都営バス資料館

茶51

[茶51]←[東51]←[519]←都電19

担当営業所

巣鴨営業所

運行区間・運行回数

系統・枝番 起点、経由地、終点           備考 キロ程(往/復) 平日 土曜 休日
茶51折返 駒込駅南口~向丘2~本郷三丁目駅~(神田明神→)御茶ノ水駅 5.263/4.483km 3 3 2 2 2 2
茶51 駒込駅南口~向丘2~本郷三丁目駅~御茶ノ水駅~秋葉原駅 5.646/6.128km 33 33 35 35 37 37


現在

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要               
519 S46. 3.18 巣鴨 9.993/10.593km 都電19(王子駅~通3)の代替で王子駅~神田明神~東京駅八重洲口が開通
519折 S46. 3.18 巣鴨 6.743/ 7.523km 王子駅~東京駅八重洲口を開設
519折 S46. 3.18 巣鴨 7.733/ 8.333km 駒込駅~東京駅八重洲口を開設
519折 S46. 3.18 巣鴨 4.483/ 5.263km 駒込駅~御茶ノ水駅を開設
東51  S47.11.12 巣鴨 9.993/10.593km 新番号化、東51とする
茶51甲 S52.12.16 巣鴨 10.852/ 9.552km 系統分割、王子駅~駒込駅~御茶ノ水駅とし、[茶51甲]とする
茶51乙 S52.12.16 巣鴨 ( 9.091km) 駒込駅~神田明神~新橋駅を[茶51乙]とする
茶51折  S52.12.16 巣鴨 ( 5.458km) 駒込駅~御茶ノ水駅の経路変更?
茶51乙 S53年度? 巣鴨 *** 駒込駅~新橋駅は神田明神経由から御茶ノ水駅経由に変更?
茶51甲 S53年度? 巣鴨 *** 御茶ノ水駅発着便は本郷1~御茶ノ水駅の回り方を神田明神先回りに変更?
茶51乙  S54.11.23 巣鴨 7.743km 駒込駅北口~東京駅八重洲口に変更短縮
茶51甲 S61. 8.11 巣鴨 7.653km? 甲乙を逆転、北口操車所廃止にともない駒込駅北口~南口を短縮、
茶51乙 S61. 8.11 巣鴨 7.523/ 6.743km 駒込駅南口~東京駅八重洲口を甲、王子駅~御茶ノ水駅を乙とする
茶51甲 H 6. 7. 1 巣鴨 7.842km 東京駅のターミナルを八重洲口から北口に変更
茶51  H12.12.12 巣鴨 5.263/ 4.483km 甲と乙を統合、駒込駅南口~御茶ノ水駅に変更短縮
茶51 H19. 3.26 巣鴨 5.646/ 6.128km 駒込駅南口~秋葉原駅に変更延長

