都営バス資料館

都08

[都08]←[里23]←[23]

担当営業所

南千住営業所

運行区間・運行回数

系統・枝番 起点、経由地、終点           備考 キロ程(往/復) 平日 土曜 休日
都08 日暮里駅~下谷警察署~東武浅草駅~本所吾妻橋~錦糸町駅 7.180km 100 103 84 86 73 74
都08出入-1 東武浅草駅~本所吾妻橋~錦糸町駅 3.240km 3 2 2 1 1
都08出入-2 日暮里駅~下谷警察署 1.720km 11 16 7 8 5 7
都08出入-3 本所吾妻橋→錦糸町駅 2.600km 1 1 1


現在

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要               
23 S22. 4.21 新谷町  *** 浅草寿町~錦糸町駅が開通
23 S22. 9.20 新谷町  *** 厩橋経由から押上経由に変更
23 S22.12. 1 新谷町  *** 上野広小路~錦糸町駅に変更
23 S23. 8. 1 新谷町 5.528km 錦糸町~鴬谷駅に変更
23 S24. 6. 1 新谷町 6.461km 鶯谷駅~日暮里駅を延長
23 S24.12. 1 新谷町 6.463km 調査により路線長修正
23 S26. 3.10 新谷町 6.855km 千束一丁目(現西浅草三丁目)~日暮里駅を鶯谷駅経由から竜泉経由に変更
23 S26 新谷町 6.950km キロ程変更
里23 S47.11.12 新谷町 *** 新系統番号化、里23とする
里23 S50.12.21 南千住 *** 新谷町営業所の移転改称により南千住へ移管
里23 S57. 4.17 南千住 6.780km 錦糸町駅の乗り場を南口から北口ターミナルに変更
都08 H 2ごろ 南千住 *** 工事に伴い、乗り場を北口ターミナルから総武線ガード下に変更
都08 H 6. 1.18 南千住 6.780km 都市新バス化、都08とする。愛称はグリーンリバー
都08 H 8. 6. 1 南千住 6.980km 錦糸町駅の乗り場をガード下から南口(楽天地向かい)に変更
都08 H 9. 6. 1 南千住 7.180km 錦糸町駅北口バスターミナルの工事完了により再び北口に変更
都08折 H16.10. 1 南千住 *** 日暮里駅→浅草雷門を開設
都08折 H24. 4. 1 南千住 *** 日暮里駅→浅草雷門を廃止
都08急行 H24. 4. 1 南千住 6.949km 日暮里駅~とうきょうスカイツリー駅~錦糸町駅(急行)を開設、土休のみ
都08急行 H27. 3.30 南千住 *** 日暮里駅~とうきょうスカイツリー駅~錦糸町駅(急行)を廃止
都08折返-2 H30. 4. 1 南千住 3.940km 日暮里駅~東武浅草駅の設定廃止
都08 R 1.10. 1 南千住 *** 英字系統名を追加(都08…T08)

