都営バス資料館

南千住営業所

車庫の概要

 南千住営業所はJR・つくばエクスプレス・東京メトロが集まる南千住駅に隣接し、メトロの南口の目の前にある。といっても駅と営業所の間にはJR貨物の隅田川駅に至る線路が地上を走っており、道路は下を、歩行者は歩道橋で渡ることになる。都営南千住二丁目アパートの高い建物が目印で、営業所の建物が同居している。周囲は山谷地区の安宿が並び、近年にはバックパッカーにも人気なエリアとなっている。
 営業エリアは下町の台東区・荒川区・墨田区が中心となっており、沿線には上野・浅草という一大商業・観光地を抱え、かつてはこの二か所を結ぶ二階建てバスを、現在は夢の下町バス[S-1]を担当するなど、観光系統とも縁が深い。日暮里駅と総武線を環状に結ぶ[里22]なども担当しており、本数の多い系統が中心になっている。

所管系統

系統・枝番 起点、経由地、終点           備考 キロ程(往/復) 平日 土曜 休日
上46-1 南千住駅東口~隅田川貨物駅~吉原大門~浅草寿町~上野松坂屋 8.103km 55 51 62 58 58 56
上46出入-1 隅田川貨物駅→吉原大門→浅草寿町→上野松坂屋 4.983km 2 1 1
上46出入-3 南千住駅東口←隅田川貨物駅 3.120km 4 5 2
上46出入-2 南千住車庫←隅田川貨物駅←南千住駅東口 3.385km 6 6 8
上46-2 南千住車庫~吉原大門~浅草寿町~上野松坂屋 5.113km 8 14 4 9 7 10
里22 日暮里駅~三河島駅~荒川区役所~泪橋~白髭橋東~中居堀~亀戸駅 9.416km 60 60 56 54 35 35
里22出入-1 南千住車庫←泪橋←白髭橋東←中居堀←亀戸駅 5.442km 7 5 3
里22出入-2 南千住車庫←泪橋←荒川区役所←三河島駅←日暮里駅 4.474km 8 6 5
里22出入-3 日暮里駅←三河島駅←荒川区役所←泪橋←橋場2 5.071km 3 1
里22出入-4 泪橋→白髭橋東→中居堀→亀戸駅 5.192km 7 3 2
里22出入-5 泪橋→荒川区役所→三河島駅→日暮里駅 4.224km 7 8 9
里22プロム 日暮里駅~三河島駅~荒川区役所~泪橋~白髭橋東~中居堀~亀戸駅 9.816km 21 20
東42-1 南千住車庫~今戸~東武浅草駅~浅草橋~日本橋~東京駅八重洲口 7.147km 12 13 21 27 28 28
東42-2 南千住車庫~今戸~東武浅草駅~浅草橋~東神田 4.875/5.096km 35 34 26 20 22 22
東42-1-1 南千住駅西口~今戸~東武浅草駅~浅草橋~日本橋~東京駅八重洲口 7.331/7.486km 25 24 21 15 10 10
東42-2-1 南千住駅西口~今戸~東武浅草駅~浅草橋~東神田 5.059/5.435km 34 35 17 23 11 11
東42_3 南千住車庫(←清川1、橋場1→)東武浅草駅~浅草雷門 3.630/3.520km 13 13 13 13 9 9
都08 日暮里駅~下谷警察署~東武浅草駅~本所吾妻橋~錦糸町駅 7.180km 100 103 84 86 73 74
都08出入-1 東武浅草駅~本所吾妻橋~錦糸町駅 3.240km 3 2 2 1 1
都08出入-2 日暮里駅~下谷警察署 1.720km 11 16 7 8 5 7
都08出入-3 本所吾妻橋→錦糸町駅 2.600km 1 1 1
錦40 南千住駅東口~白鬚橋~とうきょうスカイツリー駅~錦糸町駅 7.845/7.965km 10 10 10 10 10 10
上46出入-4 南千住駅東口←南千住3(雨降り) 2.250km ** ** ** ** ** **


