都営バス資料館

里48・×深夜04

[里48] ×[深夜04]

担当営業所

巣鴨営業所・千住営業所

運行区間

系統・枝番 起点、経由地、終点           備考 キロ程(往/復) 平日 土曜 休日
里48 日暮里駅~熊野前~江北6団地~足立流通センター~見沼代親水公園駅 10.810/10.990km 9 8 7 6 7 6
里48折返 日暮里駅~熊野前~江北6団地 6.480/6.660km 4 3 2 1
里48-2 日暮里駅→女子医大足立→加賀団地→女子医大足立→日暮里駅 17.400km 16 12 11
里48-2折返-1 日暮里駅→熊野前→女子医大足立→加賀団地→加賀 9.280km 1 1 1
里48-2折返-2 日暮里駅←熊野前←女子医大足立←加賀←加賀団地 9.210km 1 1
里48-3 江北駅→女子医大足立→江北駅 3.760km 16


現在

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要               
里48 S48.6.10 巣鴨 (9.907km) 尾久橋~田端新町1~日暮里駅~団子坂下~日本医大病院~水道橋が開通
里48乙 S49.7.10 巣鴨 9.285/10.618km 尾久橋~日暮里駅~根津1~水道橋を開設、里48乙とする
里48甲 S50.9.3 巣鴨 9.350/10.790km 扇大橋北詰~尾久橋を延長
里48乙 S50.9.3 巣鴨 9.395/10.835km 田端新町1~西日暮里間を荒川4経由から尾竹橋通り経由に変更
里48甲 S53.7.4 巣鴨 8.700km 系統分割、延長し足立流通センター~扇大橋北詰~日暮里駅を里48甲とする
里48乙 S53.7.4 巣鴨 4.920/4.540km 同上、日暮里駅~日本医大病院~文京区役所を里48乙とする
里48丙 S53.7.4 巣鴨 4.965/4.585km 同上、日暮里駅~根津1~文京区役所を里48丙とする
里48甲 S53.7.4 巣鴨 6.200km 江北6団地~日暮里駅を開設
里48甲 S55.2.1 巣鴨 9.650km 足立流通センター終点~足立流通センターを延長
里48乙 S57.12.26 巣鴨 ****** 日暮里駅~日本医大病院~文京区役所を廃止
里48丙 S57.12.26 巣鴨 日暮里駅~根津1~文京区役所を廃止
深夜04 S63.12.5 巣鴨 7.060km 日暮里駅~谷在家1が開通
深夜04 H1. 巣鴨 9.240km 谷在家1~足立流通センターを延長
里48 H2.3.31? 巣鴨・千住 9.650km 千住営業所との共管とする
里48 H3.10.7 巣鴨・千住 9.780/9.650km 足立流通センター終点付近の経路をループ状にする
里48 H9.9.30 巣鴨・千住 9.570/9.780km 一部経路変更
里48乙 H15.4.1 巣鴨・千住 9.980km 日暮里駅~舎人二ツ橋を開設
里48出入 H16.4.1 巣鴨 2.9km 巣鴨駅~西日暮里駅を開設
里48 H17.4.1 巣鴨・千住 10.630km 甲乙を統合、ほとんどの便を舎人二ツ橋~足立流通センター~日暮里駅とする
深夜04 H17.4.1 巣鴨 *** 日暮里駅~舎人二ツ橋に延長、谷在家1止まりは皿沼2止まりに延長
里48折 H17.4.1 巣鴨・千住 *** 日暮里駅~足立流通センター終点は往路のみ中入谷を経由し、復路は直接舎人公園に出るよう経路変更
里48 H18.4.1 巣鴨 *** 千住が撤退、巣鴨の単独所管とする
里48折 H19.3.26 巣鴨 *** 日暮里駅→東京北部病院を開設
里48折 H20.3.30 巣鴨 *** 日暮里駅~足立流通センター終点、日暮里駅→東京北部病院を廃止
深夜04 H20.3.30 巣鴨 *** 日暮里駅~舎人二ツ橋を廃止
里48 H20.3.30 巣鴨・南千住 10.810/10.990km 巣鴨・南千住の共管に変更。終点を見沼代親水公園駅に変更、江北駅に乗り入れ
里48 H24.4.1 巣鴨・南千住・北 *** 巣鴨・南千住・北の共管に変更
里48-2 H24.4.1 巣鴨・南千住・北 往復18.0km 日暮里駅~加賀団地を開設
里48出入 H26.4.1 巣鴨 *** 巣鴨駅~西日暮里駅を廃止
里48 H30.4.1 巣鴨・千住・北 *** 南千住が撤退、千住が参入
里48 R 4. 1. 4 巣鴨・千住 北が撤退、巣鴨・千住に変更
里48-2 R 4. 1. 4 巣鴨・千住 17.400km 扇大橋~東京北部病院を東京女子医大足立医療センター経由に変更(-2折返1の日暮里駅→加賀、-2折返2の日暮里駅←加賀団地も同様に変更)
里48-3 R 4. 1. 4 巣鴨・千住 3.760km 江北駅→東京女子医大足立医療センター→江北駅

