都営バス資料館

×東55

[東55][都電代替]←[105]

担当営業所

志村営業所

運行区間

系統 区間 距離 備考
東55 都営志村車庫~大和町~西巣鴨~巣鴨駅~東大農学部~御茶ノ水駅~東京駅北口 15.218km
巣鴨駅~東大農学部~御茶ノ水駅~東京駅北口 6.748km
代替 都営志村車庫~大和町~西巣鴨~巣鴨駅 8.470km

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要
105 S22. 6.25 滝野川 14.932km 志村(志村橋→現志村車庫?)~巣鴨駅~東京駅北口が開通、国際と相互乗り入れ
105 S24 大塚 14.932km 大塚へ移管
105 S25. 4.15 大塚 23.950km 浦和駅~県庁前~蕨駅前~戸田橋~志村橋を延長
105 S26 大塚 24.568km キロ程修正?
105折  S32. 1.16 大塚 21.650km 志村橋~東京駅北口の折返しを、蕨操車場~東京駅北口~日本橋~築地5に延長
105 S34. 5.27 (志村) *** 大塚営業所志村分車庫の開設により移管
105 S37.12.15 (志村) 24.568km 東京駅北口、丸の内1付近で経路変更
都電代替 S41. 5.29 (志村) 8.470km 都電41系統(志村橋~巣鴨車庫)の代替で志村車庫~巣鴨駅を開設
都電代替 S41. 5.29 (志村) 2.770km 同上、板橋駅通り~巣鴨駅を開設
都電代替 S41. 5.29 (志村) 5.700km 同上、志村車庫~板橋駅通りを開設
都電代替 S41. 5.29 (志村) 4.400km 同上、巣鴨駅~板橋本町を開設
105 S41. 5.29 (志村) 20.518km 折返しと統合、蕨操車場~巣鴨駅~東京駅北口に短縮
都電代替 S44. 1. 1 (志村) *** 都営6号線の開業により代替4系統を全て廃止
105折2  S44. 1. 1 志村 13.500km 都営志村車庫~一ツ橋を開設
105 S44. 9.15 志村 15.218km 蕨操車場~戸田橋~都営志村車庫を短縮
東55  S47.11.12 志村 *** 新系統番号化、東55とする
東55  S53.11. 1 志村 *** 都営志村車庫~東京駅北口を廃止

路線概要

azn_2043  東京駅北口から中山道経由で志村車庫を結んでいた。国際興業との共同運行で最盛期は蕨・浦和まで達した長距離路線だった。
 東京駅北口を出ると[東50][東52]と同じように丸の内一丁目から大手町・気象庁を通り、気象庁前の交差点から北上して神田錦町、駿河台下を通る。ここからは[東43]と同様に坂を上がり御茶ノ水駅に到着。外堀通りに入るとすぐに右折し、順天堂病院を見ながら本郷通りに合流する。
ここからは国道17号をひたすら進むことになる。本郷三丁目で春日通りと交差し東京大学のキャンパスを右手に北上、農学部正門前で左折、本郷通りから少し入ったところに農学部の停留所があった。白山上の交差点で旧白山通りと合流し、巣鴨駅で山手線をオーバーパス。新庚申塚で都電とクロスし、西巣鴨で明治通りと交差すると[草63]とは別れ、単独区間に入る。滝野川出張所を過ぎて板橋駅通りで板橋区に入る。三田線新板橋駅の最寄りだが、特に停留所名は合わせなかったようだ。板橋駅から来た[東52]と合流し、板橋区役所で道路が緩くカーブし、山手通りや首都高5号線と合流して大和町で環七と交差する。
ここで[東52]と別れさらに直進、水町の先で首都高が左に逸れ、志村坂上から緩やかに坂を下り、新河岸川手前の志村車庫でゴールとなる。
 

路線の歴史

 昭和22年6月、郊外と都心を結ぶ相互乗り入れ系統第一期生として、東都乗合とともに[105]東京駅~志村橋が開業した。 [東50]の欄も参照のこと。免許の切れ目は巣鴨駅とされ、巣鴨駅~志村橋は東都のエリアという扱いだった。開通当初は東大農学部~白山上が西片経由と本郷通り経由の2通りあったようだが、向きによる経路の違いだろうか。早期に西片経由に統一されたようである。また、開業当初はかなりの急行運転を行っており、御茶ノ水駅を出ると本郷三丁目・東大正門・白山上・駕籠町(現・千石一丁目)・巣鴨駅の順に停車という調子だったが、都電代替の頃になると経路上の停留所にほぼ全て停車するようになった。
 当初は滝野川所管だったが、昭和24年度内に大塚に移管。そして昭和25年には一気に浦和駅まで延伸する。志村橋を渡り、そのまま中山道を直進して上戸田稲荷、法華田、東野台を進み、県庁前で右折して浦和駅西口を終点とするもので、24kmもの長大系統になった。申請文書には、浦和市長や沿道の通勤者より都営バス乗り入れの要望があったことが記されている。当初から浦和駅乗り入れを検討していたようだが、燃料や資材も満足でなく見送っていた経緯がある。当時既に東都乗合が浦和駅~志村坂上(都電終点)、笹目~板橋駅の2系統を運行しており、それに代わる直通運行として計画された。2者合わせて東京駅~志村橋で90~110往復を運行していたうち、30往復程度を浦和駅に延伸する計画となった。
 昭和32年には要望に応える形で志村橋折返し便が蕨・浦和市境近くの蕨操車場まで延伸されるとともに、都心側も築地五丁目まで延伸され、蕨操車場~築地五丁目という折り返し系統となった。中山道沿線は京浜東北線から離れており、都心に直接出られるルートとして重宝されたのだろう。東京駅北口からは再度永代通りに出て、日本橋を経由し茅場町を右折、新大橋通りを南下して築地五丁目を終点とした。現在の築地市場正門付近に設けられたが、折り返し方法は定かではない。日本橋・兜町・八丁堀などビジネス街や商業地区への直通を模索したのか、[117](→[東52])の日比谷発着に似たものを感じ、面白い設定だ。なお、浦和駅発着系統は東京駅発着のままだった。
 昭和34年の志村分車庫開業に伴いさっそく移管された。昭和35年現在の乗降調査では築地~蕨が50往復弱、浦和駅発着は10往復程度となっている(それぞれ都営のみ)。東京駅を乗り通す乗客が8割以上おり、日本橋や入船町でまとまった乗降があったので、効果は

