担当営業所
港南支所
運行区間・運行回数
系統・枝番 | 起点、経由地、終点 | 備考 | キロ程(往/復) | 平日 | 土曜 | 休日 | |||
→ | ← | → | ← | → | ← | ||||
都03折返-4 | 東京駅丸の内北口~日比谷~四谷駅 | 5.160km | 4 | 4 |
現在
年表
系統 | 年月日 | 営業所 | 距離 | 概要 |
511 | S43. 2.25 | 杉並 | 11.487km | 都電11(新宿駅~月島8)の代替で新宿駅西口~晴海埠頭が開通 |
511 | S46. 3.18 | 杉並 | 11.357km | 一部経路変更? |
銀71 | S47.11.12 | 杉並 | *** | 新番号化、銀71とする |
銀71 | S52. 3.31 | 杉並 | 11.487km | 区間キロ程修正に伴う変更 |
銀71折 | S52.12.16 | 杉並 | 8.083km | 四谷駅~晴海埠頭を開設 |
銀71折 | S60頃 | 杉並 | *** | 東京駅南口~晴海埠頭を開設 |
銀71折 | S63. 3.21 | 杉並 | *** | 東京駅南口~晴海埠頭を廃止 |
都03 | S63. 3.21 | 杉並 | 11.487km | 都市新バス化、系統番号を都03とする。愛称はグリーンアローズ。 |
都03 | H 3. 5.23 | 杉並 | 11.587km | 晴海埠頭ターミナルの新設により経路延長 |
都03 | H12.12.12 | 深川 | 8.470km | 新宿駅西口~四谷駅を短縮、深川に移管 |
都03 | H22. 4. 1 | 深川 | *** | ホテルマリナーズコート東京~晴海埠頭の経路をほっとプラザはるみ経由に変更 |
都03 | H24. 4. 1 | 港南 | *** | 港南に移管、運行をはとバスに委託 |
都03 | H30.12.25 | 港南 | 8.490km | 晴海埠頭の一部経路変更 |
都03折返-2 | R 3. 6. 1 | 港南 | 8.490km | ホテルマリナーズコート東京~銀座4~日比谷~四谷駅を設定、オリパラ期間中運転 |
都03折返-4 | R 4. 4. 1 | 港南 | 5.160km | 東京駅北口~日比谷~四谷駅を開設 |
都03 | R 4.10. 7 | 港南 | ほっとプラザはるみ~晴海埠頭の経路変更 |
路線概要
都電11系統の代替系統で、晴海埠頭と四谷駅を結ぶ。平成12年の大江戸線改編までは、四谷駅から先、さらに新宿駅西口までを結んでいた。
晴海埠頭の先端部分、普段は人気が少なく静かな客船ターミナルの脇にあるバスターミナルからバスは出発する。通りに出ると次の角を左折し、すぐに右折して埠頭の中央を貫く道路に入る。かつて、平成8年まで晴海見本市会場があったときのメインストリートの部分である。今は跡地の一部に中央区の清掃工場と廃熱を利用した区の運動施設であるほっとプラザはるみが完成し、目の前には「ほっとプラザはるみ」のバス停もできた。
そのままバスは直進し、晴海三丁目の角で左折して晴海通りに入る。右手に見える晴海トリトンスクエアの高層建築を筆頭に、最近は住宅街・オフィス街として発展は進んでおり、乗客が急に増え始める。運河を渡り、勝どき駅の交差点を直進する。かつての勝どき二丁目、都電時代の一時期の終点だった月島通八丁目であるが、都電の終点時代とは大きく変わった地域の一つと言えるだろう。
勝鬨(かちどき)橋を渡り、築地・銀座の目抜き通りを直進する。勝鬨橋は橋が開く跳開橋としても有名であったが、船舶の通行量の減少とともに昭和45年を最後に開かなくなった。西詰には、変電所を改装した「橋の資料館」がある。その先の築地六丁目は築地市場まではすぐであり、放送でも「築地市場前」の副名称が入る。