路線概要

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 日暮里駅~錦糸町駅を浅草経由で斜めに結ぶ。都市新バス「グリーンリバー」の愛称あり。繁華街や東京スカイツリーの前を通ることもあり、昼間や土曜休日も乗客が多い。
 都営バスで最後の「都市新バス」システム導入系統となった[都08]。浅草やスカイツリー近くを通り観光色・行楽色も強く、それまでの都市新バスとはまた雰囲気が異なる路線である。
 日暮里駅を出発したバスは、桜並木の日暮里中央通りを走る。道の両脇には繊維・布関係を取り扱う店が下根岸付近まで並んでいる。戦前、浅草方面で営業していた古繊維、栽落業者が浅草エリアの市街化で日暮里付近へ集団移住し、他の繊維業者も日暮里界隈に店を構えるようになり、今日の繊維街にまで発展したといわれる。海外からも訪れる客もおり、週末となれば生地を買い求める人でごった返すこともある。またジーンズで有名なEDWINは実は日本の企業で下根岸停留所そばに本社と直営店を構えており、時期によってはセールがあることも。
 繊維街を抜け、昭和通りと交差した後に下谷警察署前。警察署は昭和通り沿い、交差点の北側にあり停留所からは幾分か離れている。入庫便の行き先でもあり、夜間はここ止まりが連続して走ることも。竜泉で右折して国際通りを南下し、浅草方面へと向かう。酉の市で有名な鷲神社は次の千束が最寄りで、毎年酉の市の季節になると熊手を手にした乗客をよく見かける。
 国際通りを走るのは少しだけで、西浅草三丁目交差点を左折して言問通りを入り東へ進む。ちょうど浅草観音様の裏側から回り込むように馬道交差点を右折、都立産業貿易会館(建て替え工事中)前の二天門、そして東武浅草駅前に到着する。停留所は浅草松屋 の目の前にあり、昼間はここで乗客の約半数が入れ替わることが多い。
 新たな乗客を迎えたバスは、東武浅草駅を背後に左折して隅田川に架かる吾妻橋を渡る。歩道上から、東京スカイツリーと、その手前の「アレ」とを絡めて写真撮影する人が多いが、バス車内から東京スカイツリーは意外と見えないものだ。
 橋を渡るとリバーピア吾妻橋前。リバーピア吾妻橋は旧アサヒビール吾妻橋工場跡地に立てられた高層ビル群の総称で、アサヒビール本社及び関連施設、墨田区役所、UR住宅が建っている。その中でひときわ目立つのは、アサヒビール本社隣のスーパードライホールの屋上にある「アレ」である。筋斗雲のような金色のオブジェはフランス人芸術家フィリップ・スタルクがデザインした「炎のオブジェ」で、「躍進するアサヒビールの心」を象徴しているそうな。当初は縦に立ったデザインの予定だったらしいが、実現性の都合上横倒しになったり、午後になると西日を浴びて黄金色に光っていても決して……ではない。ビル竣工は平成元年のこと。「アレ」も25年の歴史を経てなお存在感はなお衰えていないということである。
 さて、バスは浅草通りを東へ進み、本所吾妻橋停留所を過ぎると、とうきょうスカイツリー駅入口。以前は業平橋と名乗っていたが、平成24年に駅名に合わせ改称された。とは言っても、商店街は東京スカイツリーが完成しても以前と変わらずといった感じか。スカイツリーの目の前ではあるが、あまりにも近すぎてバスの車窓からはツリーをうかがうことは難しい。
 押上で右折し三ツ目通りを南下する。地下鉄半蔵門線と平行するこの区間だが、駅間が長いことや押上駅と錦糸町駅の駅改札口の場所も関係しているのか、開通以前と比べて利用客はそんなに減っていないようにも思える。精工舎工場跡地に建てられた商業施設オリナスと錦糸公園を左手に見て、三ツ目通りから北斎通りへと曲がると、バスは終点の錦糸町駅前に到着である。
 この[都08]には、近年開業した兄弟系統こと[都08急行]が存在する。そちらも紹介しておこう。
 錦糸町駅を出発したバスは[都08]の、とうきょうスカイツリー駅入口まで同経路をたどる。途中停留所を通過するため、道路の内側車線を流れに乗るように快走、時折先行する[都08]を追い抜くことも。業平一丁目交差点を[都08急行]は右折して言問通りへ。東武橋を渡るととうきょうスカイツリー駅前停留所。ここで乗客の多くが入れ替わる。
言問橋を渡り、馬道交差点で再び[都08]と合流し、奥浅草停留所に停車。花やしき遊園地や浅草公園六区には最寄りであるが、浅草寺に近い浅草二丁目ではなく、ここを停車停留所にチョイスしたのはいまいちよく分からない。が、それなりに乗降がある。
 奥浅草を出ると、次は終点の日暮里駅前である。この先も[都08]と同じ経路をたっておらず、むしろ [上26]と同じ経路といった方が適切だろうか。朝顔市で有名な入谷鬼子母神の前を通り、鶯谷駅前で[上26]と別れ、尾竹橋通り、そして根岸小学校前交差点から尾久橋通りへとを進んでいく。この尾久橋通り区間は、現在この[都08急行]だけが走る単独区間となっているのも見逃せない。左手にホテルラングウッドが見えてくると、日暮里中央通りへと左折して日暮里駅前に到着である。