あったのだろう。逆に志村車庫以遠の埼玉県内は本数の割に利用が低調だった。
 昭和30年6月には志村橋まで都電が延伸され、都内の大部分で都電と並行するようになったが、都電41系統は志村橋~巣鴨駅の運転で、都営バスは巣鴨駅で6割程度の客が乗り通しているため、目的に応じて棲み分けていたものと思われる。
 昭和41年5月に大きな動きが起こる。地下鉄6号線(三田線)の建設のため都電18・41系統が一足先に廃止されることとなり、代替バスとして巣鴨駅~志村橋のほか巣鴨駅~板橋駅通り、板橋駅通り~志村車庫、巣鴨駅~板橋本町の折り返し系統が開通した。[105]の区間便とも取れるが、いずれも無番系統という扱いだった。当時の事業概要等の資料には運転期日として「5月29日から6号線開通時まで」という注釈があり、臨時系統のような扱いで開通したためかもしれないが、系統番号がないというのは珍しい。
 これに多くのバスを振り分けるため浦和駅・築地五丁目発着便は全廃され、蕨操車場~東京駅北口の運行に短縮された。
 これらの都電代替系統は昭和43年12月の6号線の志村(現・高島平)~巣鴨の開業を契機に全廃された。書類上の廃止日は昭和44年の元旦だが、正確にいつまで走っていたのかは定かではない。
 一方で、まだ地下鉄のない巣鴨駅以南に直通する[105折]志村車庫~巣鴨駅~一ツ橋が新設された。都電代替で[535]巣鴨駅~浜松町駅 (→[水59])が頻発していたが、これと同様に白山上で本線と分岐し、旧白山通りを南下して文京区役所・水道橋駅・神保町を経由する設定だった。右の路線図でも東洋大学の南で105系統の線が二股に分かれている様子が見える。
 [105折]の廃止時期は定かではない。昭和46年6月の路線図までは姿が見えるが、それ以降の路線図には登場して折らず、6号線は昭和47年6月に日比谷まで延伸開業しているので、遅くともその時期までだろう。
 さて、[105]本線は昭和44年9月に蕨操車場~志村車庫を短縮し埼玉県から撤退、さらに6号線日比谷延伸で沿線から都心への足としての役目はほぼ終了したといえ、昭和53年11月に全線廃止された。ちなみに国際単独でも[巣31](巣鴨駅~西台駅)という設定があったが、こちらは昭和48年頃に廃止されている。
 板橋区役所~志村橋は現在でも国際興業の[池20](池袋駅西口~高島平駅)がそれなりの本数走っているが、戸田橋以北は縮小が進んだ。蕨操車場からの撤退後は、[志11](志村坂上~蕨操車場)・[池22/23](池袋駅北口~蕨操車場・ス浦和駅)が運行を続けていたが、[志11][池22/23]は昭和48年に廃止し、[浦20](浦和駅西口~戸田橋~高島平操車場)となった。それも昭和60年の埼京線開業とともに浦和駅西口~戸田公園駅に短縮し、南側は[蕨56](蕨駅西口~高島平操車場)となったがいずれも平成2年頃に全廃され、今は[浦19](浦和駅西口~蕨駅西口)が残るのみ。これ以外にも[蕨52](蕨操車場~高島平操車場)があったが、昭和50年に[戸81](戸田車庫~高島平操車場)となり、昭和61年に廃止されている。これらの廃止で戸田橋を渡る一般系統はなくなり、今は深夜に[赤72](赤羽駅西口→戸田公園駅)が渡るのみとなっている。

臨時西巣鴨

 昭和40年代中頃の路線図頃より現れていた謎の停留所である。都心方面のみの停車で、西巣鴨と巣鴨四丁目の間にあった。これを考えるに、元々の西巣鴨停留所が交差点の板橋寄りにあり、現在の巣鴨方面が停まる巣鴨寄りが「臨時西巣鴨」だったのだろう。二回停車で何らかの便宜を図ったのだろうか。路線図からは無視されてしまっていたが、廃止間際まで車内掲示の路線図には「都営西巣鴨駅」の名で出ており、2回停車が続いていたようだ。

学バスの先祖

 昭和24年6月1日に[105折]という名義で東京駅降車口~東大農学部が開通した。これは御茶ノ水~東大の学バス開設に時間がかかっていた模様で、先行して混雑緩和のため東大への通学対策として運行することになったものである。7月1日の御茶ノ水駅・上野駅~東大の学バス開通により廃止されたため僅か1ヶ月の命だったが、学バスのご先祖様と言えるだろう。

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