路線概要

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 日暮里駅から尾久橋通りを北上し、都県境近くの見沼代親水公園駅を終点とする。ほぼ全区間を日暮里・舎人(とねり)ライナーに沿って走るのが特徴と言える。これ以外には、途中の江北六丁目団地で分岐して加賀団地に向かう枝線があり、[里48-2]を名乗る。
 また、本線とは重複区間がないが、巣鴨駅から不忍通り経由で西日暮里駅を結ぶ系統も僅かに運行されており、行き先表示上は無番だが、停留所では[里48出入]と名乗っていたが、近年廃止された。
日暮里駅から東京都と埼玉県の県境である舎人エリアを結ぶバス路線。日暮里舎人ライナー開通前は一大幹線であったが、現在では補完する役目を担っている。
日暮里駅を出発したバスは、駅前の交差点を左折して尾久橋通りへ入り、北上を始める。その昔は乗車待ちの客であふれていた西日暮里駅前は京成電車のガード下にあるが、今では接近案内つきの豪華な停留所が少しばかり物悲しい。
常磐貨物線をアンダーパスでくぐり、田端新町1丁目、赤土小学校前と日暮里舎人ライナーよりも丹念に停まっていく。赤土小学校は校舎内に3つの学校図書館がある、都内でも珍しい小学校として有名である。
バスは北上を続け、熊野前で都電荒川線と交差すると側道を駆け上がり尾久橋、扇大橋と隅田川・荒川を一気に渡っていく。二つの橋の間には足立小台駅前停留所があるが、一帯が再開発され、高層マンションや商業施設が建ち並ぶようになった。
扇大橋を渡りきると沿線の景色はロードサイド店が立ち並ぶ郊外の雰囲気へと一変する。江北四丁目で[王40]と交差、江北駅前では日暮里駅向けのみ新設された駅前広場の小さなバスターミナルに入って客扱いを行う。
江北陸橋で環七通りと交差し、通りの両脇に団地が見えてくると江北六丁目団地入口、続いて江北六丁目団地。この二停留所間には日暮里舎人ライナーの西新井大師西駅があるが、ここだけは日暮里舎人ライナーの駅位置に合わせてバス停を移設させなかったり、駅名に停留所名を合わせたりしていない。駅名と実状がかけ離れているからあえて揃えなかったのではないかと邪推したくなるほどで、実際に西新井大師までは1キロ以上離れている。
[里48-2]は江北六丁目団地の交差点で左に曲がり、本線と別れる。平成24年までは[王46]として運行されていた区間で、[王46]のページも参照のこと。 [里48]+[王46]=[里48-2]という路線が誕生したのだ。なお、次の東京北部病院停留所までは日暮里舎人ライナー開通前に、1日1本だけここまで運行していた(後述)。
東京北部病院の先、江北6丁目交差点を右折し、コモディイイダを右に見てバスは走っていく。押部を過ぎ、神奈中バスファンには有名だった「くるまやラーメン」が見えてくると、交差点を右折して鳩ヶ谷街道へと進路を変え北上、この路線の一応の終点である加賀団地に到着する。だが、循環系統なのでそのまま乗降客が無ければ通過し、入谷七丁目交差点を回り込むように曲がり首都高速川口線の下を走って行く。道路の反対側は埼玉県である。程なくバスは加賀中学校入口に到着。実はここが加賀団地の最寄り停留所で、先ほどの加賀団地停留所が最寄りなのは限られた棟となっている。
