都営バス資料館

千住営業所

車庫の概要

 足立区を東西・南北に結ぶ路線を中心に、旧来からの荒川区を走る系統も担当している。縦横を結ぶ路線が多いという関係上、多数の路線が集まるターミナルはない。強いてあげれば足立区役所や北千住駅が該当するであろう。

所管系統

系統・枝番 起点、経由地、終点           備考 キロ程(往/復) 平日 土曜 休日
里48 日暮里駅~熊野前~江北6団地~足立流通センター~見沼代親水公園駅 10.810/10.990km 3 2 1 1 2 2
里48折返 日暮里駅~熊野前~江北6団地 6.480/6.660km 2 2 1
里48-2 日暮里駅→女子医大足立→加賀団地→女子医大足立→日暮里駅 17.400km 5 5 6
里48-2折返-1 日暮里駅→熊野前→女子医大足立→加賀団地→加賀 9.280km 1 1
里48-2折返-2 日暮里駅←熊野前←女子医大足立←加賀←加賀団地 9.210km 1 1
里48-3 江北駅→女子医大足立→江北駅 3.760km 7
王49 千住車庫~島根3~西新井大師~上沼田団地~北区神谷町~王子駅 10.150km 46 47 35 37 30 30
王49折返-3 江北駅~北区神谷町~王子駅 6.510km 3 3
北47-1 足立清掃工場~竹の塚駅~足立区役所前~千住車庫~北千住駅 9.685km 2 5 8 7 8 7
北47-2 足立清掃工場→竹の塚駅→足立区役所→千住車庫→北千住駅 9.785km 4
北47折返-1 竹の塚駅~足立区役所前~千住車庫~北千住駅 6.715km 26 98 78 83 84 84
北47折返-2 竹の塚駅~足立区役所~千住車庫~北千住駅 6.815km 70
北47折返-3 足立区役所~千住車庫~北千住駅 3.495km 3 3
北47出入-1 足立清掃工場~竹の塚駅~足立区役所~千住車庫 7.590km 1 1 1
北47出入-2 竹の塚駅~足立区役所前~千住車庫 4.620km 3 2 6 3 3 4
北47出入-4 千住車庫~北千住駅 2.095km 15 18 12 13 8 12
北47折返-4 足立清掃工場~竹の塚駅 2.970km 7 7
草41 足立梅田町~千住桜木~町屋駅~三河島駅~鶯谷駅~浅草寿町 8.402km 47 49 53 55 58 59
草41折返 足立梅田町←千住桜木←町屋駅←三河島駅←鶯谷駅 6.095km 1 1 1
草43 足立区役所~千住車庫~三ノ輪駅~竜泉~浅草雷門 8.410/7.980km 26 25
草43折返-1 千住車庫~三ノ輪駅~竜泉~浅草雷門 7.010/6.580km 2 3
草43折返-2 千住車庫→三ノ輪駅 4.330km 1 1 1
草43折返-3 足立区役所~千住車庫~三ノ輪駅~竜泉~浅草寿町 7.930km 3 4 2 2
草43折返-4 千住車庫~三ノ輪駅~竜泉~浅草寿町 6.530km 33 32 35 35
端44 北千住駅~千住桜木~熊野前~田端駅~駒込病院 6.895km 60 64 55 57 51 54
王49折返 足立区役所~島根3~西新井大師~上沼田団地~北区神谷町~王子駅 9.980km 19 18 21 19 15 15
王49出入 千住車庫~足立区役所 1.400km 6 7 1 2 1 2
王49折返-2 足立区役所~島根3~西新井大師~女子医大~ハートアイランド東~王子駅 12.186km 5 5
王49折返-4 足立区役所~島根3~西新井大師~女子医大~北区神谷町~王子駅 11.070km 3 3
王45(臨時) 王子駅~王子5~新田橋~小台土手上~千住桜木(臨時) 8.145/8.075km ** ** ** ** ** **


現在

基本データ

住所 〒123-0851 足立区梅田2-3-1
開設期間
交通機関 バス:千住車庫前(草43・北47・王49) 鉄道:[東武]五反野駅
基本配置 旧基本車種:三菱、旧合成音声機:クラリオン、旧次停留所機:レシップ

沿革

年月日 できごと
S10. 6. 2 千住自動車営業所が開所
S20. 6.16 戦災により、新谷町営業所を練馬営業所新谷町分車庫とする
S21. 4. 1 新谷町分車庫が営業所に格上げ(→南千住の項参照)
S47. 7. 2 庁舎建て替えのため、南千住分車庫を開設
S49. 5. 1 庁舎建て替え完了
S50. 5. 5 南千住分車庫を廃止、再び全機能を千住営業所に統合

