担当営業所
江東営業所
運行区間・運行回数
系統・枝番 | 起点、経由地、終点 | 備考 | キロ程(往/復) | 平日 | 土曜 | 休日 | |||
→ | ← | → | ← | → | ← | ||||
都07 | 錦糸町駅~亀戸駅通り~境川~東陽町駅~門前仲町 | 6.840km | 168 | 165 | 156 | 155 | 147 | 148 | |
都07折返-2 | 錦糸町駅~亀戸駅通り~境川~東陽町駅 | 4.830km | 3 | 4 | 2 | 4 | 2 | 2 | |
都07折返-3 | 亀戸駅通り→境川→東陽町駅→門前仲町 | 5.810km | 1 | ||||||
都07折返-1 | 西大島駅→境川→東陽町駅→門前仲町 | 5.020km | 1 |
現在
年表
系統 | 年月日 | 営業所 | 距離 | 概要 |
錦14 | S47.11.12 | 葛西 | 6.840km | 都電38(錦糸堀車庫~門前仲町)の代替で錦糸町駅~境川~門前仲町が開通 |
錦14折 | S47.11.12 | 葛西 | 3.480km | 境川~門前仲町を開設 |
錦14折 | S54.10. 1 | 葛西 | 3.360km | 境川~錦糸町駅を開設 |
都07 | H 4. 3.31 | 葛西 | 6.840km | 都市新バス化、都07とする。愛称はグリーンスター |
都07 | H15. 4. 1 | 江東・葛西 | 6.840km | 江東・葛西の共管とする(大部分が江東) |
都07折 | H16. 3.29 | 葛西 | *** | 門前仲町~境川、錦糸町駅→葛西車庫、門前仲町→葛西車庫を廃止 |
都07 | H16. 3.29 | 江東 | 6.840km | 江東の単独所管とする |
都07 | H31. 4. 1 | 江東 | 雨降り増発ダイヤの廃止 |
路線概要
都電38系統の代替で、錦糸町駅から京葉道路・明治通り・永代通り経由で門前仲町に至る江東区内の幹線である。都市新バス「グリーンスター」の愛称がつけられている。
門前仲町~錦糸町駅を結ぶのは[東20]・[東22]、そして[都07]と3系統あるが、[都07]が最も長い距離を走り、東陽町・砂町・亀戸を通るなど江東区内の拠点を結ぶ大動脈となっている。
門前仲町は富岡不動尊の参道近く、永代通り沿いのアーケードの下に乗り場がある。毎月1・15・28日の縁日には多くの店が立ち並び、不動尊前辺りではいい匂いが漂ってくることも。
門前仲町を出発すると永代通りを東へ進む。東陽町駅前までは[東22]と同じ経路を走るが、[東22]が左折して錦糸町駅へ一直線に向かうのに対し、[都07]はそのまま永代通りを直進し、永代通り上の停留所に停車する。
東陽町駅付近は道路も整備され、道の両脇にビルが立ち並んでいるが、その中にまるで森のような一角が存在する。これは東陽町インテスという建物で、東陽町に本社のある竹中工務店の子会社などが入居するコンクリート造りのビルが存在しているが、木々に囲まれているおかげで道路からはそれらしき建物があるようには見えない。また住宅が密集しているこのエリアにとっては、この木々が清涼剤的な雰囲気をも醸し出していると言えよう。
江東運転免許試験場を過ぎると、都営バスでは数少ないJR線との踏切を通過する。小名木川貨物線と通称されるが、現在は機関車牽引の保線用車両がまれに通過するだけとなっており、この踏切が閉まったときに遭遇したら、むしろ非常に運がいいのかもしれない。
踏切を通過すると、明治通りとの日曹橋交差点を左折して日曹橋停留所に停まり、ここからは明治通りを北上する。日曹橋とは変わった名だが、日本曹達の砂町工場(現南砂三丁目第三アパート)があったことに由来する。昭和17年に交差点の南、洲崎川に架けられた橋の名だが、工場も川も跡形もなく、今は交差点にその名を残すのみである。
さて、明治通りを北上して葛西橋通りと交差すると境川の停留所となる。以前は葛西営業所の分車庫が葛西橋通りにあり、江東区内の路線の出先拠点として位置づけられていた。[都07]も以前は葛西が受け持っていたため、境川発着便が設定されていたほか乗務員交代も行われていたが、現在では定期借地権で貸し付けて回転寿司屋になり、面影は少ない。
ここから北上するにつれ、いろいろな路線が束になって亀戸方面へと向かっていく。それぞれの本数も多いため、都営バスが数珠繋ぎとなる光景がたびたび見られるほか、朝ラッシュ時においてはどのバスも乗客満載で走っており、いかにこの地域の縦方向の重要な足として使われているのが垣間見えるだろう。ひっきりなしにバスがやってくるこの通りにはバスロケーションシステムの接近表示も整備されており、途中の西大島駅や北砂三丁目では、都営バスでも1ポールで最多となるであろう接近表示が見られる。
