都営バス資料館

×銀86

[銀86]←[509]←都電9

担当営業所

渋谷営業所

運行区間

系統 区間 距離 備考
渋谷駅~青山一丁目駅~六本木~神谷町~虎ノ門~桜田門~銀座4~豊海水産埠頭 11.605km
虎ノ門~桜田門~銀座4~豊海水産埠頭
出入 渋谷駅~渋谷車庫←東2(田87) 0.830km

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要
509 S43. 9.29 (青山) 11.550km 都電9(渋谷駅~新佃島)の代替で渋谷駅~虎ノ門~豊海水産埠頭が開通
509折 S43. 9.29 (青山) 6.315km 渋谷駅~虎ノ門を開設
509乙 S43.11. 1 (青山) 11.605km 渋谷駅~虎ノ門~新佃島を開設
509乙 S47. 2.27 (青山) 11.707km 停留所の区間キロ程変更による距離変更
銀86  S47.11.12 (青山) *** 新番号化、銀86とする
銀86  S52. 3. 7 渋谷 11.605km 青山分車庫廃止により渋谷営業所に移管
銀86乙 S53.11. 1 渋谷  *** 渋谷駅~新佃島を廃止
銀86  S57.12.26 渋谷  *** 渋谷駅~豊海水産埠頭を廃止、銀16(東京駅南口~豊海水産埠頭)に統合→これ以降は[都04]を参照