加賀中学校入口を出発すると、花の枝橋東交差点を左折して加賀停留所。最終便はここが終点となる。そしてそのままバスは直進し、右手に先ほどのくるまやラーメンが見えてくると循環部分は終了となり、日暮里駅へと戻っていく。国際興業バスの営業エリアだったところに後から乗り込んだという意味では違和感を多少覚えるところである。
さて、話を江北六丁目団地以北の本線へと戻そう。基本的には尾久橋通りをさらに北上していくのだが、舎人公園駅の手前の交差点で左折して西へ進路をとる。これは[里48]が足立流通センターの通勤客の足という側面を維持しているためである。日暮里舎人ライナー開通前後で、この付近のルートは二転三転したが、必ず足立流通センターへの足は確保されていた。
流通センター南交差点で右折して足立流通センターの中を走っていくが、道路の両脇が緑地帯となっており、市場内部の様子はバスの車窓からは分からない。流通センターのメインの建物は北足立市場と足立トラックターミナルで、青果や花を主に取り扱っている。平日は頻繁に大型トレーラーとすれ違うこともあり、活気がうかがえる。
足立流通センターを抜けると、再びバスは右折して尾久橋通りへと戻り北上を続ける。舎人駅を過ぎると車窓に畑が見え始めてくる。尾久橋通りが都市計画道路の放射11号線であることから名づけられた「放射11号舎人」という面白い名の停留所を過ぎ、日暮里舎人ライナーの高架が途切れるところが見えてくると、終点の見沼代親水公園駅前となる。駅に併設されてバスターミナルがあり、折返しの出発までしばし待機する。
さて、もう一つ[里48出入]についても紹介しておこう。巣鴨駅と西日暮里駅を不忍通り経由で結ぶ出入庫路線で、行先表示に系統番号はなく、現在の本数は非常に少ない。
巣鴨駅を出発したバスは、[草63]同様に白山通りを東へ進むが、千石一丁目交差点で左折して不忍通りへ入る。ここから先は[上58](早稲田~上野松坂屋)と併走する区間となる。すぐに右手に見えてくる高層ビル群は文京グリーンコートという高層住宅とオフィスビルにショッピングセンターを備えた複合施設である。
日暮里舎人ライナー開業前の[里48出入]の本数がもう少しあった頃は、文京グリーンコートに限らず[上58]沿線から山手線の駅へ出る手段として利用する客を見ることがあったが、今となっては廃止寸前の本数で、機会を損失しているような気がしてならない。
上富士前を過ぎたあたりが武蔵野台地の東端部に当たることから、本駒込四丁目かけて一気に坂を下り、以後は台地の谷間をバスは走っていくが、道の両脇には住宅たビルが建ち並び、車窓的にはそのような感じがあまりしない。動坂下、道灌坂下など「~坂下」という停留所名で察してほしいというところか。
道灌山下交差点で左折し、千石一丁目で別れた[草63]と再び合流し、JR駅のガードが見えてくると終点の西日暮里駅である。バスはここで回送車へと行先表示を変えて、日暮里駅へ走って行く。日暮里駅まで営業運転しない理由はよく分からない。逆方向となる江北六丁目団地への回送も存在するためだろうか。
 開業当初の運転は主に朝~夕方にかけてであり、同じ区間を走る[草63](池袋駅東口~浅草雷門)と経路を区別するため、方向幕は緑色地となり、不忍通りを経由する意味で「上富士前」の表記がついた。なお、系統番号を表示すると混乱の元となるためか、系統番号は表示していない。