路線概要

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 駒込駅南口と御茶ノ水駅・秋葉原駅を本郷通りを介して結ぶ。都電代替系統の一つで、かつては多くの本数が走っていた。平成12年12月までは王子駅~御茶ノ水駅と駒込駅~東京駅の2系統があったが、大江戸線全通時の改編で駒込駅~御茶ノ水駅を残して前後を廃止したが、秋葉原駅交通広場の完成に伴い、秋葉原駅まで延長された。
現在は早朝のみ運転される御茶ノ水駅発着便は、折り返しの都合上神田明神を経由して御茶ノ水駅の終点に至る。そのため、湯島一丁目・神田明神の各停留所は折返便の専用停留所となっている。
駒込駅南口の小さなバスロータリーから出発すると、ひたすら本郷通りを走って行く。「上富士前」で不忍通りとクロスすると、次は「駒込富士前」。「前」がつくが、よくある施設名+「前」ではなく、これで一つの名前となっている。それもそのはず、昭和40年代までは上富士前町、駒込富士前町という町名の停留所だったのが、住居表示による町名整理で消え、苦肉の策で「町」を取ったからである。そのため、都営バスの案内では方向幕や路線図で「前」を省略することがあるが、ここは省略されることがない。
さて、次の停留所は吉祥寺前。停留所の名の通り停留所の前には「諏訪山吉祥寺」という寺院があり本家本元の「吉祥寺」である。以前よりこの地にあったわけでは無く、室町時代は江戸本郷元町(現在の水道橋駅・都立工芸高校)付近に存在していた。江戸時代の明暦の大火と江戸大火に遭い、現在の駒込の地へと引っ越してきた。ちなみに吉祥寺と一般的に言って有名な武蔵野市の方は、室町時代~江戸時代にかけての「諏訪山吉祥寺」の門前町の住民が、江戸時代の明暦の大火で焼失した際、元の門前町を大名屋敷として再建することにし、門前の住人には新たに幕府が札野・牟礼野と呼ばれた幕府の御用萱場を代地とし、それに応じた住民が開墾して吉祥寺村と名付けられたことに由来している。
吉祥寺前を過ぎ、本郷通りを南下すると向丘二丁目停留所。ここは[草63]白山上の最寄り停留所であり、停留所は異なるが互いに乗換可能だ。本郷通りと白山通りが近接しているところでもある。このあたり一帯は寺社仏閣街で、道の両脇には多くの寺社を見かける。
東大農学部前から先は左手に東京大学の敷地に沿って走る。車窓には正門や赤門が車窓に広がり、また道の反対側には学生街らしく古本屋等も見られ、ちょっとした観光気分である。
本郷三丁目駅を過ぎると車窓はオフィスビルが立ち並ぶようになり、本郷二丁目の交差点で経路が別れる。朝方に運行される御茶ノ水駅行はこのまま本郷通りを直進し神田明神の前を経由し明神下の交差点の手前で外堀通りへと進路を変えて、外堀通りの昌平坂を登って御茶ノ水駅前に到着となる。
一方の秋葉原駅行きは、交差点を右折して順天堂大学病院を過ぎ、ここから先は外堀通りを神田川沿いに進んで、御茶ノ水駅に到着する。丸ノ内線の入口が目の前にあり、JRは御茶ノ水橋を渡った向かいにある。
御茶ノ水駅を出発すると聖橋をくぐり、湯島聖堂を左に見て昌平坂を下る。総武線の橋梁の下を通ると秋葉原エリアだ。このあたりの景色も以前とは一変して、家電量販店やパソコンショップの姿は少なくなり、サブカルチャー関連の店が目立つようになった。
山手線のガードを通りワシントンホテルの前を左折すると、バスは秋葉原駅に到着である。