松竹・東劇を過ぎ、建て替え中の歌舞伎座を右手に見ると、三越の前で銀座四丁目に停まる。銀座の中心部であり乗り降りが非常に多い。ここまでは[都05](東京駅南口~晴海埠頭)と完全に並行しており、本数の多い[都05]に交じって細々と走っている感が強い。
次の数寄屋橋からは[都05]と分かれて単独区間に入る。停留所は東京高速道路の下と有楽町マリオンの前にあり、JR有楽町駅も近い。JRのガードをくぐり日比谷交差点を過ぎると、お濠端と官公庁街へと風景が一変する法務省旧本館の歴史ある建物を過ぎると「警視庁前」停留所となる。有楽町線の桜田門駅の真上だが、警視庁を停留所の名としているのが面白い。
国会前交差点の正面の坂道の向こうに国会議事堂がちらりと見えるが、バスはそのまま桜田濠に沿って坂道を登る。皇居の緑が映え、都バスでも有数の景色の良い区間と言える。この区間が「三宅坂」で、国立劇場付近にあった田原藩三宅備前守の屋敷にちなむ名である。坂を登り、三宅坂の交差点を右に折れ最高裁判所と国立劇場を左に見たところで三宅坂の停留所となる。 [宿75](新宿駅西口~三宅坂)の起終点でもある。
ここからすぐのTOKYO FMの社屋先、半蔵門で左折し新宿通りに入る。半蔵門は皇居に通じる門の一つであり、伊賀者の統率者、忍者としても有名な服部半蔵の屋敷から命名されたが、常に固く閉ざされている。停留所もこまめに設置されるようになり、麹町のオフィス街を通り抜けて行く。
麹町六丁目を過ぎ、イグナチオ教会の建物が左手に見えてくると終点は間近、駅前を右折して駅裏手で終点となる。かつては様々な系統で賑わったこの乗り場も、今は[都03]がひっそりと発着するだけとなってしまった。なお、四谷駅発については、駅舎を回り込むように一周し、新宿通り上の「四谷駅前」にも別途停車する。
平成12年までは四谷駅から新宿駅西口まで達していた。そのまま四谷見附橋を渡って新宿通りを直進し、四谷三丁目・新宿一丁目・新宿二丁目と新宿通りを直進し、世界堂ビルのところで右折して新宿五丁目から靖国通りに入り歌舞伎町を経由し、新宿駅西口のバスターミナルを終点としていた。
今の[品97](品川駅~新宿駅西口)が休日に通る経路と同じである。なお、夜のみ新宿三丁目→新宿駅西口について、新宿通りをそのまま直進する「追分廻り」も存在したが、そちらは後の項で記すことにしよう。新宿駅西口~杉並車庫(一部は堀ノ内)の間も出入庫で営業していた。
歴史
新宿から四谷・日比谷・築地方面へと向かうルートは、都バス・都電事業の創業期から存在する。
市電は時代によって終点が異なり、例えば大正8年末では新宿~半蔵門~築地~水天宮~両国~須田町~半蔵門~新宿というループ系統だった。大正11年には新宿~築地~両国に短縮され、昭和初期には築地で分割されて新宿~築地となってからは区間が固定され、昭和10年代以降は市電(都電)11系統を名乗った。戦争末期の昭和20年5月の空襲による運行休止時もいち早く復旧し、戦後の昭和21年5月には築地~勝鬨橋(西詰)の1区間を、そして昭和22年12月に勝鬨橋上に線路が引かれ月島通八丁目(現勝どき駅)まで延長された。昭和24年には、新宿駅側の線路とターミナルを新宿通りから靖国通り上に付け替えられている。
昭和30年の乗降客調査では単独系統で乗降客数10万人を超えており、運行回数も角筈~銀座で360回を超えるなど、都電の中でも一、二を争う幹線系統だった。
昭和30年代には、例外系統として月島通八丁目から月島を北上し門前仲町まで達する運行がごく僅かではあるが存在した。昭和36年4月には本系統の区間が新佃島(現月島駅)まで延伸されており、廃止時までこの区間で運行を行った。
そして、市電(都電)に並行して、バスも市バス創業期から同じような区間を走っていた。ただし、バスは新宿から日比谷・数寄屋橋の手前まで来た後、東京駅丸の内方面に折れ、昭和6年以降は日本橋・水天宮を経由して浜町中ノ橋まで足を延ばしており、市電でカバーできない区域との連絡も狙っていたのだろう。また、東京乗合自動車(→東京地下鉄道、通称青バス)が郊外の青梅街道方面から新宿駅を経由して築地・東京駅方面に路線を走らせており、市電・市バスと競合状態だった。
