都営バス資料館

端44

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担当営業所

千住営業所

運行区間・運行回数

系統・枝番 起点、経由地、終点           備考 キロ程(往/復) 平日 土曜 休日
端44 北千住駅~千住桜木~熊野前~田端駅~駒込病院 6.895km 60 64 55 57 51 54


現在

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要               
4 S26.3.1 滝野川 3.100km 田端駅~熊野前が開通
4 S27.4.20 滝野川 5.295km 熊野前~西新井橋(現千住桜木?)を延長
4 S32.8.20 滝野川 7.945km 駒込病院~田端駅~熊野前~北千住駅通に延長
4 S36.5.25 滝野川 8.145km 北千住駅通~北千住駅を延長
4 S42.8.21 滝野川 6.895km 田端新町~田端駅を田端新町2・3経由から田端新町経由に変更
4 S47.7.2 (南千住) *** 南千住分車庫の開設により南千住に移管
端44  S47.11.12 (南千住) *** 新系統番号化、端44とする
端44  S50.5.5 千住 *** 南千住分車庫の廃止により千住に移管

路線概要

 
 北千住駅から足立区の南側・荒川区を東西に結び、田端駅でJRに接続して山手線の内側に入り、駒込病院で終点となる。定期で途中折返し・始発は特に設定されていない。
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本郷台地の上にある駒込病院を出発すると動坂を下り不忍通りとの交差点を抜け田端駅前へ。[東43]とともに病院とJR駅とのアクセスバスとしての利用も多く見られる。新幹線の高架をくぐり左手にJR東日本東京支社の建物が見えてくると、T字路に突き当たり、[端44]は右折し陸橋へのアプローチ坂道を下っていく。途中右手に富士急行の高速バス待機場が見える。フジエクスプレスの芝浦車庫が車両数増加で夜間滞泊できるスペースが少なくなったこと等から、新たに高速バスの待機所として富士急行が用地を確保し、東京駅・新宿駅発着の高速バス待機場所として使うようになった。
坂を下ると左折して東田端一丁目停留所。駒込病院停留所の標高は21.2mだが、地理院地図データによれば東田端一丁目停留所の標高は4.4m。実に17mも下ってきたことになる。
田端新町一丁目の交差点を左折し尾久橋通りへ入ると、頭上は日暮里舎人ライナーの高架。ここから熊野前までは並行区間となる。北へ進み、前方に都電の線路が見えてくると熊野前停留所。この先の熊野前交差点を右折し片側1車線の旭電化通りを東へ進む。
通り名はかつて工場があったことにちなむが、詳細は後の項で。首都大学荒川キャンパスや都立尾久が原公園を左に見て進んでいく。熊野前の辺りが輸送の谷間で、この辺りから北千住駅へ向かう客が乗ってくるようになる。千代田線の町屋駅までは微妙に距離があり、便利な足として使われているということだろう。
町屋三丁目停留所の先、荒木田交差点を左折し尾竹橋通りへ。北千住駅へは交差点の直進方向にあるのだが、隅田川に橋が架かっていないため、遠回りをして北千住へ向かう。
道路名の由来でもある尾竹橋で隅田川を渡るが、この尾竹橋は昭和9年に架けられたもので、それまでは300m程下流に渡し船が運行していた。
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足立区に入り、千住桜木町交差点を右折。ここからは西新井から来る東武バスとも合流し、本数は多くなる。墨堤通りを千住竜田町交差点まで走って左折し、約1km程直進すると終点の北千住駅前に到着である。丸井の前にある停留所で客扱いを行うが、千住車庫へ入庫する便は[北47]の停留所で降車扱いを行うこともある。余談だが、北千住駅前の標高は0.4m。ということは[端44]の高低差は20.8mとなかなかの高低差だ。

