成11年に本駒込に移転)の目の前に小石川五丁目の停留所があり、ここが[学04]の終点という扱いだった。現在のB-ぐる目白台・小日向ルートの播磨坂停留所の位置とほぼ同じである。
 小石川五丁目を出て播磨坂を下ると千川通りを左折し、白山三丁目には停まらず次は湯立坂下となる。そこを左折し、東京教育大(現筑波大学東京キャンパス)の敷地に沿って坂を上がっていく。正門前に教育大学の停留所があり、ほどなくして大塚車庫前で春日通りに合流して池袋駅に戻っていた。
 なお、昭和45年までは池袋駅発のバスは六ツ又陸橋を経由せず、池袋駅東口からグリーン大通り・現在の六十階通りを経由し、電話局の脇を抜けて向原方面に合流していたようだ。現在の東急ハンズ付近に「豊島区役所前」停留所があったが、現在ではなかなか想像もつかない経路と言える。
歴史
 昭和26年9月に5番目の学バスとして開業した。東京教育大学は春日通りに至近で、既に大塚・池袋から都電が頻発していたが、丸ノ内線も開通前であり、向原を経由することでバス・都電の引かれていない地域へのアクセス改善も狙ったのかもしれない。昭和35年現在では74往復運転され、一般の半額とあって乗車効率は高めの系統だった。
atozg_256 ▲昭和38年現在
 開通当初は西巣鴨二丁目(現東池袋二丁目)・向原・大塚辻町(新大塚)・大塚窪町(大塚二丁目)のみの停車で、次が教育大学の終点となっていた。当時、既に教育大学前を名乗る停留所が千川通りにあり、[117](上板橋~東京駅北口→[東52])が通っていたが、路線距離からしてもその位置が終点だったとは思えず、春日通りの大塚車庫から100メートルほど入った大学正門前が終点だったと見て間違いないだろう。当時はそのまま正門前で折り返していたのだろう。なぜか不忍通りの交差点である大塚仲町(大塚三丁目)を通過していたのが面白い。
 昭和30年代前半に池袋一丁目(豊島区役所)、西巣鴨一丁目(東池袋三丁目)・大塚車庫の停留所が増設され、昭和30年代後半には正門前の折り返しが不可能になったためか、吹上坂・播磨坂を回る循環状のルートとなった。昭和38年の路線一覧では、「池袋駅東口~教育大学」「池袋駅東口~竹早町(循環)」の2系統が記載され、従来のと循環系統と双方が運転されていたのだろうか。このときに千川通り側の「教育大学前」も[54]が通ることになったため、そちらは「教育大学下」に改称された。なお、昭和43年頃に都電代替に伴い春日通り上の大塚車庫の隣にも「教育大学前」停留所が増設された。路線図によって異なるため判然としないのだが、[54]も昭和46年頃には春日通上の教育大学前に停車するようになった。しかし、その次の小日向四丁目にはついに停まらないままであった。
 さて、東京教育大学は昭和24年に東京高等師範学校・東京文理科大学・東京農業教育専門学校・東京体育専門学校の4つを統合して開いた大学であった。そのため、キャンパスの位置は大塚、駒場、さらに体育学部は幡ヶ谷に存在した。国立大学の中では最も敷地が狭い大学(当時)ということもあり、統一キャンパスを作るのは大学の悲願でもあったらしい。そのような中で、昭和40年代に入ると筑波研究学園都市構想に乗って筑波への移転が持ち上がった。しかし世の中は大学紛争の盛んな時代であり、学内紛争の大きな火種となった。ロックアウトやストライキが長期に亙って行われ、昭和44年度の入学試験は体育学部を除いて中止され、講義も長期間休止した。
 これも昭和44年末には収束に向かい、以後、筑波への移行準備が本格化、昭和48年に筑波大学が開学。昭和49年には最後の東京教育大学学部学生の入学式が行われ、昭和53年3月に東京教育大学は閉学した。同時に都営のバス停も教育大学→茗荷谷駅、教育大学下→湯立坂下に改称されたが、大学の正門前に建つ「茗荷谷駅」の停留所は見慣れない姿だったようだ。[54]→[学04]は系統の目的を失い、昭和54年11月の改編で廃止された。なお、池袋駅~新大塚の廃止区間については[上60]が跡を継いで経路変更している。

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