現在

基本データ

住所 新谷町…台東区新谷町1番地(昭和22年3月14日までは浅草区)
開設期間 新谷町…昭和3年2月22日~昭和50年12月20日
交通機関 新谷町…バス:入谷二丁目 鉄道:[地下鉄]入谷
基本配置 南千住…旧基本車種:三菱(三菱)、旧合成音声機:クラリオン、旧次停留所機:クラリオン

沿革

年月日 できごと
T13. 3.16 横網出張所を開所
T14 横網出張所を移転改称、業平出張所が開所
S 3. 2.22 業平出張所を移転改称、新谷町出張所が開所
S20. 6.16 千住自動車営業所新谷町分車庫に格下げ
S21. 4. 1 復旧、新谷町自動車営業所に格上げ
S34.11. 1 南千住営業所青戸分車庫を開設
S46. 3.18 都電の南千住電車営業所を廃止により、跡地を仮の分車庫として利用開始
S50.12.21 全面移転して南千住自動車営業所に改称
H18. 4. 1 (直営)南千住営業所青戸分駐所を開設
H20. 4. 1 南千住営業所青戸分駐所を廃止

歴代所管一覧

年月日 所管開始時の区間 所管開始 所管終了 備考
11→草41 西新井橋~浅草寿町 S21. 4. 1 S52.12.15 →移管(千住)
14 浅草寿町~吾嬬西九丁目 S21. 4. 1 S22.11.30 →延長[109]
23→里23→都08 浅草寿町~錦糸町駅 S22. 4.21 運転中
109 金町駅~上野広小路 S22.12. 1 S34.10.31 →移管(青戸)
16→上46 浅草寿町~汐入 S23.12.15 運転中
8 吾嬬西五丁目~上野広小路 S24. 9. 1 S25. 8. 7 →延長[125]
124→上34 市川駅~上野広小路 S25. 8. 8 S50.12.20 →移管(青戸)
125 吾嬬西五丁目~上野広小路 S25. 8. 8 S34.10.31 →移管(青戸)
39 吾嬬西九丁目~浅草寿町 S27. 2.15 S34.10.31 →移管(青戸)
46 四谷駅~代官町~東京駅北口 S30. 4. 1 S41.10.31 廃止
62 四谷駅~新富町循環(外回り) S30. 4. 1 S37.10.31 →撤退(目黒)
67 日暮里駅~新橋 S30. 4. 7 S46. 3.16 廃止
69 金町駅~東京駅北口 S31. 6.20 S34.10.31 →移管(青戸)
68 新小岩駅~浅草寿町 S37. 6. 1 S46.10.31 →移管(青戸)
65 日暮里駅~東京駅八重洲口 S41. 3.10 S46. 3.16 廃止
522→東42 南千住~東京駅八重洲口 S46. 3.18 運転中
里22 日暮里駅~亀戸駅 S52.12.16 運転中
東42乙[1] 南千住~岩本町 S54.11.23 S57.12.25 廃止
二階バス 上野広小路~浅草雷門 S56. 4. 1 H13. 3.30 廃止
東42乙[2] 南千住~浅草雷門 S61. 9. 1 運転中
めぐりん 二天門~二天門 H13. 6.29 H16. 3.31 →移管(日立自動車)
南千40 南千住駅東口~墨田一丁目循環 H14. 4. 1 H18. 3.31 廃止
南千48 南千住駅東口~亀戸駅 H14. 4. 1 運転中
墨38 東京リハビリテーション病院~両国駅 H15. 4. 1 H18. 3.31 →移管(青戸)
南千47 南千住駅東口~日暮里駅 H17. 5.30 H25. 3.31 廃止
錦37 錦糸町駅~青戸車庫 H18. 4. 1 H20. 3.31 →撤退(青戸)
草64 池袋駅東口~浅草雷門(南) H18. 4. 1 H22. 3.31 →撤退(巣鴨)
上26 上野公園~亀戸駅 H19. 3.26 H21. 3.31 →移管(青戸)
S-1 東京駅北口~両国駅 H20. 4.26 運転中