路線概要

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 都電9系統の代替系統で、渋谷駅と豊海水産埠頭を結んでいた。都電9系統と言っても後述の通り何回か経路が変更されているが、最末期の青山一丁目・六本木・神谷町・桜田門経由である。
 渋谷駅を出ると、[茶80][茶81](渋谷駅~御茶ノ水駅(順天堂病院))と同じように青山通りを進み、青山一丁目駅まで向かう。青山一丁目の交差点では曲がらずに直進し、少し進んだ赤坂郵便局を右折して外苑東通りに入っていた。
 乃木坂を過ぎると左手には現在の東京ミッドタウンに相当する防衛庁の広大な敷地が広がり、停留所名も「防衛庁」だった。防衛庁付近から急速に繁華街めいて来て、六本木交差点手前で六本木の停留所となる。
 バスはそのまま直進して麻布台へ進み、[東82][渋88]の経路と合流する。麻布郵便局を過ぎて飯倉交差点を左折、[東82]と同じく神谷町方面へと向かう。この区間は[東82]も参照のこと。
 虎ノ門で[東82]とは別れて直進し、霞ヶ関から桜田門まで官庁街を直進していく。突き当りの桜田門で右折して内堀通り(晴海通り)に入る。日比谷交差点を過ぎると急激に有楽町・銀座の繁華街に様変わりする。虎ノ門~日比谷~有楽町駅手前までの区間は[東84]と並行していた。
 晴海通りをそのまま直進し、有楽町マリオンを左手に見て数寄屋橋をくぐると銀座エリアとなる。数寄屋橋の次は日本を代表する繁華街の交差点、銀座四丁目となる。ここでの乗り降りは昔も今も非常に多い。三原橋を渡って築地を過ぎ、勝どき橋を渡って勝どき二丁目(現勝どき駅)で右折。ここからは清澄通りを南下し、[門33](豊海水産埠頭~亀戸駅)と並走して月島警察署を過ぎ、埠頭先端に近い豊海水産埠頭の停留所が終点となる。
路線概要
 この路線ほど、戦後の廃止までに大きく姿を変えた路線も珍しい。渋谷駅から中央区の海寄りを目指すという点には変化がないが、終点や途中経路が変わっている。
 昭和初期は渋谷駅~三宅坂~築地、そこから現在の[錦11](錦糸町駅~築地駅)の通りに入り、茅場町・水天宮・人形町・浜町河岸経由で両国を終点としては市電9系統を名乗ったが、戦中の再編で末端区間が分離されて渋谷駅~水天宮となり、両国側は昭和19年5月の不要不急路線廃止で廃止された。そして昭和19年12月に築地~勝鬨橋(西詰)の線路が延伸されたことで渋谷駅~築地~勝鬨橋の運転もなされ、終戦前後はこの区間が基本となった。その後、昭和21年5月には茅場町~水天宮の間の鎧橋が老朽化で車輛が通れないことが分かり、北側からの系統が水天宮で折り返すのと同時に都電9系統を渋谷駅~築地~鎧橋に延伸して築地~茅場町の区間を救済した。昭和23年7月に橋が復旧し、渋谷駅~水天宮の運行となり戦前の姿に戻った。昭和30年7月には浜町中ノ橋まで延長され、その後の一時期はさらに新大橋を渡って森下町まで一部延長されていた。
 渋谷駅~築地~勝鬨橋の区間も引き続き残り、戦後は勝鬨橋を渡って月島通八丁目(現勝どき駅)まで線路が延伸され、ラッシュ時を中心に僅かに月島発着が運行された。
 その後、昭和38年10月に赤坂見附付近の都電が廃止され、青山一丁目から六本木・溜池を大回りするように変更された。この部分は[茶80]の歴史の項目も参照されたい。さらに昭和42年12月には六本木~虎ノ門も線路が廃止されたため、飯倉・神谷町回りに変更された。このときに築地~浜町中ノ橋の本線区間も廃止され、全便が月島通八丁目から清澄通りを経由して新佃島まで運転されるように変更された。水天宮方面には日比谷線も開業していたため、走らせる効果が薄いと判断されたのかもしれない。もっとも、この区間で運転されたのはわずか9ヶ月間のことで、昭和43年9月には全線が廃止されてバス転換された。
 都電の代替に際しては、都電の最末期と同じルートをたどることとなった。すなわち、青山一丁目・六本木・神谷町・桜田門経由である。しかし、終点は勝どき二丁目(現勝どき駅)から海側に回った豊海水産埠頭として、都電時代の終点である新佃島は[509乙]として本数が少ない運行となった。代替直後の昭和43年の調査では、豊海水産埠頭発着は57回、新佃島発着が28回となっていた。この当時は渋谷駅~虎ノ門の折り返しが設定されており、都心側が少なくなっていた。
 地下鉄では不便な区間を結ぶ系統ではあったが、遠回りであり、数々の渋滞地帯を通るため、定時性が守れなくなるのは当然の帰結であった。[茶80]でも述べた通り、旧来の流動とは全く違う経路で代替化されたのもマイナス要素と言えるだろう。渋谷駅から見て六本木~虎ノ門や数寄屋橋は[東82]や[渋88]が頻発していたこともあってか渋谷側の利用者はかなり少なくなり、乗客の見込める晴海通り上に虎ノ門~豊海水産埠頭という折返線を作った結果、本数が逆転していった。末期は全線通し便は1時間2~3本にまで減少し、当時としてはかなり少ない本数だった。昭和53年には新佃島行きの[銀86乙]が廃止された上に半分以上が虎ノ門~豊海水産埠頭の折り返しとなり、渋谷駅側の本数は大きく削減された。
結局、昭和57年12月の改編で渋谷駅~数寄屋橋という路線の大半を廃止し、[東16](東京駅南口~勝どき五丁目)と合体し、江東営業所所管の[銀16]東京駅南口~豊海水産埠頭とする措置がとられた。[東16]系統は昭和27年に勝どき五丁目停留所近くの東海汽船の発着所へのアクセス路線として開通したもので、昭和30年には朝夕のみの運転に規模が縮小されていた。実態は、[銀86]は数寄屋橋から西側の部分が全て切り捨てられたわけで、廃止と言っても差し支えないだろう。[東16]しか通らなかった勝どき五丁目付近の区間は、朝夕のみ経由する便が設定された。
 この[銀16]は好評を得て、昭和63年に晴海通りを通る系統がまとめて都市新バス化され、[都04]を名乗った。平成12年の大江戸線勝どき駅開業で打撃を受けたものの、勝どき地区のマンションの増加で乗客が盛り返し、増便を重ねている。[銀86]の生まれ変わりが都市新バスとなって活躍していると言えるだろう。
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