北砂二丁目は、下町の活気のある商店街として有名な砂町銀座最寄りの停留所である。下町随一の商店街、砂町銀座(砂銀)である。丸八通りの北砂七丁目停留所まで続く670m、180店の商店街は都内最長クラスであり、鉄道のアクセスは西大島・南砂町の各駅から徒歩15~20分と不便なものの、集客力は非常に強い。これは、この地域では都電の代わりとしてバスが一定の地位を築いていることもあるのだろう。商店街の道は狭いものの、様々な店が立ち並び、銀座の名に恥じない賑わいだ。
夕方となれば買い物客の姿が多く乗降しているが、最盛期ほどの賑わいではなくなったようで、最近では小名木川貨物駅跡地に立てられた複合施設「アリオ北砂」等の影響もあるようだ。アリオ最寄りの北砂三丁目を通過し、進開橋で小名木川を渡ると西大島駅となる。地下鉄新宿線と接続する交通結節点となり、ここでの乗降も非常に多い。首都高速小松川線の下をくぐり、総武線のガードが見えてくると亀戸駅通り。亀戸駅の最寄停留所であるが、多くが降りる……ということはなく、商業集積地でもある錦糸町駅まで乗りとおす客も多い。
亀戸駅通りで左折して京葉道路を西へ。運河に架かる橋から右手車窓に東京スカイツリー、そして都営住宅が見えてくると江東車庫。この都営住宅の1階部分が[都07]の今の塒(ねぐら)だが、車庫の前を通る江東所管路線は[都07]と[急行05]・[錦18]のみというのは、いささか意外な感じがする。
そして程なく錦糸町駅に到着。都07のバスベイに付けると満載の乗客を降ろし、すぐさま車内の確認を行い停留所で並んでいる客を乗せると、休む間もなく発車する。バスが少し来ないと行列がどんどん伸びていく、活気のある乗り場である。
歴史
錦糸町駅・東陽町駅より東側の都電の区間は、もともとは城東電軌という別の会社が敷設し運営していた郊外私鉄であり、錦糸町駅のターミナルも別々に存在した。それが昭和17年の戦時統合による東京市電気局への一元化で全て市電(都電)の路線となり、統合直後は市電39系統として水神森~境川~洲崎(現東陽三丁目)~門前仲町~大手町が設定された。錦糸町・亀戸からの連絡という視点ではなく、砂町地区から永代通り経由で都心に運ぶ目的で設定されていたことが分かる。
ただし、実際の流動とそぐわないことや長距離路線の短縮という目的もあったのか、昭和17年末には錦糸堀~水神森~境川~洲崎に改められた。しばらくこのまま推移したが、昭和20年3月の東京大空襲による被災で運転休止となり、戦後も境川~東陽公園(現東陽町駅)の間はしばらく休止状態のままで、都電38系統として錦糸堀~境川~門前仲町~日本橋が復旧したのは昭和25年9月とかなり遅くなってからである。本数もあまり多いとは言えず、他の系統の補完をする役割だった。昭和30年の時点では錦糸堀車庫→洲崎が80回、洲崎→日本橋が76回。昭和35年のピーク時でも錦糸堀車庫→洲崎が151回、洲崎→日本橋が119回と3割程度は途中で折り返す設定だったことが分かる。なお、ごく僅かに日本橋から東京駅丸の内口を回って都庁前まで走る設定があった。
地下鉄東西線の開通と前後するように門前仲町折り返しの設定も出て、昭和46年3月の都電廃止時には門前仲町止まりとなった。日本橋までの軌道は残っていたが、並行する都電28系統(→[東22])が日本橋まで運行しており、距離や利用客のバランスを取った結果と言える。
昭和47年11月に都電が廃止され、バスに代替されて[錦14]となった時点では、短縮後の区間である門前仲町止まりでの設定となった。ただし、都電最盛期のように錦糸町駅~東陽町駅という運転区間は設定されず、原則通し運転するように改められた。また、水神森~西大島、南砂付近は専用軌道となっていたため、この区間は明治通り・永代通り経由となった。
[錦14]の系統番号を与えられて以来、現在に至るまで路線形態は変化ない。都電時代は本数、乗降客数ともに都電28・29(→[草28]→[両28])
系統が主力で、38系統はそれらを補完する存在であった。バス代替後もその扱いは変わらず、本数が少ない系統ではなかったが、[東22]・[草28]のほうがより本数の多い設定となっていた。
変化が起こるのは、何と言っても平成4年の都市新バス化である。
[草28]は都営新宿線の開通等で本数を減らしており、[東22]も東陽町駅以遠の永代通りは東西線と並行していることもあって、全盛期に比べると本数は落ち込んでいた。これに比べ、[錦14]は両端がターミナルで、全線にわたって乗客が多く、比較的渋滞による影響も少なく、路線長も適度という好条件が揃っていた。そこへ都市新バス化で大幅に本数も増加し、名実ともに明治通り・永代通りの主役となった。