歴史

 [里48]は昭和48年6月に開通した。開通当初は尾久橋~日暮里駅~水道橋を結び、荒川区北部と都心部を結ぶ目的があったと思われる。また、当時は尾久橋通りが完全には開通しておらず、西日暮里駅~田端新町は尾竹橋通り・明治通り経由で大回りをしており、扇大橋も架橋されていなかったため、尾久橋止まりとなった。当時は熊野前から尾久橋へと続く熊野前陸橋も建設前で、陸橋予定地を使ってUターンしていた(次ページの航空写真も参照)。
 尾竹橋・明治通りへの大回りもかなり無理をしている設定で、荒川四丁目バス停のある宮地交差点では、右折が困難なこともあったようで、水道橋方面は新三河島駅先で一旦左折して京成線沿いに進み、一通の道を抜けて宮地交差点に入ることで西日暮里方面に抜けられるようにしていた。
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▲昭和48年6月現在
 尾竹橋通りから直接水道橋へと行かず、一旦日暮里駅を経由しているのは開業時からの特徴である。文京区と直接結ぶ目的を考えると、かなりの遠回りとなるが、西日暮里駅が新しい駅(昭和44年千代田線が開業、昭和46年国鉄駅が開業)であることや、折り返しの可能な日暮里駅をターミナルとすることで、将来の拠点にしようとしたのだろう。
 西日暮里駅からは一旦不忍通りに出て、現在は都営バスの通っていない日本医大を経由して、本郷通り・言問通りを経由して文京区役所に至っていた。水道橋側の折り返しも、適当な折り返し場所とはなかったとは言え大掛かりなループ線を描いて戻っており、水道橋から左折して外堀通りに、御茶ノ水駅手前で左折して順天堂病院、先の本郷通りを左折して壱岐坂を下り、元の経路に合流して戻っていた。全線の距離は尾久橋方面は10.5km(水道橋方面9.2km)、所要時分は47分(同41分)となかなかの距離のある路線であった。
 所管は巣鴨営業所である。当時、周囲には新谷町・南千住・昭和町・滝野川といった車庫もあったが、いずれも微妙に離れていることや、巣鴨は都営三田線の延伸で[浜59](浜松町駅~巣鴨駅、→[水59])が減便されていったこともあり、余裕があったためかもしれない。路線整理の始まった都心部に新たに路線を引く(千駄木二丁目~本郷追分は完全に新規区間)という意欲的な試みであったが、終点付近の熊野前~田端新町一丁目は[端44](駒込病院~北千住駅)と重複し、既に山手線へのアクセスは確保されていたこともあり、 [里48]としての独自色はあまり打ち出せずにいた。乗客もさほど多くなく、開通後の昭和49年度はキロ当たりの収入がワースト1(61円/km)を記録した。平均支出は370円/kmなので、収支係数は600を超える大赤字路線だったことになる。それでも運行回数は83回と、かなりの本数が確保されていた。
 昭和49年7月には、千駄木二丁目~東大農学部間が根津一丁目(根津駅)経由となる[里48乙]が開通した。都心側で経路違いを開通させるのは面白いが、意図はよく分からない。根津~東大農学部も基本的にバスの引かれていなかった新規区間であり、将来何らかの路線に活用するつもりでもあったのだろうか。
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▲国土情報ウェブマッピングシステム(昭49)
 昭和50年9月には、扇大橋の開通に伴い、尾久橋~扇大橋北詰の間が1区間延長された。まだ扇大橋から北側は整備中だったため、路上でUターンしていたものと思われる。同時に日暮里駅~扇大橋北詰の折り返しも設定されるようになった。昭和50年度は乗客数も4,375人と前年度の倍になり、収支ワースト7位に改善したものの、収支係数290とまだ大赤字であった。
 扇大橋北詰への延伸と同時に、西日暮里五丁目(現・西日暮里駅)~田端新町一丁目の尾久橋通りが開通し、荒川四丁目経由でなくなった。途中には「田端新町公園」停留所が増設された。