歴代所管一覧

年月日 所管開始時の区間 所管開始 所管終了 備考
12→里22 三ノ輪車庫~亀戸駅 S20以前 S52.12.15 →移管(南千住)
13→草43 千住車庫~三ノ輪橋 S20以前 運転中
106 草加~東京駅北口 S22. 6.25 S46 .1.31 廃止
201 新橋駅~浅草寿町 S23.12.26 S24. 7.31 →統合13
118 川口駅~浅草~東京駅八重洲口 S24.11. 1 S46.11.20 廃止
30[2]→上48 千住車庫~昭和通り~新橋駅 S25. 5.10 S53.10.31 →短縮北48
72 西新井駅~小石川橋 S33. 5.15 S45. 3.20 廃止
521→秋47 東京球場~水天宮 S44.10.26 S49. 1.31 廃止
531→東40 東京球場~都庁前 S44.10.26 S50. 5. 4 →短縮草40
79[2]→王49 千住車庫~駒込駅 S45. 3.21 運転中
143甲→王30 王子駅~亀有駅北口 S45. 3.21 H15. 3.31 →短縮有30
143乙→王31 王子駅~綾瀬駅 S45. 3.21 H 2.12.19 廃止
4[2]→端44 駒込病院~北千住駅 S47. 7. 2 運転中
草40 千住車庫~浅草橋 S50. 5. 5 S52.12.15 廃止
北47 足立清掃工場~北千住駅 S50.10. 1 運転中
草41 足立梅田町~浅草寿町 S52.12.16 運転中
北48 竹ノ塚駅~北千住駅 S53.11. 1 S57.12.25 →統合北47
東22乙 東京駅北口~IBM箱崎ビル H 1. 4.10 H8. 3.29? →撤退(巣鴨)
里48 日暮里駅~足立流通センター H 2. 7.21 H18. 3.31 →撤退(巣鴨)
深夜急行 上野駅→春日部駅 H 2.12.10 H 6. 4. 4 →撤退(東武バス)
墨38 東京リハビリテーション病院~両国駅 H 3. 7. 1 H15. 3.31 →移管(南千住)
有30 足立区役所~亀有駅北口 H15. 4. 1 H18. 3.31 →移管(青戸)

車庫の歴史

 千住営業所は、東京市電気局の事業拡張計画に基づいて昭和10年6月に開設された。他の多くの郊外地区の営業所のように、陸上交通事業調整法で合併されて都営バスのものになったのとは異なり、昭和初期から日光街道の千住方面には路線が引かれていた。既に新谷町営業所(→南千住営業所)もあったが、この方面を強化する意図があったのだろう。
 市バスは昭和2年度までに上野駅方面から日光街道を北上して千住新橋を終点とする系統が走っており、昭和6年度の再編からは浅草・上野方面の2方面体制になっていた。系統別データ集の[草43][上48]も参照。当時は市電とともに相当な需要があったようで、東京
市の統計(昭和9年12月現在)では[15](千住新橋~新橋)が297回、[16](千住新橋~雷門~亀戸駅)が180回運転となっている。
 昭和10年の営業所開設後は路線の終点が千住車庫まで延伸され、上記2系統のほか、[21](三ノ輪~吉原大門~雷門~豊島町~東京駅乗車口)を所管。同年度に開設された[31](浅草雷門~亀戸駅~大島車庫)も担当した。昭和13~14年頃に再編され、以下の3系統を持つようになっている。
系統 区間
22 西新井橋~道灌山下~上野公園~雷門~玉ノ井
23 千住車庫~上野駅~東京駅降車口
24 千住車庫~浅草~亀戸駅~大島車庫(大島と共管)
昭和17年1月の陸上交通調整により東京市中心部から荒川放水路までのエリアが市バスに統一された再編では、旧王子電軌の系統なども一部持つようになって受け持ち範囲が広がった。
系統 区間
19 新宿駅~市ヶ谷駅~九段下~豊島町~雷門(新宿と共管)
39 西新井橋~道灌山下~御茶ノ水駅
40 西新井橋~道灌山下~上野広小路
44 千住車庫~三ノ輪~上野広小路
45 千住車庫~三ノ輪~浅草~亀戸駅~大島車庫