歴史

 日暮里駅と錦糸町駅を短絡して結ぶというよりは、浅草を通る環状方向の系統と言うことができるだろう。戦前にルーツを求めるならば、[26](日暮里駅~龍泉寺~公園六区~雷門~押上~平井橋~平井駅)だろう。昭和12年に雷門~平井駅として開業し、昭和14年に日暮里駅まで延伸された。竜泉~浅草が国際通り経由だったり平井駅発着だったりというところは現在と異なるが、コンセプトとしては似ている。この系統は昭和17年の交通調整時に平井駅~小松川を延伸したもの、昭和18年6月の改編で浅草~平井駅に短縮され、昭和20年に廃止された。
 戦後の復活は早く、昭和22年4月のことで浅草寿町~錦糸町駅を結び、[23]系統を名乗った。このときは浅草通り経由ではなく、厩橋から春日通り(本所四丁目・横川三丁目)経由となった。意図は不明だが、既に戦災から復旧していた浅草通りの都電(雷門~柳島)とは違う経路で復旧したのだろうか。もっとも、半年後の9月には駒形橋・押上経由に変更した。戦前は浅草~押上~錦糸町駅を結ぶ系統はなかったので、この部分は戦後オリジナルと言える。なお、平井橋を経由して平井駅に至る部分は昭和23年10月に[25](同潤会~浅草寿町)で復活している。
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▲昭和23年8月の改編前(上)と後(下)、[11][23]系統
 その後も路線の試行錯誤が続き、同年12月には浅草寿町~上野広小路まで延伸。まるで現在の[S-1]だが、昭和23年8月にはさらに変更し、吾妻橋から浅草松屋・馬道・言問通り経由で鶯谷駅を終点とした。同時に[11](西新井橋~浅草寿町→[草41])は馬道・浅草松屋経由から現在と同じ国際通りに変更し、通らなくなる部分を引き継いだ(図)。鶯谷駅はどこで折り返していたのか不明だが、上野駅方面は既に都電が走っているため、差別化の意味もあったのだろう。
 昭和24年6月には鶯谷駅から日暮里駅まで延伸されたが、当初は尾久橋通りも存在せず、尾竹橋通りの東日暮里四丁目南交差点から竹台高校南側の狭い道路を通って日暮里駅前に抜けていた。現在は一方通行の大型バスが通るとはとても信じられない道だが、さすがに狭すぎたこともあり、さらに新たな需要も見込んで、昭和26年3月に千束から竜泉・日暮里二丁目(現東日暮里三丁目)経由に変更した。これで現在の経路が完成した。路線変更申請当時の運転計画を見ると70~90回/日運転となっており、それなりの本数は確保されていたようだ。
 これ以後は路線の形が完成したこともあり、停留所増設があった程度で路線の基本形は全く変わっていない。錦糸町駅の乗り場が何回か移転した程度であろう。当初は北口にターミナルがないため総武線のガードをくぐって南口に乗り入れていた。少なくとも昭和40年以降は現在の[都07](錦糸町駅~門前仲町)の乗り場という一等地からの発車だったが、昭和57年4月に北口に小さな乗り場が作られたため移転し、平成2年に北口の再開発により総武線ガード下に乗り場を移転し、平成8年6月には一時的に南口のテルミナ前に再び乗り入れ、そして平成9年6月に現在の北口ターミナルが完成して今の形となった。
 地下鉄の影響も大きく受けず、沿線に複数の繁華街を抱えるこの系統は、乗客数も客の入れ替わりも多く、採算も良い系統であった。本数も120回前後は確保されていた。その中で、8番目の都市新バスに選ばれることになり、ハイグレードな専用車やバスロケーションシステム等の運行管理が導入された[都08]として平成6年1月に生まれ変わった。愛称はグリーンリバーで、途中で渡る隅田川をイメージした愛称となった。
 これ以降も特に路線の変化はない。平成15年の半蔵門線延伸(水天宮前~押上)で錦糸町~押上が並行し、多少の減便や車両の中型ロング化が進むなどの影響はあったものの、近年の沿線のスカイツリー開業などで再び乗客を伸ばしているのか、増便傾向となっている。特に昼間~夕方は混雑気味な系統と言える。
 平成24年4月には3年間の試験運行で[都08急行]が運転を開始した(後述)。下町を結ぶ系統として活躍が続きそうだ。