昭和17年の市内交通一元化で、青バスの系統も含めて市バスが運行することになったが、戦中の物資不足で市電と並行する区間は運転を急速に縮小していき、昭和18年6月には新宿駅~勝鬨橋西詰の1系統のみとなり、昭和19年5月には新宿駅~銀座四丁目に短縮され、昭和19年9月末で廃止となった。
戦後昭和21年にバス路線も復活するものの、都電と並行することもあり、長大系統の走る区間の一部や出入庫としての存在だった。この部分については、新宿の[3](東京駅~新宿駅)の項、また本巻の[東75]の項も参照のこと。
都電は昭和43年2月に廃止され、代替バス[511]が運行を開始した。新佃島を終点としていた都電にはほかに9系統(→[509]→[銀86])もあったが、代替バスは、[509]が豊海水産埠頭を終点にしたのに対し、[511]は晴海通りをさらに直進し、晴海埠頭を終点とした。所管は杉並となった。このときは[304](清水操車所~晴海埠頭、[東75]の項を参照)が残っていたこともあり、[304]の折り返し系統のような存在であった。終点が晴海埠頭となったのは、[304]と足並みを揃えるという意味合いがあったのだろう。
代替直後の昭和43年のデータを見ると、運行回数は78回、乗降客は9,714人と、廃止直前でも200回は運行され、乗降人員50,000人弱はあった都電の代替とは思えないほど少ない。これは、並行する[300][304]の本数があり、乗客が分散していたためと思われる。
しかし、新たな系統番号で[銀71]となる前後からは重要性が増していく。昭和45年には[304]が廃止され、昭和52年に[300]→[東75]が新宿駅西口~東京駅南口を短縮した後は、新宿駅から銀座・晴海通り方面に向かうのは[銀71]だけとなった。この当時の交通局の方針として、少数の系統に集約させるという方針があったためだろう。[銀71]はこの区間の主幹系統として勢いを伸ばしていく。昭和50年度の交通センサスでは21,807人/日の乗車人員で全系統中9位、その後も乗客数を堅持し、昭和55年度からは乗降客数トップテン系統の常連であった。
昭和63年には都電9系統代替の末裔[銀16](東京駅南口~豊海水産埠頭)、新規開通の[都05]東京駅南口~晴海埠頭とともに、まとめて第三弾の都市新バス化がなされた。愛称は「グリーンアローズ」である。なお、[都05]のみ昭和63年6月と少々遅れての実施だったため、当初は[都03][都04]の2系統のみであった。
▲開業時のチラシ
晴海通りを並走する3系統と、毛利元就の「三本の矢」の故事を引っ掛けた命名である。[銀71]は新たに[都03]を名乗り、イメージカラーは方向幕色でもある青色となった。バスロケーションシステムも本格的に導入され、渋滞の多い道路を通る系統の大きな助けとなった。
記念式典や花バス、沿線の小学校の児童が廃車になるバスに思い思いに描いたイラストバスなど、都営バスでも一大イベントであった。次ページに開業当時のパンフレットを示す。この「グリーンアローズ」は、開業後の昭和63年度・平成元年度の路線図(都バスガイドブック・都バス路線案内)の表紙にも使われ、当時の交通局の新しい顔であったことも感じられる。
都市新バス化により、乗降客数は昭和61年度の16,200人から翌年度の17,900人/日と増加を見せており、一定の成果を挙げたと言えるだろう。その後も[都03]は平成7年度までは乗降客は18,000人程度と安定していた。とものの、収支という観点では少しの赤字だった。長距離を乗り通す乗客が多かったことに加え、杉並車庫が路線の片方の端の新宿駅からさらに離れていたこと、夜間・休日等を中心に片方向輸送であったことが要因と思われる。例えば、新宿駅発の夕方の本数のピークは15時台と早かった。折り返し晴海発16~17時台の本数を確保するためだろうが、杉並とは反対側の車庫(深川など)とラッシュ時や早朝深夜を中心に共管とするなど、効率化の手法はいくつかあったように思われる。
