担当営業所
志村営業所
運行区間
系統 | 区間 | 距離 | 備考 |
本 | 常盤台教会~大山~池袋駅東口~江戸川橋~九段下~東京駅北口 | 13.372km |
年表
系統 | 年月日 | 営業所 | 距離 | 概要 |
104 | S22. 6.25 | 小滝橋 | *** | 大山~池袋駅東口~東京駅北口が開通、国際と相互乗り入れ |
104 | S22. 9. 1 | 小滝橋 | *** | 常盤台駅~大山を延長 |
104 | S23.12.20 | 小滝橋 | 21.552km | 成増駅~常盤台を延長、常盤台駅~東京駅北口は折返し系統に |
104 | S26 | 大塚 | 19.162km | キロ程修正? |
104 | S37.12.15 | 大塚 | 19.162km | 東京駅北口、丸の内1付近で経路変更 |
104 | S39. 9. 1 | 大塚 | 19.902/18.872km | 成増駅入口~東京駅北口に変更、成増駅~新町を新町→長本→成増駅入口→旭町→新町とループ状にする |
104 | S42.10. 1 | 大塚 | 13.372km | 常盤台教会~東京駅北口に短縮とする |
104 | S46. 3.17 | 志村 | *** | 志村に移管 |
東50 | S47.11.12 | 志村 | *** | 新系統番号化、東50とする |
東50 | S50. 9. 3 | 志村 | *** | 常盤台教会~東京駅北口を廃止 |
路線の概要
東京駅北口から飯田橋・池袋駅東口を経由して常盤台教会を結んでいた。国際興業との共同運行だった。
東京駅丸の内北口を出ると旧国鉄本社の裏手に回り、大手町の交差点を直進して内堀通りへと右折する。そのまま内堀通り沿いに気象庁・竹平町・千代田区役所を通り九段下交差点を直進、ここからは現在の[飯64](小滝橋車庫~九段下)と同じように飯田橋駅から江戸川橋まで進み、江戸川橋交差点を右折、首都高5号線に沿うように護国寺・雑司ヶ谷霊園・東池袋を経由して池袋駅東口に到着する。
駅前ロータリーでUターンして今来た道を戻り、東池袋の交差点を左折し、現サンシャイン脇を通り過ぎ、六ツ又陸橋から山手線への外側へと抜ける。ここからは川越街道を直進、環七を過ぎて次の交差点で右折、東武東上線の踏切を渡りときわ台駅のロータリーへと入る。ここが終点ではなく、線路沿いに進んだ次の常盤台教会が終点となる。線路脇に都営の操車所があった。
路線の歴史
終戦後最初に新設された都心~郊外の相互乗り入れ7路線のうちの1つを前身とする。戦後すぐは、郊外への人口転出と物資不足による限られた輸送力で鉄道の混雑が大幅に悪化しており、鉄道の補完で郊外から都心へ直通するバスを運行する計画が立てられた。
GHQがGMCトラックの払い下げによる新車の割り当てとセットでバス路線を新設することを要請したこともあり、交通局は独自に直通長距離路線を計画したが、主要街道沿いは郊外の民営各社の既存路線と重複しており、営業権を侵害するとの強硬な反対に遭った。だが、輸送力増強は急務であったため、運輸省も裁定に乗り出し、都営と民営各社が協定することで相互に乗り入れる形式を取ることとなった。
本系統の場合は、東京駅から池袋一丁目(六ツ又陸橋交差点)までは都営の免許、そこから郊外までは東都乗合(現・国際興業)の免許を活かし、協定を結んで通し運行を可能としたものである。
▲運輸省への常盤台延伸時の免許申請書類。東都単独で池袋駅西口~常盤台駅の設定があったことや、常盤台駅はロータリーで折り返したことが分かる
当初の計画は武蔵常盤駅(昭和26年にときわ台駅に改称)までの運行だったが、運行の余力の問題もあったのか、昭和22年6月の[104]開通時は都営バスが大山 まで50往復、東都のみ武蔵常盤駅まで10往復運転となった。なお、この当時は六ツ又陸橋がなかったため池袋駅東口を右折して旧豊島区役所側から六ツ又交差点に入り、左折して線路を越えていた。
3か月後の9月には両者とも武蔵常盤駅発着となり、翌昭和23年には川越街道を直進して成増まで延伸され、20kmを越える長大路線となった。申請時の文書には、常盤系統が計画以上の成績となっており、東武東上線の混雑緩和に貢献することが述べられている。もっとも、成増までの運転は両者9往復ずつに限られていて、常盤発着は30往復ずつとなった。ただし、この延長以前に東都は単独で池袋駅西口~成増駅が開通(後に池袋駅東口発着も開設)しており、常盤台以遠も本数は確保されていた。
昭和35年の調査では、練馬北町・常盤台から池袋をまたぐ需要や、護国寺・江戸川橋・九段下での乗降がかなり多い。一方、成増寄りは1時間に1本程度とあって乗客は少なく、渋滞で定時性も低下していった。
▲昭和40年現在の路線図
昭和39年には成増駅のロータリーが手狭になったために川越街道上の成増駅入口が終点となり、ループ状に折り返すようになった。成増駅入口からそのまま川越街道を下って県境手前で二回左折して向きを替え、今もバスが走る旭町・成増小学校を走って川越街道に再合流したのだろう。同時期に常盤台駅発着は常盤台教会まで1区間延長されている。昭和40年代に入ると 赤字による財政再建が始まり、長距離系統で非効率になっていたと思われる成増系統は昭和42年10月と早期に廃止された。
この系統にとどめを刺したのは有楽町線の開業である。昭和49年10月に池袋~銀座一丁目が開通し、東池袋・護国寺・江戸川橋の各駅が誕生したことで大幅に乗客が減った。九段下から都心側の経路は異なるが、 [飯64](小滝橋車庫~茅場町)などで代替可能だったということか、他の再編に先駆けて昭和50年9月に廃止された。
開通当初の所管は小滝橋であったが昭和26年頃に大塚に移管し、昭和46年3月に志村に転出となり、最後の4年間は志村が担当した。
昭和30年代の川越街道には国際興業・東武の池袋~川越を始めとしてさまざまな系統が走っていたが、渋滞の悪化もあり昭和40年代に急速に縮小が進んだ。東武の[池41](東武百貨店~東武練馬車庫)・[増35](東武練馬車庫~成増駅南口)は昭和50年頃に廃止、国際興業の[池58](池袋駅東口~朝霞警察署)は昭和48年に成増駅南口までに短縮され、[下赤01](下赤塚駅~志木駅南口)を分離、前者は昭和58年に[練93](池袋駅東口~練馬北町車庫)に再度短縮された後、現在は昭和61年に開通した[光02](池袋駅東口~練馬北町車庫~光が丘団地、後に光が丘駅発着に変更)に引き継がれている。
後者は昭和59年頃に[増15](成増駅入口~朝霞台駅南口、後に朝霞駅南口)となって都県境近くまで後退し、出入庫として練馬北町車庫発着の[練96/97]が残っていたが、平成15年に全廃。細々と1本だけ残っていた[増15]も平成21年に廃止された。