都営バス資料館

上23

[上23]←[平23乙](←分割[草32])

担当営業所

青戸支所

運行区間・運行回数

系統・枝番 起点、経由地、終点           備考 キロ程(往/復) 平日 土曜 休日
上23折返-2 上野松坂屋→浅草寿町→墨田区役所→東墨田2 7.323km 1 1 1
上23折返-3 平井駅~平井7~平井操車所 2.630km 16 21 11 13 11 10
上23出入 平井駅~八広~四ツ木橋~青戸車庫 6.342km 10 4 10 6 12 10
上23-1 平井駅~八広2~十間橋~(墨田区役所→)浅草寿町~上野松坂屋 11.273/10.913km 35 35 38 38 41 41
上23折返-1 八広2→十間橋→墨田区役所→浅草寿町→上野松坂屋 6.883km 1 1 1


現在

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要               
平23乙 S50.8.8 江戸川 8.090/5.100km 草32を分割、平井駅~八広2~押上駅が開通
平23乙 S50.11.14 江戸川 8.090/5.100km 平井駅付近で蔵前橋通りを経由するように一部経路変更
平23乙 S52.3.26 江戸川 11.606/9.406km 押上駅~両国駅を延長
平23乙 S53.11.1 青戸 11.606/9.406km 青戸支所に移管
平23乙 H2.11.5 青戸 12.233/9.433km 平井駅~十間橋~上野松坂屋に変更延長
平23乙折 H4.7.21 青戸 6.328/5.908km 新四ツ木橋~(墨田区役所→)浅草寿町を開設
平23乙折 H13.11.30 青戸 *** 新四ツ木橋~(墨田区役所→)浅草寿町を廃止
上23 H13.11.30 青戸 10.913km 東墨田1~八広2間の経路を往復とも都道449号経由に変更、上23とする
上23折 H13.11.30 青戸 *** 平井駅~押上駅~浅草寿町を開設
上23 H15.4.1 青戸 平23の平井駅~平井操車所短縮に伴い、平井駅~平井操車所を開設
上23 H17.6.1 青戸 10.353km 橋の架け替えにより東墨田3~平井7北公園の経路をゆりの木橋通りに変更
上23出入 H18.4.1 青戸 *** 平井駅~八広~四ツ木橋~青戸車庫を開設
上23 H19.4.1 青戸 10.713/10.353km 全便とも上野方面は墨田区役所を経由するよう変更、浅草寿町~押上駅~平井駅の折返便を上野松坂屋~浅草寿町を延長
上23折 H19.4.1 青戸 *** 平井駅~押上駅~浅草寿町を上野松坂屋に延長
上23 H20.4.1 青戸 11.273/10.913km 東墨田3~平井7北公園を中平井橋経由に再び経路変更
上23 H24.4.1 青戸 11.878/11.518km 押上駅経由便について、押上駅(交通広場)に乗り入れるように変更
上23折 H24.4.1 青戸 *** 上野松坂屋~押上駅(交通広場)を開設
上23折 H25.4.1 青戸 *** 上野松坂屋~押上駅(交通広場)を廃止
上23 H28.4.1 青戸 *** 上野松坂屋~押上駅~平井駅を廃止、全便十間橋経由に統一
上23-1 H31. 4. 1 青戸 11.273/10.913km 平井駅ロータリー付近の経路変更