車庫の歴史

この営業所の歴史は、大正13年の東京市バス創業時にまで遡ることができる。大正12年9月1日に東京を襲った関東大震災は、市電にも壊滅的な打撃を与えた。街が復興するとともに交通機関への需要も高まり、横網の地に営業所を構え市電代替輸送を行ったのが始まりである。当時の事業大要(大正13年度)では住所は本所区横網町1-20となっており、清澄通り沿い、旧陸軍被服廠跡地にあったようだ。現在の東京都慰霊堂・復興記念館があった地区と思われる。
 その後、大正14年に業平に車庫を移す。業平橋出張所の住所は本所区中ノ郷業平町171となっており(事業大要、大正14年度)、現在の浅草通り沿い、業平橋の東側にあったようだ。ただし、いずれも仮設の車庫だったのは間違いないようで、昭和3年に浅草区新谷町(現千束一丁目)に移転し、新谷町出張所と名乗った(昭和5年より営業所に改称)。営業所の開所は2月だったが、営業所の6月に工事が開始され、8月に竣工した。
元々この地には大正10年頃に開設された市電浅草車庫があったが、入れ替わりに南千住に移転したため、バス車庫として改めて開設された。
 新谷町は明治になってからつけられた町名で、伊予新谷藩の領主加藤大蔵少輔の邸地となったことから命名されたと言われる(浅草区史)。市電時代の車庫名に比べて、狭い町名を営業所名にしたのは興味深いが、それほどメジャーな名だったのだろうか。

 その後、バス需要の高まりとともに路線も増え、昭和9年末の時点では[14]柳島~雷門~駒込橋、[15]千住新橋~上野駅~新橋、[16]千住新橋~三ノ輪~亀戸駅、[17]南千住~浅草橋~砂町、[18]玉ノ井~上野広小路、[19]押上駅~東京駅乗車口、[21]雷門~東京駅乗車口、[22]三河島(町屋)~道灌山下~上野広小路、[56]三ノ輪~白鬚橋の各系統を所管した。北東方面の上野・浅草方面の系統をほとんど持っていたことがうかがえる。
 市バス拡張計画で昭和10年に千住営業所が開設されると、日光街道方面の[15][16]や[21]が千住担当となり、路線が分散された。それ以降も営業所エリアの拡張は続き、昭和11年度に[22]は尾竹橋まで延伸、[56]が[29]三ノ輪橋~亀戸駅~大島になり、昭和12年度には[30]平井駅~雷門、[36][37]大島~亀戸駅~玉の井・浅草循環が開通した。
 昭和14年度は路線と系統整理が行われ、新谷町担当は5系統に集約された。
・[14][22]→[22]西新井橋~道灌山下~上野駅~押上駅~吾妻西九丁目(→千住に移管)
・[17]→[25]南千住~田原町~浅草橋~南砂町二丁目
・[18][36][37]→[21]向島更生小~白鬚橋~松坂屋
・[19]→[27]押上駅~浅草橋~東京駅乗車口
・[30]→[26]平井駅~柳島~押上駅~日暮里駅
・[29][36][37]→[28]三ノ輪~大島車庫~南砂町
 その後、昭和16年に大島営業所が開設されて多少の所管変更があり、昭和17年に交通調整による市バスの一元化があったが、元々市バスエリアの内側だったこともあり、系統番号が変化した程度で、大きな変化はなかった。新たに王電から吸収した[38](熊野前~三ノ輪~雷門)を担当するようになった程度である。
 並行して浅草通りを走っていた青バス(東京地下鉄道)の系統(押上駅~新橋駅、押上駅~東京駅降車口)は新設の業平営業所で運行を続けたが、戦時中の規模縮小により営業所・路線ともに新谷町に統合された。
 市電並行となる都心部寄りは統廃合が進み、重複区間の整理も進んだ結果、都制施行後の戦争末期の昭和19年度には以下の5系統となっていたようだ([21]西新井橋~道灌山下は千住担当だったと思われる)。
・[20]田端駅~三ノ輪~浅草
・[22]大島車庫~亀戸駅~三ノ輪
・[24]吾妻西九丁目~浅草
・[26]平井駅~押上~浅草
・[32]境川~浜町中ノ橋~浅草
 これでも昭和10年代前半の路線網が何とか残っていたことが分かるが、昭和20年3月の東京大空襲で沿線が壊滅的な被害を受けて路線休止を余儀なくされ、復活した系統はごく僅かだった。その後の空襲もあり、6月16日の改編で新谷町は一旦千住の分車庫となった。新谷町由来の系統は亀戸駅~三ノ輪車庫、浅草~吾嬬西九丁目の2系統が残るのみだった。
 もっとも、分車庫時代は長かったわけではなく、終戦直後の昭和21年3月の改編で営業所格に復帰し、[11]西新井橋~鶯谷駅~浅草寿町(→[草41])、[14]浅草寿町~吾嬬西九丁目の2系統を分離して再スタートを切った。明治通り沿いの系統が千住持ちになり、[11]は長らく千住で持っていたのがシャッフルされている。戦前戦後の航空写真を見ると、車庫の中央に屋根つきの大掛かりな車庫があり、露天の面積はほとんどなかったことが分かる。戦前からの歴代の航空写真を見比べる限り、大きな屋根つきの車庫は変わっていないようだ。