 さらに、昭和53年7月に尾久橋通りの整備と合わせて一気に北進、足立流通センターまで達する路線となった。この時に、日暮里駅を境に尾久橋通りを走るほうを[里48甲]、文京区役所側を[里48乙/丙](日本医大病院回りが乙、根津回りが丙)と分割して、現在の原型となった。同時に、ラッシュ時を中心に日暮里駅~江北六丁目団地の折り返しも設定された。甲と乙は全く異なる路線となったため、方向幕にも「里48甲」「里48乙」の表記が入るようになった。同時に、田端新町公園が西日暮里六丁目に改称された。[里48]の乗客数は、流通センターへの延伸初年度である昭和53年度は4,560人/日であるが、54年度は7,082人/日、55年度は9,023人/日、56年度は9,426人/日と急激に増加していった。これらの増分はほぼ[里48甲]によるものだろう。
 当時の尾久橋通りは中入谷までの整備だったが、昭和53年当時は中入谷を経由せず舎人公園から左折して直接足立流通センターへと向かっていたようである。折り返し場所は定かではないが、当時は土地もふんだんにあり、適当な一角を折り返し場所に使っていたのかもしれない。当時の航空写真を見ると、流通センター周囲は舎人公園の整備前で畑も多く、今よりも郊外の雰囲気が色濃く出ていたのだろう。
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▲国土情報ウェブマッピングシステム(国土交通省、昭54)
 昭和54年には扇三丁目停留所が増設され、さらに昭和55年2月には流通センター側の経路が中入谷を経由して足立流通センター終点を終点とするように変更された。昭和54年9月には千住の足立市場から移転してきた北足立市場が開場しており、流通センターの需要も見込んで全体を回るように変更されたのだろう。上図の点線から実線の経路になったと思われる。
 このような経緯のためか、昭和54年度までの小型幕車は「足立流通センター」と「足立流通センター終点」の表示が混在している。小型幕の行き先の経由表記は「扇大橋経由」だった。当初の開業時の経緯があったためだろうが、大型幕は「江北(六)経由」に改められた。また、北足立市場の一角に簡単な操車所が設けられ、ここで休憩する都営バスの姿を見ることができた。
 昭和57年には不採算だった[里48乙/丙]が廃止され(後述)、[里48甲]のみが残ったが、足立区西部から山手線の駅に直結する通勤・通学路線として多くの乗客を運ぶようになった。
 昭和63年12月には深夜バス[深夜04](日暮里駅~谷在家一丁目)が開通した(後述)。また、同じ年頃に西日暮里五丁目が西日暮里駅に改称されている。
 平成2年には千住営業所が参入した。当時の文京区内では[水59]を廃止するなどの大胆な改編が計画され、余力で[端44]に巣鴨が参入する予定であったが、計画が撤回された結果の余波とも言えるだろう。千住担当の出入庫は環七経由で行うことになり、[王49]千住車庫~第五中学校裏、[里48]江北六丁目団地入口~足立流通センター終点という運行を同時に開始したが、ほどなくしてこれら出入庫の運行は廃止されてしまい、江北六丁目団地・足立流通センター終点からそれぞれ車庫まで回送されるように変更された。
 また、平成3年には足立流通センター終点の操車所が市場外に移転し、同時に足立流通センター~終点が循環状になり、現在の経路が完成した(さらに平成10年頃に加賀操車所(仮)に移転)。詳しくは折返所の章も参照のこと。
 この時点で本数・路線網は一旦完成を見る。朝ラッシュ時は江北六丁目団地が6:00始発である。始発は江北四丁目6:03始発便が続行し、始発から2台続行という需要の多さを感じさせる始まりで、そこから5~7分間隔でバスが連発し、7時台には2~4分間隔でバスが続行していた。朝ラッシュ時は江北六丁目団地発が多数設定されているものの、始発で座席がいっぱいになり、雨が降ると積み残しも多く出ていた。
 ただし、大黒字路線かというとそういうことでもなく、路線長が比較的長く、朝ラッシュ時に乗客が集中するために所要台数の偏りが大きいことや、片方向輸送の傾向が強い路線ということもあり、乗客数は平成5年度で12,219人/日と上位に入るものの、収支係数は99とちょうど収支が均衡する程度であったことが読み取れる。他にも、車庫から遠くまで回送する必要があることもあったのだろう。この時点でほぼ乗客数は横ばいになっていたため、日暮里舎人ライナーの開業まで大きく変わることはなかったのではないかと考えられる。