路線については開通当初から基本的に変更がなく、晴海埠頭の先端近くにあった旧船客待合所の終点が廃止され、新たな客船ターミナルが平成3年に開業し
たことで、そこに乗り入れるようになった程度である。
それでも、晴海にあった見本市会場への輸送機関の主力の一つであり、イベント時には晴海から多数の乗客を満載して走る姿も多く見られたが、平成8年3月の晴海見本市会場の閉鎖は[都03]の大きな転機になったと言える。乗降客数は平成6年度の18,000人/日から平成8年度は12,800人/日へと3割も減少し、収支の面でも悪化したと考えられる。
平成11年1月のダイヤ改正では、全日で総本数が2割ほど削減された。さらに、平成12年の大江戸線の改編で四谷駅までに短縮されてしまった。
四谷駅~新宿駅西口は丸ノ内線と並行しているというのが短縮の理由とされたが、短縮により一気に本数が削減され、以降は本数減と乗客減という没落の歴史をたどっていった。
四谷駅への短縮の時点で本数は半数近くにまで減少、7ヶ月後のダイヤ改正でさらに減回されてしまった。この時点で平成11年以前の水準の1/3だが、その後も減便は続き、平成15年・17年・19年の春の改正でも削減された。特に土曜・休日の落ち込みは激しく、現在では終日1時間に1本程度という有様である。
短縮前は新宿方面から乗り通す乗客が多く、四谷が輸送の谷ではなかったということ、そして短縮されたバス路線に四谷で地下鉄から乗り換えてくれるような乗客は僅かだったことの証左でもあるのだろう。地下鉄並行という観点では、昭和30年代から並行している区間でもあり、平成12年当時にはバスと地下鉄との棲み分けも成立していたと思われる。大江戸線全通に伴い人員を地下鉄に振り分ける都合もあったのかもしれないが、一連の改編の中でも疑問符の付く短縮であった。
四谷駅短縮以後は深川に全便移管された。都市新バス車のうち多くが杉並から深川に移籍し、変わらぬ顔ぶれで走り始めたが、じきに深川の一般車も運用に入り始めて、様々な車が運用に入るようになった。
その後、一時はグリーンアローズ [都03]~[都05]の全てが深川所管となったこともあったが、平成24年4月からは港南に移管された。都市新市バスでは初のはとバスへの運行委託で、立場の低下を感じさせる出来事であった。車庫から沿線までは深川よりも距離があるが、それでも委託をすることで、さらに効率化が可能ということなのだろう。現在でも平日朝夕は通勤客の姿がそこそこ見られるが、昔の栄光の面影は少ない。銀座~晴海埠頭の区間も、沿線の人口増加により[都05]が本数を増やしていく中で、[都03]は合間にたまに走るだけであり、晴海通りではレアキャラとも言える存在である。新宿への再延長はもはや困難だろうが、もし短縮していなかったならば、果たして今はどうだっただろうか……と考えてしまう。
角筈
都電代替時、代替バスの停留所もなるべく都電と合わせるよう、不足箇所については代替時に増設が図られた。角筈(つのはず)停留所もその一つで、都電終点(歌舞伎町)の先、新宿区役所の入口あたりに設けられた。しかし、交差点近くに停留所が設けられる都電と異なり、バスは交差点から幾分離れた位置に停留所ができる場合もある。ここでも、次の四谷三光町(現新宿五丁目)は交差点よりもかなり新宿駅寄りにあり、双方から100mも離れていない位置に停留所があったことになる。