都市新バスの証?

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 都営バスの都市新バスには系統ごとに愛称が与えられる。[都08]は公募で「グリーンリバー」に決定した。隅田川にちなんだもので、ヘッドマークも隅田川を渡る橋とカモメらしき鳥を図案化したものが各車に掲出された。初期は他の都市新バスと同じく、他系統に出る際はヘッドマーク・愛称にカバーをしていた(下写真)が、比較的早期にこの姿は珍しくなったようだ。車によってはシールが剥げ、橋の部分がなくなっていたものも……。
 また、2006年度には初代の専用車が引退したが、既に都市新バス専用車を入れる時代ではなく、代替で入った一般車ノンステップは板サボに「グリーンリバー」を表示するのみとなり、ヘッドマークを掲出することはなくなってしまった。そこからしばらくしてサボの掲出も行われなくなり、[都08]という系統番号と方向幕の地色が色地であること都市新バスの外観の名残となっている。
 他営業所であれば、出発時の車内放送は「本日は、都営バス グリーンシャトルをご利用いただき~」のように愛称が入るところが、[都08]は「毎度、都営バスをご利用いただき~」と一般系統と変わらなくなっている。2011年度にはヘッドマーク・愛称が揃っていたE代ノンステップが除籍され、現在は揃った車は存在しなくなっている。

都08急行

平成24年4月に3年間の試験運行として運行を開始した。東京スカイツリーへの日暮里駅と錦糸町駅からのアクセス向上を目的とし、経路も既存の[都08]のルートに拘らず最短距離で結ぶべく、東武浅草駅前すら無視して日暮里駅~とうきょうスカイツリー駅までをショートカットし、停車停留所も日暮里駅・奥浅草・とうきょうスカイツリー駅・押上・錦糸町駅のみとなっている。
 一部の停留所にしか停まらないことを示すためか、方向幕は黄色地のものが用意され、原則として方向幕車の日野HRが運用に入る。さらに車体各面や運賃箱には「急行」を示すステッカーを貼りつけるという念の入りようだ。
短縮効果は絶大で、普通だと錦糸町駅~押上が所定で30分程度かかるところが18分と半分近くで済んでいる。もっとも、1日4往復のダイヤは、運行開始1年後も減らさずまた増やさずという状態で推移している。試験運行が継続するかは利用者の定着具合にもよるだろうが、残念ながら3年の試験期間満了とともに平成27年3月で廃止された。