歴史

 本郷通り上の路面電車は、明治37年に須田町~本郷三丁目が開業したのを皮切りに順次北上し、大正12年に駒込から飛鳥山まで開通したことで完成を見た。ここから先は違う私鉄である王子電車(→昭和17年に東京市電に統合)の軌道があり、元々の市電としては飛鳥山止まりであった。昭和8年現在では本郷通りから中央通りに転じて銀座・新橋に達する19系統(飛鳥山~本郷三丁目~須田町~新橋)という設定で、昭和19年5月の戦中の路線短縮で33系統(飛鳥山~京橋)に改番された。終戦直後はさらに短縮運転となり、番号こそ19系統に戻ったものの飛鳥山~須田町となっていた。昭和22年頃に日本橋まで再延長され、さらに昭和24年12月に旧王子電車の線路に入り、王子駅まで1区間延伸した。その後、昭和33年3月に都心側も日本橋から通り三丁目まで1区間延伸し、廃止時まで続く形となった。隣の白山通り経由の都電ほどではないが、本郷通りを唯一走り抜ける都電として乗客は多く、ピークの昭和30年度には74,939人/日、駒込~本郷三丁目は292回の運転回数を記録している。しかし、それ以降は丸ノ内線の本郷三丁目駅の開業等もあって漸減し、廃止前の昭和43年の調査では40,075人/日、駒込~本郷三丁目は202回と2/3になっていた。本郷三丁目の折り返し本数が増えたのも地下鉄の影響があったことを示しているだろう。
 なお、都電時代は現在とは異なり御茶ノ水駅前を通らず、本郷三丁目から神田明神を通って昌平橋・万世橋へと抜けていた。
 昭和46年3月に全線が廃止されてバス代替され、都電をそのままなぞるルートで王子駅~東京駅八重洲口を結んだ。通り三丁目では中途半端な上に折り返す場所もなく、近くの駅に接着するという意味では当然の措置であろう。代替当初は八重洲口構内には乗り入れず、外堀通りを挟んだ現在の房総方面高速バス兼臨時バス乗り場に発着し、鍛冶橋・京橋経由で中央通りに戻っていたようである。そのため、八重洲口発のみ鍛冶橋停留所に停まっていた。八重洲口ターミナルの容量不足でもあったのだろうか(下図の「ロ」)。
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▲バスルートマップ 東京交通地図(運輸経済研究センター、昭50頃)
 しかしながら、昭和52年12月に[橋62](新橋~須田町~飯田橋~池袋駅東口)が廃止されることになり、須田町~新橋を走破する路線がなくなるため、代わりに通り三丁目からそのまま南進して新橋まで向かうこととなった。新橋~王子駅では長すぎるということか、新橋発着は駒込まで、王子発着は御茶ノ水までと系統が分割され、系統番号は茶51に変更された。今だったら[橋51][茶51]とでもするところだろう。系統番号は甲乙で区別したが、都心側の路線が「乙」だったのが不思議である。御茶ノ水~駒込の重複部分の多さを考えると、系統分割をすると却って非効率な面もある気もするが、やや不思議な分割だった。
 結局、銀座線の真上を走り抜ける需要はないということか、昭和54年11月の改編で新橋発着は東京駅八重洲口まで短縮され、元のさやに戻されてしまった。しかし系統は再度統合されず、分割状態のままであった。また、この時期になると八重洲口ターミナルに余裕ができたのか、ようやく構内に乗り入れるようになった。
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 基本的には、この時点の路線の姿がベースとなったが、都電営業所の跡地の一部だった駒込駅北口の折返所を使わなくなって現在の南口へと移ったり(昭和61年)、八重洲口から北口へのターミナル移動があったり(平成6年)と、細かな変化があった。前者のタイミングで[茶51甲][乙]の系統番号が逆転したようで、これ以降は東京駅側が甲、王子駅側が乙となる。
 後者は八重洲口のターミナルが手狭で、北口がかつての路線廃止で余裕があるという理由もあったのだろうが、八重洲口時代と比べてやや不便な乗り場になった感は否めない。このときより、本郷通りを並行する[東43](東京駅北口~荒川土手)との区別のために灰色地の方向幕となった。都市新バス・
青梅以外で色地幕を採用したのは初であった。
 さて、乗客数に変化が起きるのが、南北線の開通である。平成3年11月に赤羽岩淵~駒込が開通、平成8年3月には四ツ谷まで延伸された。平成初期には甲(駒込~東京駅)が72往復、乙(王子~御茶ノ水)が平日105.5往復あり、駒込~御茶ノ水の区間運転は1往復とレアだったが、地下鉄の開業とともに全体的に本数を減らし、駒込~御茶ノ水の区間運転が目立つようになって行く。特に都心寄りの甲線の減り方が早く、平成6年7月改正で52往復、11年1月改正では31往復まで減っていた。乙線も地下鉄並行の駒込~王子が削減され、この改正では平日昼間は10~12分おきで、王子~御茶ノ水、駒込~御茶ノ水、駒込~東京が順番に運転されるようになっていた。
 平成12年の大江戸線改編では2系統を統合し、王子~駒込、御茶ノ水~東京は切り捨てられ、駒込駅~御茶ノ水駅という短区間運転のみ残った。駒込以北は固定客も少なからずおり、どちらかというと便乗廃止と言われかねないものだっただろう。短縮後も減便が続き、平日昼間は特に減少著しく、ノンステップ指定が入るまでは古い車も多く見られ、30分間隔の時間帯も出現した。
 久々の積極的な動きとなったのが、平成19年春に実施した秋葉原駅への延長である。朝夕を除く全便が御茶ノ水駅から直進し、停留所の復活した万世橋に停車し、秋葉原駅のヨドバシカメラ前の再開発広場で終点になるという設定である。沿線からは直接行きづらい区間を結ぶという意味では意欲的な設定である。神田明神を通らない区別もこめて、秋葉原駅発着便の方向幕は橙色地となった。
 目論見は当たったようで、平成20年春の改正では夕方から最終までの全便も秋葉原駅まで延伸され、平成23年春の改正では朝にも運転時間帯が拡大し、御茶ノ水駅発着は早朝に僅かに残るのみとなった。運用数を増やすまでは行かないのか、延伸と引き換えに少しばかり本数が削減されたのは残念だが、その後は本数も安定しており、成功した改編と言えるだろう。欲を言えば、もう少しばかり本数が多ければ嬉しいところなのだが。
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神田明神経由