この路線図は昭和44年6月現在のものであるが、新宿駅西口を左右に走る新宿通りの多数の線の上側に、「角筈」に停まる一本線があるが、これが[511]である。同じく靖国通りを走る[74]は、都電終点(現歌舞伎町)の次が三光町(現新宿五丁目)となっていることが分かるだろう。このように、他の一般系統には無視され、交通局の事業概要の年報の新設停留所の欄からも無視されていた。角筈停留所はわずかに昭和44年の路線図にその存在を確認できるのみで、翌年の都電12系統(→[秋72])代替時にはもうその姿は確認できないことから、すぐに廃止されてしまったものと思われる。まさに「幻の停留所」にふさわしいと言える。
追分廻り
新宿地区の夜の渋滞は昔からかなりのもので、日本随一の歓楽街・歌舞伎町に面する靖国通りが夜ともなると詰まって進めなくなってしまうこともあった。それを回避するために登場したのが通称「追分廻り」である。新宿二丁目→新宿駅西口の間も新宿通りをそのまま直進し、新宿駅東口停留所を経由するというものである。該当区間を21時以降に通過する便は、全便この扱いとなっていた。新宿三丁目は本線停留所には停まらず、新宿通り上の停留所に停車していた。なお、この措置は新宿駅西口行きのみの取り扱いだった。
通常の迂回だと、新宿通り経由の系統が歩行者天国で靖国通りに迂回するパターンだが、逆も存在したのが面白い。方向幕は通常と同じもので、放送のみ変更されていた。車内路線図にも記載されていた時代もあり、割とポピュラーな迂回でもあった。昭和50年代前半の路線図から既に記載があり(下図)、路線のかなり初期からこの設定があったことがうかがえる。「追分廻り」という表現も面白い。新宿駅東口のほうがメジャーに思えるが、このバス停名のほうが分かりやすかったということだろうか。
同じく都電代替系統である[秋72](後の項を参照)も都電を引き継いで靖国通り経由だったため、[銀71]→[都03]と同様の迂回を行っていた。
東京駅南口発着
▲昭和61年頃の時刻表
昭和60年頃より、[銀71]の折返として晴海埠頭~東京駅南口という路線が開設された。特筆すべきはダイヤ乱れ時用の設定だったというところである。勝どき・日比谷・四谷・新宿と渋滞しやすいポイントを走り、都営バスの中では比較的長距離を走るため、[銀71]はダイヤが乱れることが多かった。晴海埠頭側で操車を行っていたため、晴海埠頭の到着が遅れたり、渋滞が既に発生していて新宿駅西口を1往復すると大幅に遅れたりする場合は、晴海埠頭にいた操車係の指示で四谷駅にて折り返すことになっていたが、さらに短距離の調整用として設けられたものである。当時は[都05](東京駅南口~晴海埠頭)は存在せず、同じような区間で晴海見本市会場への臨時バス([晴02]晴海会場~東京駅南口)は走っていたが、東京駅と晴海埠頭を結ぶ一般路線は初めてであった。
もっとも、定期の本数はほとんど設定されず、ダイヤが乱れたときや、晴海見本市会場でのイベント時に活躍する程度であった。グリーンアローズ化直前のダイヤでは定期の本数は平日土曜の数回のみで、間隔もランダムであり、全体の運行本数の調整で挿入された折り返しという側面もありそうだ。配布の路線図には一切掲載されておらず、知る人ぞ知る存在だったと言える。
昭和62年3月の都市新バス化後は、東京駅南口行きは定期便では消滅したが、方向幕は[都03]表示で用意されていた(巻頭カラー参照)。臨時便で使うことを想定していたと思われるが、ほどなくして[都05]に表示が取り替えられたため、杉並の[都03]東京駅南口の表示は正に幻と言える。同年6月には[都05]が深川担当で開通し、多数運行されるようになった。
しかし、杉並の都市新バス車にも[都05]の表示は入っていた。これはイベント時やダイヤ乱れを想定していたものだが、他営業所の応援用の表示が入っているというのは都営バスでは珍しい。
ダイヤ乱れのときの杉並による[都05]での運行は続いたものの、原則として東京駅南口到着後は回送で晴海まで戻るようになっていた。
杉並が全体の運用数調整で公式に[都05]を担当するようになるのが平成5年3月のときで、ようやく杉並の路線図にも東京駅南口~晴海埠頭が載るようになったのである。