路線概要

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 上野松坂屋から平井駅まで、台東区・墨田区を東西に横断する。全線通しの運転が基本となるが、一部便は押上~十間橋通りで十間橋でなく押上駅交通広場を経由し、方向幕が橙色地となる。また、全便浅草・上野方面は墨田区役所を経由する。また、平井駅~平井操車所の枝系統や、出入庫として平井駅~青戸車庫が運転されるなど、バリエーションは豊かである。
平井駅を出発したバスは、蔵前橋通りへ出ていったん小岩方向へと進み、平井大橋西詰交差点を左折、ゆりの木橋通り(都道449号線)に入るのもつかの間、次の信号(平井小学校前)を右折し、かろうじてセンターラインが引かれた幅の狭い道へと入ってゆく。バスは平井七丁目エリアを蹄鉄(ていてつ)のようにぐるりと一周するように走るが、かつてはバスが通れる道はこれしかなかった。ゆりのき橋通りがこのエリアで開通したのは平成19年と最近のことである。道は狭いが、都営アパートに加え、近年は工場跡地にマンション建設がなされており乗降はこまめにある。
本線の系統は平井七丁目第三アパート前停留所の手前で右折し中平井橋を渡るが、平井操車場発着の便はこのまま直進する。ライオン平井事業所を右手に数百メートル進むと平井操車場停留所に到着。ここから先ほどの平井小学校前までは目と鼻の距離であり、民間事業者なら小型サイズのクルマを導入して平井駅~平井七丁目(循環)という系統にするのかもしれないと妄想が膨らむ。
さて、本線系統の方だが、旧中川にかかる中平井橋を渡ると、八広二丁目交差点までは、わずか400メートルほどの距離である。実際、かつては平井駅方向に限りこの道を直進していた。浅草・上野方向は木下川方面を大回りしていたのだが、その辺の話は歴史の項で触れるとしよう。ということで、中平井橋西を渡ったバスは西詰を右折し、旧中川堤防下の通りをぐるりと廻り、佐川急便の手前から再びゆりのき橋通りへ、東墨田会館停留所の先で中居堀通りへと左折する。なお、青戸車庫発着の出入庫便は直進するので、わずか80mほどではあるが出入庫系統のみが走行する区間があるため乗りつぶし派の方は要注意。
この中居堀通りのすぐ隣の通りは[錦37]が走っている八広はなみずき通りで、2本の通りの間は30mも離れていない。経路を統一しても良さそうなものだが、何か事情でもあったのだろうか。
中居堀通りの八広二丁目交差点の手前で、上野方向のバスのみ斜め前方に右折して一方通行の細い路地をわずかに走り、八広はなみずき通り(十間橋通り)に合流する。中居堀通りの八広二丁目交差点が時間帯右折禁止のためである。
八広二丁目停留所から先は[錦37]と同じ経路をたどっていく。明治通りとの交差点である中居堀を過ぎ、東武亀戸線の踏切を通過し、文花地区へと進んでいく。
文花地域は、明治通りと十間橋通り、北十間川に囲まれた五角形のエリアである。変わった地名だが、元々は吾嬬町西と吾嬬町東という地名で、昭和41年5月の住居表示変更に伴いこの名になった。案がまとまらず、「文教施設が集中していること、旧町名の由来となった吾嬬神社の主祭神オトタチバナ姫の名に、文化の花を開く」として命名された。域内の区立文花中学校には夜間学級が設置されており、山田洋次監督の映画「学校」の舞台となったところでもある。
十間橋通りをしばらく走り、十間橋通り交差点から押上交差点までの間は便により経路が異なる区間である。メインは直進して十間橋を渡り、十間橋交差点から浅草通りを西へ進むルートであるが、押上駅経由の便は[錦37]と同様右折し、押上一丁目を左折し、押上駅のロータリーにも一旦入って、押上交差点に至ルートとなっている。
東京スカイツリーの足下をバスは西へ進み、本所吾
妻橋停留所の先の五叉路を浅草方向へと斜め前方に右折…ではなく、墨堤通りへと直角に右折する、これは墨田区役所へのアクセスを目的としたもので、以前は一部便のみが区役所経由となっていた。平日であれば都営浅草駅を経て東京駅へ向かう常磐道高速バスとも多くすれ違う区間である。
墨田区役所の建物をぐるりと一周するように走り、吾妻橋東詰交差点を右折し、吾妻橋を渡ると浅草雷門である。このままバスは雷門通りを直進し雷門一丁目交差点を左折すると浅草寿町。地下鉄銀座線の田原町駅前でもある。
ここから先は再び浅草通りを走り上野方面へと向かう。地下鉄銀座線と完全に並行している区間だが、浅草以遠からの乗客は地下鉄に流れる様子がない。そして浅草寿町から上野松坂屋間は[上23]以外にも[上46]や[S-1]等もあり本数も多く、この区間だけの利用客も思いの外多い。上野駅前を過ぎ中央通りを少し走ると終点の上野松坂屋に到着である。総武線平井駅から浅草を経て上野方面と直線距離で考えるとそんなに遠くないイメージがあるが、全線約10km、所要時間約50分、ちょっとしたショートトリップである。