 都電時代は、歴史の甲でも述べた通り、本郷から外神田二丁目までは神田明神経由となり、御茶ノ水駅を無視していた。これは、そもそも本郷と順天堂の間に線路がなかったからだが、軌道を敷いた当時は駅への連絡が重視されていなかったのだろう。
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▲昭和35年現在
 バス代替時もこれと同じルートで走ったため。御茶ノ水駅に至るのは僅かに設定されていた王子・駒込~御茶ノ水の折り返しのみだが、現在とは異なり、本郷三丁目から順天堂病院・御茶ノ水駅に出て終点となり、駒込方面は外神田二丁目・神田明神経由と今の折り返し経路と逆転していたのが興味深い。なお、経路の都合なのか、外神田二丁目には停まらなかったため、御茶ノ水駅を出ると次は神田明神となっていた。
 これでは時流に合わないということか、昭和53年頃に経路が変更され、本線は御茶ノ水駅に立ち寄るように、また御茶ノ水駅折り返しも現在と同じように神田明神先回りに変更された。やはり駅に接着したほうが便利ということなのだろう。折り返しが逆転した理由だが、もしかしたら御茶ノ水駅始発待ちの待機スペースを考えた場合に、聖橋寄りに置いておける余裕のあるほうを選んだのかもしれない。
 なお、通過していた外神田二丁目に[茶51]御茶ノ水駅行きが停まるようになったのは平成8年頃のことであった。
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▲昭和48年現在
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▲平成10年現在

秋葉原延伸と停留所

 秋葉原駅への延伸により、医科歯科大の入口付近にあるバスベイに乗り場が復活した。かつては[茶51]の東京駅方面、[秋76](新宿車庫~秋葉原駅東口)の秋葉原方面の2系統が停車したが、平成12年の大江戸線改編で廃止されて以来は空きスペースになっていた。それが延伸で復活したが、以前のような電照式ポールでなく、ダルマ型が建っているだけなのは少しばかり残念である。もう一つ残念なのは、次の外神田二丁目(万世橋方面)は復活とならず、御茶ノ水駅方面のみ停車となったことだろう。次の万世橋は廃止停留所から復活したが、万世橋(秋葉原方面)と外神田二丁目が近く復活に至らなかったのかもしれない。
 最後に残念なことを挙げるとすれば、秋葉原駅の構造上、秋葉原駅発はヨドバシカメラを回り込むように昭和通りに出て大回りするが、万世橋まで停留所がないことである。せめて書泉ブックタワー付近に停留所があれば便利だと思うのだが、現在の千代田区コミュニティバス「風ぐるま」が停まっているバス停を利用できないものだろうかと通る度に思う。