出入庫と浅草雷門止まり

 通常の[都08]の出入庫は日暮里駅~下谷警察署がメインで、僅かに錦糸町駅~東武浅草駅があり、それ以外には早朝の出庫で東武浅草駅→日暮里駅、本所吾妻橋→錦糸町駅が運転される程度である。いずれも本線から外れるところまで営業というのは共通で、下谷警察署からは三ノ輪・明治通り経由で回送となる。日暮里駅側からは東武浅草駅まで行くと大回りになるということだろう。
 しかし、出入庫の多様化とともに、あえて浅草まで行くような設定も存在する。例えば、[里22]の入庫は、従来は日暮里駅から[里22]として車庫に入庫するのが普通だったが、平成16年10月より、[里22]で日暮里駅到着後に[都08]の浅草雷門止まりとして運転し、雷門からは[東42乙]の雷門始発南千住行きとして運行する、という設定が誕生した。[東42乙]の本数確保のために行ったようだ。
 浅草雷門行きはこの運行のために新たに設定され、東武浅草駅から本線と別れ、吾妻橋西詰を右折して雷門前の通りで終点となり、そのまま[東42乙]に化ける。
なお、逆方向は浅草雷門→東武浅草駅を回送して東武浅草駅からの営業となっている。後に浅草雷門行きの設定はなくなったが、現在でも平日ダイヤの朝ラッシュ時には[東42乙]→東武浅草駅→[都08]本線という運用が残っている。
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竜泉止まり?

 平成18年春の方向幕全交換で、[都08]に日暮里駅→竜泉という表示が誕生した。道路規制時の行き先として作られたということだが、実際は隅田川花火であれば浅草三丁目(/奥浅草)行きとなり、他でも迂回するくらいで途中止まりとなることはまずないため、一度も実戦で使われることがないまま平成24年にその表示の部分だけ抹消されて白くなった。何のために用意したのか分からないまま幻となってしまった。

東武浅草&浅草松屋

 松屋浅草店は浅草随一の百貨店である。昭和お年に東武鉄道が隅田川を渡り、浅草雷門近くまで延伸されることに伴い、テナントとして開店した。終端駅を内部に抱え込んだ構造であり、戦災にも遭わず、改装されてはいるが今もなお開業時の姿を留めている。近年になって開業当時の姿を復元したネオ・ルネサンス様式の外観が復元され、屋上の大時計も復活した(巻頭カラーの[東42甲]参照)。
 浅草松屋は南千住に向かう江戸通りと、吉原大門に向かう馬道通りが合流する三角洲のような土地にあった。ただし、当初は浅草松屋の前に停留所は設けられず、それよりも少し南側の吾妻橋交差点に「吾妻橋西詰」停留所が設けられた。松屋前に設けられたのは、それよりも後の昭和10年代の話である。ただしこのときの停留所の名称は「東武浅草駅」で、駅名が優先されたようだ。それとは別に、馬道通りの北側、二天門寄りに「松屋裏」停留所もあったため、一応松屋の名を冠した停留所は存在した。
 その後、戦災に伴い路線網が縮小する中で一旦都電に吸収される形で停留所は廃止されるのだが、面白いのは戦後の復旧時である。最初に停留所が復旧したのは、昭和23年8月に[23]が開業したときであるが、戦前のように吾妻橋交差点に停留所は設けられず、馬道通りの松屋前に停留所が設けられ、「浅草松屋」と名乗った。江戸通り側も昭和27年2月の[39](吾嬬西九丁目~浅草寿町)の開業で復旧したが、こちらの名称も浅草松屋である。しかし、昭和30年6月になぜか「東武浅草駅」と改名された。その方が分かりやすいと判断されたのか、改名理由は不明である。
 その後30年、この位置の停留所名は東武浅草駅であり続けたが、昭和61年頃に再び停留所名が「浅草松屋」に改称され、副名称が東武浅草駅となった。方向幕も同時に変更され、浅草松屋(東武浅草駅)となった。他とは異なり、名称が揺れ動いたのが面白い。
 そしてまた、平成19年4月から「東武浅草駅」に停留所名が戻った。スポンサー契約が切れたためのようだが、変更のたびに案内一式が変わることを考えるとどちらかに固定すれば良いのにとも思う。またいつか、浅草松屋に戻る日は来るだろうか。
 なお、昭和48年まで東武バスも浅草に乗り入れており、松屋前で折り返しを行っていたが、こちらも「浅草駅」だった。東武の名はつけるまでもないということか。また、江戸通りを走っていた都電は、停留所が吾妻橋の交差点近くにだけあったため、浅草(戦前は吾妻橋西詰)という名称だった。
 

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