その後も路線復興は進み、昭和22年4月には[23]浅草寿町~錦糸町駅(→[都08])が、23年12月には[16]浅草寿町~汐入(→[上46])が開業した。
 同時期に進んだのが水戸街道沿いの路線拡張で、葛飾区の各地から都心方面への足を確保しようとした動きである。京成との相互乗り入れの形で次々に路線が開設されていった。まず昭和22年12月に[14]が[109]金町駅~上野広小路に延伸され、昭和25年8月には[124]市川駅~上野広小路、[125]吾嬬西五丁目(現八広二丁目)~上野広小路が開通した。[125]はほどなくして葛飾区の青戸公団住宅まで延伸されている。
 昭和30年代に入ると、都心にも手を伸ばすようになり、官庁街循環の[46](四谷駅~東京駅北口)、[62](四谷駅~東京駅・新富町循環)を新たに担当するようになった。どの営業所も担当できる距離だが、比較的余裕があったということだろうか。さらに、昭和30年には[67](日暮里駅~新橋)を、昭和32年には共同運行ではなく単独系統として[69](金町駅~東京駅降車口)を、昭和37年には[68](新小岩駅~四ツ木橋~浅草寿町)を開通している。他社(京成)エリアに新たに食い込んだ例として興味深いところだ。
 これらの開業により手狭になってきたこともあり、昭和34年11月には青戸分車庫が開設され、[39][69][109][125]が青戸に移管された。これ以降は青戸の歴史の項も参照のこと。[68][124]も青戸に移管したほうが便利だが、そこは受け持ちバランスを考えた上なのだろう。
 昭和40年代に入ると、財政再建・都電代替とともに不採算な系統を廃止する動きが加速する。都心循環線[46]は昭和41年に廃止、[11](足立梅田町~東京駅八重洲口)は2分割しされて[11](足立梅田町~浅草寿町)と[65](日暮里駅~東京駅八重洲口)に分割されるも、昭和46年3月には[67]とともに[65]が廃止され、[68]は青戸に移管された。3系統を廃止して代わりに受け持ったのは都電22系統(南千住~通三丁目)代替の[522](南千住~東京駅八重洲口)で、多くの本数が必要だったことが分かる。新谷町に加え、南千住の都電車庫跡も分車庫として応急的に使うようになったようだ。交通局の年史では車庫の跡地から代替バスが出発する写真も見ることができる。なお、車庫の目の前には都電31系統(三ノ輪橋~都庁前)が通っていたが、昭和44年10月にバス代替されると千住営業所が所管した。担当のバランスを考えたのだろうが、よく考えると少し不思議と言える。