学バスの出入庫

 ここ数年の都営バスはは運用に工夫をこらしたものが増えている。巣鴨では、平成19年から学バス[学01][学07](東大構内~上野駅・御茶ノ水駅)を担当するようになったが、出庫して駒込駅から御茶ノ水駅まで[茶51]で来て、折り返し[学07]になるものが現れた。さらに、秋葉原駅まで片道運行した後、そこから上野駅まで回送して[学01]の運用に入るというものも存在する。御茶ノ水駅発着がほとんど全廃された今では、平日に[学07]で御茶ノ水駅に到着後、秋葉原駅まで回送して[茶51](秋葉原駅→駒込駅)で入庫、という1運用が残っているのみだが、こういった工夫は面白いと言えるだろう。

[茶51八]

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 主要停留所の電照式のポールには、昭和末期頃に乗客の利便性を図って交差点の乗り場案内図が描かれた。今でも少なくない停留所で残っているが、駒込~東京の系統番号として乗り場案内図に出現したのは[茶51八]という表示だった。他にも、停留所の時刻表の系統番号表記でも使われていた。今でも一部のポールに当時の図がこっそりと残っているが、記念物として保存してほしいくらいだ。
 ちなみに、方向幕では最後まで[茶51甲/乙]を表示することはなかった。都営バスでは、あまりにも経路が違う場合でないと枝番号を表示しないのが伝統のようだ。

日本橋三越行き

 昭和63年から平成6年まで運転されていたのが[茶51]日本橋三越行きである。何とも中途半端な行き先だが、実は[東22乙](東京駅北口~IBM箱崎ビル)の出庫用だった。当時は[茶51]が東京駅八重洲口発着だったこともあり、本線から外れる日本橋三越で終点となり、そこから東京駅北口までは永代通りを回送し、平日朝に2~3本運転されていた。
 平成6年に[茶51]が東京駅北口発着に変更となってからは、[茶51]本線で出入庫を行えるようになったため、この表示は見納めとなった。東京駅北口到着後、[東22乙]まで方向幕を大回転させる姿も思い出深い。
 その後も、箱根駅伝の交通規制で一時使われたことがあったようだが、平成12年の路線短縮と[東22乙]からの撤退で見納めとなった。
日本銀行経由
 昭和45年に銀座・上野からスタートした中央通りの歩行者天国は新橋~上野の全区間に拡大され、一時期は東洋一の長さを誇る歩行者天国となった。警視庁の資料によれば、日本橋地区(京橋付近~室町三丁目)は昭和47年7月、万世橋地区(室町三丁目~万世橋~末広町駅)は昭和48年6月となっている。
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▲迂回経路(通常時は点線)
 これにより、中央通りを通る系統は原則として外堀通りに迂回することになった。[東51]は東京駅八重洲口から外堀通りを北上し、鎌倉橋を右折して外神田二丁目に向かっていった。呉服橋・日本銀行については昭和57年の[楽67](有楽町駅~池袋駅東口)短縮後に、鎌倉橋・小川町駅については平成2年の[東71](東京駅北口~高田馬場駅)短縮後に一般系統は通らなくなって路線図からは消えたが、迂回専用停留所として残っていた。停留所の部分が水色地になっているのが迂回用停留所の印である。
 昭和47~48年の過渡期については、東京駅~室町三丁目のみ迂回となっていたと考えられるが、詳細はよく分かってない。
 [東51]→[茶51]については起点が八重洲口から北口に変更となったが、迂回は今まで通り続けられていた。経路が異なるために迂回時専用の方向幕が作られ、東京駅北口変更後は「プロムナード」の表示も入るようになったが、果たして「プロムナード」は乗客に通じる一般的な単語だったのかは気になるところだ。
 この地域の歩行者天国は、平成10年末をもって休止となったが、迂回は平成11年頃まで続けられていたようだ。鎌倉橋などの迂回専用の停留所も、平成14年頃まではそのまま現地に放置されていたが、いつしか撤去されてしまい跡形もなくなってしまった。

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