 尾久橋通りは、建設当時から中央分離帯が広く取られ、将来何らかの交通機関を通すことを想定していた作りになっていた。バスでは定時性に難があったため、昭和50年頃より鉄道の誘致運動が始まった。当初は、営団7号線(南北線)を延伸させることを目標としていたが、資金の問題や工事の困難さもあり立ち消えとなる。交通不便地域を救う目的で、昭和60年7月の運輸政策審議会答申で、日暮里駅~舎人地区を結ぶ路線の建設が答申されたが、工事はなかなか開始されず、平成8年8月に都市計画決定、平成9年12月からようやく工事が開始された。荒川以南は用地買収に手間取ったこともあり、平成12年から工事が開始された。このため、開業時期は当初平成11年度とされていたものが平成14年度に修正され、さらにその後、平成19年度と大きく後退した。
 このような中で、先行して都営バスが新交通の終点予定地まで路線を引くことになったためか、平成15年4月に[里48]は舎人二ツ橋(とねりふたつばし)まで延伸された。中入谷から北進し、埼玉県境のすぐ近くまで来た場所にあり、23区内の都営バスの最北端停留所となった。
 当初は、中入谷で足立流通センター行きと分岐し、舎人二ツ橋まで行く設定となっていた。そのため、時間2本程度とあまり本数は多くなく、終バスも日暮里駅発21:00と早い設定だった。また、足立流通センターに行かないことを区別するため、橙色地の方向幕となった。
 ここからは、毎年のように変更が生じる。平成16年4月には、舎人二ツ橋行きの終バスが早速繰り下げられ、日暮里駅発21:24となった。[里48]出入の開業もこのときである。
また、日暮里駅→扇大橋北詰の折返便が新設された。平日朝3回のみの設定であったが、およそ30年ぶりの北詰行きの復活となった。扇大橋北詰到着後は回送となり、江北一丁目、江北四丁目を右折して尾久橋通りに戻り、江北四丁目始発となって日暮里駅に戻る設定であった。江北六丁目団地より手前で折り返すことで、一往復にかかる時間の短縮や、本線の補完運行を狙ったものと思うが、ここまでして作った意図はよく分からない。
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▲平成16年4月現在
 平成17年4月には、足立流通センター行きと舎人二ツ橋行きが統合され、ほぼ全便が舎人二ツ橋まで行くようになった。本線の経路も変更され、舎人公園を左折し、流通センターを通って中入谷で再び尾久橋通りに合流するようになった。舎人二ツ橋発の本数は大幅に増え、利便性が向上した。従来、この地域は竹ノ塚駅まで東武バスで出て、東武伊勢崎線(地下鉄日比谷線)に乗り換えて都心を目指していた。北千住まででも370円かかるところが、日暮里駅まで直通で200円で出られるということで、東武に先行して殴りこみをかけたような格好である。
 なお、足立流通センター終点行きの便も数往復だけ残された。ここで休憩する運用がまだ残っていたためだろう。舎人公園~中入谷を尾久橋通り経由で走る便はこれだけとなった。ただし、足立流通センター始発については、舎人発と同じく直接舎人公園に出るように変更され、大きくループするような経路に変更された。このため、側面幕については、流通センター発は「中入谷」から「舎人公園」に変更された。同時に「足立流通センター南」停留所が増設されている。
 同時に、平日朝ラッシュ時に谷在家二丁目始発便が誕生した。谷在家二丁目は江北六丁目団地の一つ北側だが、江北六丁目団地で大きく便数が変わることへの緩和措置と着席チャンス提供として誕生したのだろう。
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▲平成18年4月現在
 平成18年4月には、長らく続いた千住の運用が消滅し、全ての運用を巣鴨でこなすようになった。この時は運用変更に伴う行先の修正のみだったが、翌平成19年3月にはは、1本だけ残っていた日暮里駅→扇大橋北詰が廃止され、代わりに日暮里駅→東京北部病院という運用が誕生した。本線からはみ出る運用で、江北六丁目団地到着後、すぐ先の谷在家一丁目交差点を左折し、しばらく進んで東京北部病院の角を左折し、[王46](王子駅~加賀団地)の東京北部病院の停留所で終点となる。江北六丁目団地~東京北部病院の区間は都営バスの新規区間だが、折り返しは江北六丁目団地まで回送となるため、新規区間は片道1本だけの運行となった。まるで免許維持のような折返系統だったが、この運行は1年間だけであった。