 ただし、戦時中の物資不足とともに急速に再編のたびに路線網が縮小した。戦災に遭わなかったこともあって営業所自体は生き残ったが、東京大空襲後の昭和20年4月の再編では千住車庫~三ノ輪車庫、亀戸駅~三ノ輪車庫の2系統を持つのみとなった。昭和21年3月の再編後は[13]・[12]の系統番号を与えられ、戦後発展期の千住の基幹系統となる。
 車庫の敷地は現在と変わらず、昭和11年の航空写真では不鮮明ながら現・国道4号から枝分かれする道の間に、東西に広がる大きな屋根つきの車庫が確認できる。国道側にある建物が事務所棟だろうか。
 戦災を受けなかったこともあり、昭和22年でも全く変わっていない姿が見られる。当時は梅島側は買収しておらず、国道側がメインの出入口だったようだ。
 戦後は路線網の復興が進み、昭和21年3月には[13]がさっそく千住車庫~浅草方面に延伸される。昭和22年には東武との相互乗り入れ路線で[106](草加~東京駅降車口)が開通。増え続ける郊外~都心の需要を満たすべく、鉄道の補完として急行運転で長距離を走る路線が生まれた。これが千住車庫以北に延びる初の路線となった。
 昭和24年には[13]はさらに都心に伸びて日本橋・銀座・新橋駅へ直通するようになり、同年に千住第二弾の相互乗り入れとして東都乗合(現・国際興業)と[118](川口駅~浅草雷門~東京駅八重洲口)が開通。昭和25年には[30](千住車庫~上野駅~新橋駅)が開通、遅れて昭和33年には[72](西新井駅~小石川橋)を開業し、昭和40年代前半まではこの6系統を長らく担当し続けた。[12]を除けば全て千住車庫から日光街道で三ノ輪まで並走しており、戦前と似て車庫以南から都心方面に向かう需要が中心となっていた。また、[106][118]は沿線の宅地化とともに昭和30年代にかけて順調に乗客が伸びていき、郊外から北千住駅付近への需要も目立つようになった。
 昭和44年には日光街道方面の都電が全廃され、代替で[521](東京球場~水天宮)、[531](東京球場~都庁前)も走り始めた。同じく日光街道沿いから都心側に向かう設定だったが、既に時代遅れの設定になりつつあった。大きな要因は地下鉄の開業である。
 地下鉄日比谷線は昭和36年に南千住~仲御徒町が開業し、昭和37年5月には北千住へ伸び東武伊勢崎線との直通が始まる。仲御徒町以南も急速に建設が進んで昭和39年8月には全線が開通した。これと軌を一にしてモータリゼーションによる渋滞の激化もあり、昭和30年代後半から日光街道上の都電・バスでは乗客の急速な流出が進んだ。以下に乗降調査の比較を示す。

系統 区間 昭和30 昭和35 昭和40
12(里22) 日暮里駅~亀戸駅 6,335 7,421 10,977
13(草43) 千住車庫~浅草~新橋駅 10,076 14,421 7,150
30(上48) 千住車庫~上野~新橋駅 9,581 10,219 1,172
72 西新井駅~小石川橋 - 9,048 5,999
106 草加車庫~東京駅北口 5,209 6,461 5,843
118 川口駅~東京駅八重洲口 3,428 4,916 4,259
137 千住二丁目~錦糸町駅 - - 767
都電21(秋47) 千住四丁目~水天宮 102,855 89,105 49,590
都電31(東40) 三ノ輪橋~都庁前 35,525 32,678 23,876
※都電は昭和39年調査