路線の歴史

 この系統の祖先となったのは、田端駅から熊野前に至る区間である。熊野前には王子電軌(→都電荒川線)が早くから通っていたがバス便はなく、明治通り上に路線を伸ばした王子環状乗合(東京環状乗合)が昭和8年に田端新町二丁目~熊野前、昭和9年に田端新町三丁目~田端駅の枝線を開通したのが始まりである。昭和13年に王子電軌に合併され、昭和17年に陸上交通調整による統合で東京市の運行となった。統合当初は田端駅側は休止状態で、熊野前~下尾久(現・田端新町一丁目)~三ノ輪~吉原大門~雷門という設定だった。浅草指向が強かったということか。
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 その後は再編の際に組み替えが続き、昭和18年6月は[20]熊野前~雷門~吾嬬西九丁目と向島方面の系統に合体し、昭和19年5月の再編では浅草で分割、熊野前を切り捨てて休止していた田端駅に発着するようになり、[20]田端駅~三ノ輪~吉原大門~浅草寿町となったものの、東京大空襲でそのまま休廃止となった。
 戦後の復活はやや遅く、昭和26年3月になってからだった。[4]田端駅~熊野前の区間で再開となった。既に荒川土手~田端駅方面を結ぶ[17](→[東43])は開通していたが、それとは別の沿線から手近な国電駅に出る需要を拾う設定になったのだろう。所管は滝野川だった。系統番号は[4]。シングルナンバーだが終戦後すぐからの歴史があるわけではなく、偶然空き番号になっていたのを使った形になった。
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 昭和27年4月にはさっそく熊野前から尾久電化通り沿いに西新井橋(現・千住桜木)まで延長される。延伸の免許申請の書類によれば、沿線に旭電化(現ADEKA)や都営住宅があり人口が密集、戦災を免れた地域で新たな交通機関の要望もあったとのことだ。運行計画では延伸前の40~55回/日に比べて80回程度と増発され、需要に対応すべく増強された。
 昭和30年の乗降調査では66.5往復/日で5,700人/日、特に田端駅発は1日の平均乗車効率が72%。全日平均でならしても1便40人乗車するという盛況ぶりだった。 
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 このときは千住桜木に向けて降りる一方の駅-郊外型輸送だったが、昭和32年8月には両端を延伸して、駒込病院~田端駅~千住桜木~北千住駅通となる。駒込病院へは田端駅から坂を下りて上ってとなり、そう遠くないが需要が見込めることや折り返しの拠点にもなるということだろう。北千住駅へは既に東武バスを中心に色々な路線が開設されていたが、都営バスでは初の乗り入れとなった。駅前が手狭だったこともあり、乗り入れられなかった事情もあるのだろうか。昭和36年5月に200m延伸して北千住駅が終点となった。
 昭和40年の乗降調査では実に17,500人/日と現在の[都01]すらしのぐ混雑ぶりで、田端駅・千住桜木町で多少の折り返しの設定があったが、全線通しで120往復程度運転され、両端ともに混雑するという効率のいい系統だった(左下)。
 これで路線の形としては完成したのか、以来50年以上基本的に変化はない。田端駅~田端新町一丁目が当初は[東43]と同じく田端新町三丁目を大回りしていたのが、昭和42年に現在と同じショートカット経由に改められた程度である。所管は昭和47年7月の千住営業所の南千住分車庫開設時にそこの所管となり、昭和50年5月に千住本体に吸収された際も千住担当のままとなった。
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 ただし時代が経つにつれて、乗客は流出していった。まず昭和44年に千代田線の北千住~大手町開業で町屋駅が開業。それでも昭和50年度に11,486人/日あった乗客数は運賃値上げ等もあり、昭和55年度には9,000人/日を、60年度には7,500人/日を割り込む。この時点ではかつての名残もあって平日112往復、土曜・休日も100往復程度と多く運転されていたが、営業係数は昭和54年度の91から62年度には112へとやや悪化していた。まず乗客の少ない土曜・休日の削減が進み、平成初期の時点で休日は72往復程度になった。その後は小康状態となるが、平成15年、16年の改正でいずれの曜日も2割程度削減されている。
 平成20年3月の舎人ライナー開業では、熊野前・赤土小学校に駅ができて山手線の駅まで直通するようになったが、この改正では平日・土曜が少々削られた程度で済み、その後も現在に至るまで本数を維持している。既に地下鉄や自転車等に逸走する乗客はしており、舎人ライナーとそこまで需要がバッティングしなかったのかもしれない。
 平成27年度の乗客数は5,708人/日、営業係数は98と中堅どころとしてまずまずの成績を確保している。今後も地味に存在感を発揮する系統として走り続けそうだ。