 なお、平成17~18年頃には日暮里駅の乗り場が移転した。JR駅を出た目の前に噴水があり、旧駄菓子問屋商店街寄りの左側の島に[里48]の乗り場があったが、日暮里舎人ライナーの建設工事進捗に伴い線路下のスペースが丸ごと潰されることになり、日暮里舎人ライナーの高架脇に移動し、他系統の乗り場とは高架を挟んで分断されることになった。
 なお、昭和51年以前については、ターミナル端の停留所は[里12](日暮里駅~晴海埠頭)が発着しており、[里48]はバスターミナルを挟んだ、現在の[都08]等の降車専用のポールが建っているあたりから発車していた。
 平成20年3月、日暮里・舎人ライナーが開業した。ほぼ並行して走る[里48]は通勤・通学用幹線としての役割を終えることはほぼ確実であり、短縮・廃止も考えられていたようだが、多様なアクセスを残すこととなったのか、路線自体は維持された。運行本数は7割減、途中折り返しの設定はほとんどが消滅し、わずかに平日朝に江北六丁目団地折り返しが残るのみとなった。深夜バスも廃止され、終バスは22:00へと3時間近く繰り上がった。足立流通センター行きも廃止されたため、舎人公園~中入谷の尾久橋通りからは都営バスが撤退した。
 前年に新設されたばかりの東京北部病院行きは1年の命だったが、新規区間については[王46]が経路変更してこの経路を通ることになり、都営バスの走行区間自体は存続した。
 また、同時に停留所名もいくつか改称され、基本的には日暮里舎人ライナーの駅最寄り停留所は駅名と揃えられた。終点の舎人二ツ橋は見沼代親水公園駅に改称され、立派なバスターミナルができた。
 なお、方向幕における見沼代親水公園駅の行き先表示っは、舎人二ツ橋行きを引き継ぎ橙色地とされたが、ほとんど全便が橙色地なので、区別の意味がもはやないような気もする。
 この改編と同時に、南千住も運行に参入した。便数が大幅に減ったのに共管路線というのも変わった話だが、日暮里舎人ライナーがストップしたときの代行輸送を分担して行えるようにするため、普段から共管にしたようだ。
日暮里舎人ライナー開業後の[里48]の利点は、混雑しない、200円と安いという所にあったが、いかんせん所要時間の差は歴然としており、乗客は想定以上に減少、ダイヤ改正の度に削減され、平成24年4月には[王46]と統合し、[里48-2]日暮里駅~江北六丁目団地~加賀団地という系統を新設した。このとき北も参入し、3営業所で共管というかなり珍しい体制となっている。平成23年には東日本大震災で日暮里舎人ライナーがしばらく運休する事態になり、その間はバスが生命線となったことから、こういった事態にも対処できるよう、各営業所で担当することにしたようだ。
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▲平成20年3月現在
 このダイヤ改正で興味深いのは、江北六丁目団地~見沼代親水公園駅の区間は1時間に1本程度にまで減少したということである。舎人ライナー開業以降も毎時2本は確保していたが、大きくそれが崩された格好になった。舎人付近から日暮里駅までは運賃が倍近く高いものの、時間短縮効果が大きい舎人ライナーにほぼ流れたということだろう。
 逆に、江北六丁目団地以南は本数がそこまで減らなかった。朝の上りは10~12分間隔で走っており、江北駅~扇大橋ではラッシュの補完として活用されているようだ。具体的には、舎人ライナーの混雑があまりにも激しいため、それを避ける乗客が一定層いるということで、多少時間がかかっても、この区間なら許容範囲と考えられているようだ。昼間や土曜・休日は、そもそも沿線住民が買い物に出かける先として日暮里の需要が少ないこともあり、舎人ライナーでほぼ十分ということで本数の差が大きくついているのだろう。
 代行を兼ねるという路線の特性から直ちに廃止にはならないと思われるが、既に必要最低限まで本数を減らしていることもあり、今後はどう存続させていくのか気がかりなところだ。なお、出入庫のほうは本数が減り続けてついに1日1~2本となり、平成26年春の改編で全廃された。