歴史

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▲昭和47年現在(濃線が[草32])
 現在は墨田区・台東区を東西に横切る基幹路線として定着したものの、そこまでには紆余曲折の歴史があった。元々は[41]として昭和27年7月に押上駅~(蔵前橋)~東京駅八重洲口、昭和33年6月に平井三丁目(現平井西袋付近)~押上駅を延伸、さらに昭和47年2月には都心側を切り捨てて平井駅~押上駅~東日本橋駅となった。新系統番号になった[草32]となったのもつかの間、昭和50年8月の改編で[草32]は押上駅を境に分割され、都心側は[草32]東日本橋駅~蔵前橋~太平三丁目~押上駅に、また平井側は平井地区の経路を変更し、現在と同じく平井七丁目・中平井経由に、また東墨田地区は東墨田一丁目→八広二丁目の一区間を大きく土手通り沿いに経路を変えた上で、押上駅~平井駅という路線になり、系統番号は[平23乙]となった。
 既に存在した[平23](平井操車所~葛西駅)の枝系統のような系統番号をつけたのは謎である。当然ながら全く関係ない系統同士であった。[平23]も[平23乙]も江戸川営業所(当時)所管になったが、案内の観点から見ると謎である。[平32]にしたほうが良かった気もするが……。
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▲昭和51年現在(濃線が[平23乙])
 こうして誕生した[平23乙]は、主に東墨田地区と平井駅・押上駅を結ぶ短距離系統として設定された。押上駅周辺の折り返しは、十間橋通りから[錦37]と同様に押上三丁目→押上一丁目→押上駅と来て、押上駅が終点の扱いだった。そこから浅草通りを左折して「押上」に停車(現在は停留所なし)、十間橋を渡り十間橋通りに戻っていった。
 八広二丁目~東墨田一丁目は往復で経路が全く異なるようになったのも面白い。平井方面は道路を200m程度進んですぐに着いたが、押上方面は土手通り沿いに大きく迂回し、東墨田二丁目→八広二丁目では[錦37]と数十メートルも離れていない別の並行道路を走り、停留所は間に6つもあった。
 [平23乙]の設定意図としては、押上駅で都営浅草線に乗り換えることを想定していたのであろう。しかし、東墨田二丁目から押上駅であれば、ほぼ並行して走る[上37]は本数も多く、浅草・上野まで乗り換えなしで出られる。分割後の[草32]に至っては、両端とも浅草線の駅であり、経路の主要部分は頻発して錦糸町・御徒町へダイレクトに行ける[塚20](大塚駅~錦糸町駅)と並行しているとあっては存在意義がかなり小さいものであった。昭和52年の収支ランキングでは[草32]はワースト5、[平23乙]はワースト15と低迷し、昭和52年3月に[平23乙]が[草32]と並行して押上駅から蔵前橋通り経由で両国駅まで延伸され、12月の改編で[草32]は全線廃止された。これで、[平23乙]は墨田区を東西に横断し、区役所連絡(当時は横網に区役所があった)の役割も負い、初の両国駅をループ状に折り返す系統となった。
なお、延伸当初も平井方面は十間橋経由、両国方面は押上駅経由と経路が異なっていたが、昭和53年に往復とも押上駅経由に統一された。また、昭和53年11月の改編で青戸に移管された。
 しかし、本数は分断後から50~60回/日と当時としては少ないほうで、営業係数は150~160と常に下から数えたほうが早い状態だった。そこで、平成2年11月にに墨田区役所の現地への移転とともにテコ入れを行うことになり、[上37](上野松坂屋~青戸車庫)の西半分をもらって両国駅を切り捨て、上野松坂屋~浅草寿町~押上~平井駅と大きく姿を変えた。同時に押上近辺も押上駅経由から十間橋経由に変えている。東墨田地区・平井地区から浅草・上野へ出られるようになり、1日あたりの乗客数も3200人/日(平成元年度)から3800人/日(平成4年度)へ、営業係数も僅かではあるが改善され、利便性が高まったと言える。
 本数はおおむね1時間に3本で、平日土曜の半数は浅草寿町折り返しというダイヤだった。浅草~上野は他系統が並行していることや、限られた運用数での本数確保という意味合いもあるのだろう。
 平成4年7月には区役所連絡の目的で、新四ツ木橋~浅草寿町が設定された。新四ツ木橋~押上駅は[錦37]と並行し、十間橋は通らない。また、本所吾妻橋→浅
草寿町は片道のみ墨田区役所を経由するなど、[平23乙]と似ているようで違う経路となった。朝~夕に1本/時程度運転され、系統番号は[平23乙折返]、案内上は[平23乙]となり、複雑度が増した。
 このまま10年近く続いたが、さすがに分かりにくいということか、八広~東墨田三丁目の都道(現ゆりの木橋通り)が開通したことで、平成13年11月に往復ともこの道路を経由するように改められた。従来は東墨田地区を大回りしていたのだが、押上方面だけであったため、ちょうど中間地点の新設道路を通ることで、往復ともサービスレベルを均一にしたというところなのだろう。停留所名もまとめて変化し、同時に系統番号が[上23]と改番され、ようやく分かりやすい番号になった。
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▲平成14年1月現在
 同時に新四ツ木橋~浅草寿町も平井駅発着に変更されたが、押上駅・墨田区役所経由は変わらずだった。この便のみ、区別のために方向幕が緑色地になった。
 平成15年4月には平井駅~平井操車所の折返便が開設され(後述)、平成19年4月には系統整理で全便が上野松坂屋発着に延伸され、上野方面は墨田区役所を経由するようになった。これで、[上23]の本線は平井駅~上野松坂屋の運転区間が基本となり、経路違いは十間橋経由と押上駅経由の部分だけとなった。
 このままフェードアウトするかと思われた押上駅経由だが、平成24年春のスカイツリー開業に対応した改編で押上駅交通広場が新設され、上野松坂屋~押上駅の折返系統が新設され、上野松坂屋~押上は昼間1時間4本に増発された。同時に押上駅経由は方向幕が緑色から橙色地に改められたのもポイントだろう。もっとも、1年後にこの折返は廃止されて元の姿に戻った。
 これでようやく落ち着くのか、さらなる変化が待っているのか。