参考に都電も示したが、[13][30][72]も含めて半減レベル以上、[30]に至っては浅草線開業の影響も受けて8割以上減っていることが分かる。逆に、長距離を走る系統はそこまで影響を受けていないのが一見不思議に見えるが、郊外~千住方面の需要で手堅く稼いでいたためだろう。
 このため、昭和40年代の路線再編で路線網は大きく変化し、千住~都心方面の系統を集約して他の地域の路線で稼ぐようになっていく。
まず、昭和44年に[137]は廃止され、都電代替時に[30]は上野広小路止まりに短縮された。そして昭和45年3月に環七にバス路線を設定することになり、[79](駒込駅~千住車庫)、東武と共同で[143](王子駅~亀有駅北口・綾瀬駅)が開業し、[72]は廃止された。
昭和46年には[106][118]が廃止、乗客の見込める国道沿いの千住車庫~北保木間町の区間だけ残して[30]に統合した。昭和47年に漢字+数字2桁の系統番号に変わった後、48年には[草43]が浅草橋止まりに短縮となる。昭和49年には[秋47]が早くも廃止され[上48]に集約された。
 この時期に千住営業所の建て替えが行われた。昭和41年の航空写真でも開設時の車庫の姿が見え、かなり老朽化していたこともあったのだろう。建て替えが始まり、昭和47年から南千住分車庫を開設した。現在の現在の南千住営業所の敷地だが、そちらはは当時新谷町に車庫があってまだ移転前。電車庫の跡地を都営住宅つきのバス車庫として生まれ変わるべく建築中だったスペースを先に使ったということだろう。南千住の巻も参照。
 担当系統は完全に分けられ、南千住分車庫は[12]と[521][531]の都電代替を担当したほか、[4](駒込病院~北千住駅→[端44])を持つようになった。昭和49年5月に交通局の寮の新設と建て替えが終わり、昭和50年5月には南千住分車庫を閉鎖して再び千住に集約された。事務所は寮の建物の1階に併設され、それ以外に整備庫などが設けられた。

昭和49年現在 千住(上)・南千住(下)所管系統
系統 区間
王30/31 王子駅~環七~亀有駅北口/綾瀬駅
草43 千住車庫~三ノ輪駅~浅草雷門~浅草橋
上48 上野広小路~三ノ輪駅~千住車庫
王49 駒込駅~王子駅~千住車庫
里22 日暮里駅~大関横丁~亀戸駅
東40 三ノ輪駅~合羽橋~浅草橋~東京駅北口
端44 駒込病院~田端駅~熊野前~北千住駅
秋47 三ノ輪駅~秋葉原駅

このときに日光街道の裏手側にも交通局の土地が広がり、裏手側にも出庫口が整備された。
 その後、昭和50年代前半も再編とともに所属路線が変化する。昭和50年には[北47](北千住駅~足立清掃工場)が開通、昭和52年12月の再編では都電代替で残っていた[草40](←[東40])を廃止。[里22]を南千住に放出し、[草41](浅草寿町~足立梅田町)を南千住から受け入れた。昭和53年には[上48]が北千住駅~竹の塚駅に短縮して[北48]となり、千住二丁目以南は[草43]が走るだけとなった。これで現在の路線網がほぼ完成し、僅か10年で[草43]を残して所管路線の顔ぶれが全く変わってしまった。

 その後は時代の変化に応じて受け持ちが微妙に変わっていった程度である。
昭和57年の再編で[北47/48]は統合され、平成2年に効率の悪い区間として[王31](王子駅~綾瀬駅)の廃止と[草43]の短縮を実施した。
 逆に、新たな試みとして平成元年に[東22乙](東京駅北口~IBM箱崎ビル)に巣鴨・江東とともに参入、平成2年には運行の効率化を行うべく巣鴨の[里48](日暮里駅~足立流通センター)の一部便を担当するようになった。このとき、[端44]の一部便を巣鴨が持つ計画もあったが、そちらは実現しなかった。
[東22乙]は半蔵門線の延伸とともに本数が減って平成8年には千住は撤退、[里48]は舎人ライナー開業前の平成18年3月限りで撤退している。平成3年には墨田区の要請で開設した[墨38](両国駅~東京都リハビリテーション病院)を青戸と共管で担当し始めたが、平成15年3月限りで南千住に移管して撤退した。
 また、上野駅→春日部駅の深夜急行バスを東武と共同運行で平成2年に開始したが、乗客が落ち込み始めた平成6年に早々と撤退してしまった。

 21世紀に入ると、足立区の公共交通計画の変化で路線網も多少の変化が見られるようになる。平成8年に足立区役所が現地に移転し、平成15年・16年には足立区役所のターミナル化が推進された。渋滞と乗客減で本数が減っていた[王30]は共同運行を取りやめ、[王49折返](王子駅~足立区役所)と[有30])(足立区役所~亀有駅北口)に分割、[草43]は平日を中心に足立区役所に延伸といった具合である。亀有側は本数が激減し、平成18年度からは青戸に移管されている。
 この結果、現在も所管している系統は昭和50年代から担当し続けている系統に戻っている。右上の表を見ると、沿線の高齢化や舎人ライナーの開業で影響を受けるなど、[草41][草43][端44]は乗客が減少傾向だが収支係数は改善している。収支均衡すべく本数が減少したということでもある。これとは対照的に、[北47]は一時期は赤字に苦しんだものの、年々本数が増えて黒字系統となっていて幹線化が進んでいる。

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