里48乙の栄枯盛衰

 昭和53年の足立流通センターへの延伸により、都心側の[里48]は分断され、切り取られたほうの都心側は不憫であるが、日暮里駅~文京区役所という設定ではあまり客が乗るとも思えず、乗客は多くなかった。
 [里48乙][里48丙]は分断時の昭和53年7月には終点が変更され、水道橋から順天堂・壱岐坂を回る部分がばっさりと切り落とされ、言問通りの菊坂を下った後、直進して白山通りを渡り、こんにゃくえんま前の突き当たりを左折、春日通りと当たる富坂下を左折、すぐの春日町を左折して白山通りに戻り、文京区役所を終点とするようになった。この先は西片交差点を右折して元の経路に戻るのだが、末期は白山通り上にある小石川一丁目には停車しなくなったようだ。右折レーンの関係上だろうか。
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▲昭和57年現在
 文京区役所から先は地下鉄に乗り換えてほしいという意図があったのかもしれないが、都心側で国鉄と接続せず都心にも乗り入れない [里48乙]は乗客も少なく本数も少ないという悪循環で、末期は日本医大回りが20.5往復、根津回りはわずかに14往復のみの運転であった。双方がそれぞれ1時間に1本程度の運転だったことになる。
 結局、存続ラインを下回ってしまい、昭和57年12月の改編で[里48乙]([里48丙])はともに全線廃止された。代替措置も特になかったことから、そもそもの乗客が少なかったことがうかがえる。
 根津一丁目(今の根津駅)から東大農学部の区間は、平成に入ってから[茶60]→[上60](上野公園~大塚駅・池袋駅東口)の変更で復活したが、日本医大前の通りはこの路線が最初で最後であった。終点側も国電駅にくっつけるとかすれば多少は変わっていたかもしれない。平成19年より、文京区コミュニティバス「Bーぐる」が水道橋から日本医大前の区間を含めて文京区を循環するように運行されるようになり、ある意味復活となった。
 [里48乙]の出入庫については、[水59](巣鴨駅~文京区役所)で行っていた。通常の[水59]であれば一ツ橋行きとなるが、本線に交じってごくまれに走る姿を見かけることができた。

[深夜04]

 [里48]の深夜バスとして、昭和63年には[深夜04]が開通した。不思議なのは、終点は「足立流通センター」と通常便の終点の1つ手前となっていた。しかし、資料によっては[里48]と同じ「足立流通センター終点」を終点にしているものもある。「終点のつもりで足立流通センターと書いて出したらその通りに認可されたので正式には1つ手前が終点になってしまった」説も捨てがたいが、実際の運行がどうだったのかはよく分からない。まあ、大した違いはないだろう。
 運行当初は谷在家一丁目までの運転であったが、平成元年には足立流通センターまで延長された。それを引きずっているのか、延長以降も23時台は谷在家一丁目止まりとなり、折り返しは江北六丁目団地始発の日暮里駅行きとなり、0時台になってから初めて足立流通センター行きとなる便が現れた。往復の時間を短くし、運用数を効率的にこなすためだろうが、そのために谷在家以北は通常[里48]便の最終の後、しばらくバスが来ないことになるのが面白い。
 [里48]の利用が盛況なのに合わせて、この系統は[深夜01]を抜いて、深夜バス乗車人員1位となり、本数も最も多くなった。バブル崩壊後も乗車人員がさほど減らず、むしろ上がっていたのは驚きである。金曜日深夜限定の増発便も設定、最終便は続行便となっていたからも、それがうかがえるであろう。続行の最終便は西日暮里駅始発(0:40発)となるが、金曜深夜には続行便目当てで、京成線ガード下の西日暮里駅のポールに行列を作る姿も見ることができた。
 平成15年には[里48]が舎人二ツ橋まで延伸されたものの、深夜バスは足立流通センター止まりだった。深夜バスも含めて延伸されるのは、2年後の平成17年のことである。日暮里駅発最終0:38、舎人二ツ橋着は1:14と遅い設定であった。
 このときに運行形態を見直され、谷在家一丁目止まりは一つ北側の皿沼二丁目止まりに延伸され、23時台にも舎人二ツ橋行きの深夜バスが設定されるようになった。
 平成20年3月、日暮里・舎人ライナーが平成20年3月に開業し、[深夜04]は全線廃止された。だが、日暮里舎人ライナーの日暮里発終電は[深夜04]終バスと同じ時刻に設定されており、深夜バスの役割はしっかりと引き継がれたとも言えよう。
 なお、末期は日暮里舎人ライナーの工事のため、深夜バスに限り日暮里駅の乗り場がターミナル中央の[都08](日暮里駅~錦糸町駅)乗り場から発車していた。
 時代によってさまざまな運行形態があり、方向幕もそれに応じて何パターンか存在した。前述の西日暮里駅発の最終便は金曜夜の1回のみ運行だったが、末期は専用の幕が作られていた。日暮里駅発と兼用でも構わないはずではあるが、撮るのが大変という意味では撮影者泣かせでもあった。

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