早い低床化

 [端44]は初の超低床の指定系統となった[草43]の影に隠れつつ、都営バス全体で見ても低床化が早く進んだ系統であった。平成4年春にはX代の超低床リフト車の導入で2輛が[端44]用に導入され、平成11年春にはE代のノンステップ導入で[端44]にもノンステップ車が入るようになり、低床車の比率が上がった。
 平成14年の改正では半数が低床車になり、平成15年3月のダイヤ改正で全便がノンステップ・リフト車指定となった。K代の新車で多く入った中型ロングのMKが[端44]に集中投入されたのも大きいだろう。病院発着系統で、優先的にバリアフリーにすべき系統ということもあったのだろうか。
 一時期は多くの運用でMKが見られたが、詰め込みの効かない車種ということもあり、平成18年からは[草41]に少しずつシフト。平成20年にはほとんど運用から撤退し、再び大型に統一されている。

熊野前止まり

 [端44]には「駒込病院→熊野前」の表示が用意されている。方向幕時代は本線の表示の間に用意されていたため、終点で表示を切り替える際に必ず見ることができた。
 ダイヤ乱れ用に用意されたと言われているが、筆者は少なくとも実例を見たことがない。北千住駅側がどうしようもなくなったとき用で、そのまま尾久橋通りを直進して折り返し、'90年代までは稀に使われることもあったようだ。一応現在においてもLED表示が用意されているが、使われたことはない。
往復の不均衡
 運転回数を見ると、北千住駅発と駒込病院発で随分と差があるが、これは両方の始発時刻を揃えているため。都営バスの伝統的なダイヤでは、双方から6:30始発というのが標準である。その時刻に間に合うように駒込病院には回送で送り込むため、今の平日ダイヤで見ると、北千住駅を出た始発の[端44]は折り返し5便目の駒込病院発となる。手前に回送出庫が4回分あるということだ。平成5年のダイヤでは、土曜夕方にも駒込病院回送があったようだ。
 夜のほうは、最終まで駒込病院行きはそのまま営業で北千住駅行きで折り返す。そのため北千住駅の最終は21:36とやや早い。早朝に倣えば、もう少し遅くまで駒込病院行きを走らせて復路は回送でも良さそうなものだが……。

おかもちダイヤ

運行回数が多かった平成15年までのダイヤを見ると(、11時台だけ15~17分と運転間隔が空いていた。朝ラッシュに本数が集中しているため、それらの運行をこなした車が10時台から順次休憩(食入)に入るため、代わりの車も少ないためエアポケットのような時間帯になってしまうためである。
駒込病院で休憩する車が多いため、それらの運転手用の弁当をまとめて運ぶ弁当ダイヤ(おかもちダイヤ)も存在している。こういった弁当ダイヤは今でも各車庫に点在しているようだ。
現在は昼間の本数が減ったためそこまでは目立たないが、確かに平日11~12時台は他より間隔が広がっている。乗務員は所定の運転時間を走ったら休憩しなければならないことや、車庫と休憩場所が正反対というのもなかなか調整が難しい要因なのかもしれない。

尾久電化通り

[端44]が通る熊野前から町屋三丁目までの一直線の道は、別名「旭電化通り」。現在も商店街の名前に残っている。大正6年に旭電化工業が隅田川沿いに尾久工場を設立、近隣でも最大の化学工場だった。通りの名はこれに由来する。
 事業拡大のため郊外に移転することになり、工場は昭和50年代に東京都が買収、跡地はまず昭和61年開学の3年制の都立医療技術短期大学と広場が、次いで広広場を整備して平成5年に都立尾久の原公園が、また平成11年には下水道局の東尾久浄化センターが設置された。短大は平成10年には大学に改組、平成17年には首都大学東京に移管されている。
 この目の前の停留所も何回も改名を繰り返しており、昭和31年7月の開設時は「荒川児童相談所」だったが、昭和34年頃に荒川税務署、37年頃に尾久電化通りに改称。この名がしばらく続いたが、昭和61年に都立医療技術短大に、平成10年3月に都立保健科学大学に、平成17年4月に首都大荒川キャンパスとなって、ようやく落ち着いた。
 旭電化工業は平成18年に社名をADEKAに改めた。本社は工場跡地の一角にあり、研究所を併設。プラスチック添加剤・工業薬品や樹脂製品などの化学品部門と、マーガリンや加工食品といった食品部門が二本柱。

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