以降、現在に至るまで城東地区の都営バスの大幹線として活躍を続けている。錦糸町駅の乗り場も、駅前出てすぐの一等地で、少しでもバスが途切れるとすぐに行列ができるなど、活気のある錦糸町駅のターミナルの中でもひときわ乗客数が多い印象だ。簡単に本数が増えない今の世でも、ダイヤ改正で本数が盛り返しているのは利用が旺盛な証拠だろう。
集客ポイントが多いのも特徴で、錦糸町・亀戸・西大島・東陽町・門前仲町といったターミナルを串刺しに結ぶほか、沿線には団地あり会社あり、さらにはどの駅からも離れていながら大きな集客力を誇る商店街「砂町銀座」(北砂二丁目下車すぐ)まであり、乗っていると各停留所での乗り降りが非常に盛んである。
この地域では都電の代わりとしてバスが一定の地位を築いていることもあるのだろうが、もしも、この地域に都電が残ることが可能だったらどうだったであろうか……と思うほどの混雑ぶりを見せている。
▲開通時のリリース、パンフ
所管の変化と出入庫
当初、[錦14]→[都07]の所管は葛西であった。都電代替とともに作られた車庫で、江東が手狭なこともあり、路線は江東区だが車庫は川向こうの江戸川区という状態であった。本来なら都電車庫の境川が適当だったのだが、都電廃止による近隣の反対運動もあり作ることができず、次善の策として、江戸川区内にまとまった土地を確保したのである。
そのため、出入庫として錦糸町駅~葛西車庫などの出入庫が多く走るようになった。昭和54年には境川車庫の跡地の一部に境川の分車庫が完成し、葛西の出先機関として車が常駐するようになった。
それ以降の出入庫の形態は少々変わっていた。入庫は通常通り、錦糸町駅・門前仲町双方から境川・葛西車庫行きが運転されるが、葛西車庫からの出庫は境川止まりで、一旦境川に入った後、改めて錦糸町駅・門前仲町行きになっていた。清砂大橋ができる前の時代であり、葛西橋の渋滞は非常に激しく、本線のダイヤに支障が出ないよう余裕を持たせて出庫させていたためであろう。葛西車庫~境川間は回送になる便も多かった。
これらの系統は葛西橋~境川も含めて全て[都07]表示であった。ただし、平成12年までは一部の一般車には[錦14]の表示が残りっぱなしであったため、[門21](門前仲町~東陽町駅~東大島駅)の入庫として運転される東陽町駅→葛西車庫の便については、[錦14]表示を見ることができた。
平成12年以降は全て[都07]に統一されたが、平成14年6月より入れ替わった方向幕では、入庫便の幕(境川・葛西車庫行き)と境川~葛西車庫が全て白地の幕となった。従来は青地の幕だったのだが、色で判別している人が多いことを考え、誤乗防止のために白地にしたのであろう。なかなか面白い措置である。
その後、平成15年4月に江戸川地区のはとバス移管を控えて江東に多くの運用が移管され、共管体制となった。この移管に合わせ、葛西担当もほぼ全便を錦糸町か門前仲町まで回送で出入庫し、食事休憩は江東車庫を使うようになった。
しかし、今まで葛西車庫への入庫便を使っていた人にとっては、既得権が奪われる形になってしまった。そのフォローとして、最終便だけは葛西担当で、葛西車庫まで営業運転するようになった。さすがにこれをなくすと、終バスが大きく繰り上がってしまうためだろう。同時に早朝深夜に限り、出入庫も兼ねて錦糸町駅~東陽町駅の区間運転が誕生した。なお、当初は葛西の思想に合わせたのか白幕だったが、途中から本線と同じく青色地に統一されている。
そして平成16年3月末からは江東単独所管となり、以来今に至るまで江東担当となっている。最終の葛西車庫行きの代替は[両28]葛西第六小学校行きとして、引き続き運行されている。
意外な痕跡
系統の概要の項に記した通り、南砂~東陽公園は専用軌道を通っていた。かつての汽車製造株式会社の東京支店、後に南砂の団地群となった敷地を回りこむように走っていた。廃止後は緑道として整備されたため、跡をたどることは容易である。ここで、明治通りから入ってすぐのところでJRの貨物線をくぐるのだが、ガードをよく見ると「城東電軌こ線ガード」の文字がある。そう、この区間は城東電軌が敷設したものである。国鉄からJRへそのまま橋の名称が承継されたのだろうが、ここにかつて線路が引かれていたことを示す貴重な生き証人である。
なお、専用軌道といえば、水神森~大島の部分も有名だが、こちらも緑道として整備されており、解説板も立てられている。散策にも最適だろう。