 青戸に郊外側の長距離路線をほぼ移管していたこともあり、中距離で郊外直通が少ない系統が中心だった新谷町はこれ以上の改編はなかった。代わりに起こったのが手狭で老朽化した営業所の問題である。移転先として22系統とともに都電南千住営業所の跡地を使うことになり、昭和50年12月に現地に移転した。既に昭和46年には敷地にそびえる都営南千住二丁目アパートが竣工しており幾分間が空いたが、千住営業所の建て替えで南千住の敷地を使っていた(昭和47~50年)事情もあるのだろう。こうして営業所名も南千住に改められ、新谷町の跡地は台東区立金竜小学校の敷地として使われた。同時に営業所から離れた[上34](←[124])は青戸に移管された。敷地利用自体は開設当初と変わっておらず、都営アパートの低層階が営業所の事務所として使われている。
 昭和52年12月には、千住と[草41]と[里22]の所管が交換された。営業所移転で交換したほうが効率が良いと判断されたのだろう。この時点で、所管は以下の4系統となっており、主要な路線網が現在とほぼ変わらないことが分かる。
・[里22]日暮里駅~亀戸駅
・[里23]日暮里駅~錦糸町駅
・[東42]東京駅八重洲口~南千住
・[上46]上野広小路~南千住汐入
 昭和50年代は交通局全体で数次にわたる財政再建による系統廃止があったが、ほぼ無風だった。これは全体を見渡しても早稲田・青梅くらいでかなり珍しい。浅草周辺の需要の大きい系統ばかりを持っていたこともあるのだろう。[草79](浅草公園~新宿車庫)の廃止により、昭和54年に初代[東42乙](岩本町駅~南千住)を開設して昭和57年に廃止した程度である。その後、[東42乙]は昭和61年に台東区の要請で経路を変えて復活したが、こちらは系統別データ集も参考のこと。
 これ以外の南千住の大きな出来事といえば、昭和56年に二階建てバス(上野広小路~浅草雷門)を所管したことだろう。都営初の本格的な観光系統でもあった。
 平成6年には[里23]が都市新バス化されて[都08]となり、車輛も大幅に入れ替わったが'90年代はこれ以外に路線の動きもほぼなく、平成12年の大江戸線改編でも減便改正こそあったものの路線網は無風だった。
 変化が起きるのは21世紀に入ってからである。平成13年には二階建てバスが廃止されたが、入れ替わりに台東区コミュニティバス「めぐりん」の受託運行を実施した。平成14年4月には南千住駅東口の駅前広場開設と汐入地区再開発の完了により、[南千40](南千住駅東口~日暮里駅)、[南千48](南千住駅東口~亀戸駅)が、平成17年には平日のみであるが[南千47](南千住駅東口~日暮里駅)も開業した。また、平成15年春には青戸・千住から[墨38](東京都リハビリ病院~両国駅)を移管したのも興味深い。
 これ以降は他所管への路線参入によるエリア拡大が目立つ。平成18年4月には青戸のはとバス委託による改編で[墨38]を青戸に移し、[錦37](錦糸町駅~青戸車庫)、[草64](池袋駅東口~浅草雷門南)に共管で参入した。
他との受け持ち運用数のバランスの都合と思われるが、平成19年4月は[上26](上野公園~亀戸駅)を大塚・江東から移管した。もっとも、[錦37]は平成20年4月に、[上26]は平成21年4月に青戸に移管し、はとバス移管のバッファのような役割だったのかもしれない。[草64]も平成22年3月で撤退し、池袋への乗り入れは短期間に終わった。
 入れ替わりに、平成20年3月には[里48](日暮里駅~見沼代親水公園駅)に参入した。本数は多くないが、舎人ライナーの代行時の臨時便としても活躍している。また、平成20年4月には新たな観光系統として[S-1](東京駅北口~両国駅)が開通し、平成24年春には[都08急行](日暮里駅~錦糸町駅)も開設されるなど、近年開場した東京スカイツリーへのアクセスも所管路線で担うようになった。このように、旧来からある系統はそのまま、近年の新設系統を含めバリエーション豊かな系統が活躍している。
  都営南千住二丁目アパートは完成時から変わっておらず、低層階が事務所兼窓口になっている。なお、住居部分は貨物線の脇の道路側に入口がある。アパート建設時に一回全て更地になったこともあり、かつての遺構はあまり残っていない。
 隅田川駅を渡る大踏切は車道がアンダーパス、歩道がオーバーパス化され、歩道橋からは車庫の姿もよく見える。詳しくは次の「車庫と停留所」の項も参照のこと。近年になって歩道橋にエレベーターも設置された。車庫構内はアパート1Fが格納庫を兼ねており、かつての写真には見られる南側の屋根付き車庫は現在なくなっており、一番奥に整備庫があることが分かる。
 細長い車庫ではあるが、都営アパートは築40年以上が経過している。遠くない時期に建て替えの時期が来るが、その時はどのような姿になるだろうか。

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