平井操車所発着

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 平成15年4月には[上23]の枝系統で平井駅~平井操車所が開設された。[平23]の平井操車所~平井駅が短縮されたものの代替で作られた短距離便で、[上23]のうち休憩する便を営業運転するようになった。本数は少ないが、現在に至るまで運行が続いている。ただし本数は非対称で、平井操車所発のほうが本数が多い。これは、運用途中の長い休憩などで青戸車庫に戻る際、平井駅→青戸車庫(休憩)(回送)平井操車所→平井駅というような運用になっているためである。本数確保のためだろうか。
 なお、平成17年4月に[平28]が平日昼間のみではあるが、平井駅を貫通して東大島駅~平井駅~平井操車所という系統が開設され、平井駅を通り抜ける路線が復活した。
出入庫
 [平23乙]の出入庫として最初に設定されたのは八広二丁目発着で、押上駅(両国駅)・平井駅の双方から設定された。ほとんどは平井駅発着の設定で、八広二丁目交差点を左折して中居堀に出るところを鋭角に右折して、第三吾嬬小前の[上37]([錦37])の八広二丁目で終点となった。八広二丁目~青戸車庫は[上37]と同じ経路を通るものの回送だった。
 平成13年の[上23]化により経路が変更され、本線から外れる手前の上野松坂屋~東墨田二丁目、木下川小学校~平井駅という運転に改められた。その後、平成18年4月のはとバス委託時に出入庫の運転が平井駅~青戸車庫まで延長され、全区間営業運転するようになった。現在も始発・最終を除き出入庫は平井駅発着というのは変わっていない。
 なお、上野方面の始発の出庫は[上23]に変わった当初は東墨田二丁目始発だったものの、平成17年6月の改正時辺りから八広二丁目始発に短縮されている。

木下川小学校

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 木下川で「きねがわ」と読む。向かいの葛飾区にも「きねがわ」の名が見えるが、あちらは「木根川」。どうやら昭和の初期に、読みにくいためか地名の漢字を変更したためようだ。本来は「きけがわ」と呼び、室町時代には「木毛河」と表記していたものの、その後「木毛川」に変化し、訛った結果現在の読み名になったらしい。対岸に同じ地名があるのは元々は一つの土地だったからで、昭和初期の荒川放水路の開削により今の姿になった。
 [平23乙]時代は木下川小学校正門入口、木下川小学校と2つの停留所が設けられていた区立小学校。どんな大きい小学校と思えば、墨田区内でも指折りのミニ小学校だった。
 昭和11年開設の小学校で、浅草の新谷町などから皮革業者・工場が集団移転して人口が大幅に増えた時代に増設されたが、その後の人口構成の変化などで児童数は少なくなり、最末期の児童数は25人だった。アットホームな雰囲気が売りだったらしいが、時代の波には逆らえず、第五吾嬬小・更正小とともに八広小学校に統合され閉校となった。
 平成13年の経路変更時に土手沿いから新設都道上にバス停が移され、閉校後もバス停の名称は木下川小学校としてしばらく残ったが、平成16年4月に東墨田会館に改称された。現在は特別養護老人ホームに姿を変えている。

ゆりのき橋経由

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平成17年6月に中平井橋の架け替え工事のため、[上23]は平井七丁目北公園~東墨田三丁目の間を都道449号(ゆりのき橋通り)上に開通したゆりのき橋経由に変更された。橋の工事が終わるまでの3年間の限定措置であることが事前にアナウンスされており、およそ3年後の平成20年4月からは元の経路に戻った。迂回期間中は橋の脇に「ゆりのき橋」停留所が新設されたが、迂回終了後もしばらく停留所は残っていた。他の系統が走るということもなく、現在は撤去されている。
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▲平成18年現在

平井六丁目交番

平井駅から少しばかり[上23]で進んだところにある平井六丁目交番停留所。確かに目の前に交番はあるが、交番の名をよく見ると「平井七丁目交番」。
かつては「平井四丁目交番」という名前だったが、住居表示実施により住所が変わった。その際に平井四丁目交番は平井六丁目交番となっのである。写真を見れば分かる通り、交番の名前は「平井七丁目交番」。停留所はあくまで上下とも平井六丁目に位置しているのだが、面白い食い違いと言えるだろう。
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