担当営業所
江戸川営業所
運行区間・運行回数
系統・枝番 | 起点、経由地、終点 | 備考 | キロ程(往/復) | 平日 | 土曜 | 休日 | |||
→ | ← | → | ← | → | ← | ||||
錦28 | 東大島駅~東砂団地~西大島駅~錦糸町駅 | 4.750km | 62 | 62 | 57 | 57 | 52 | 52 |
現在
年表
系統 | 年月日 | 営業所 | 距離 | 概要 |
路線概要
錦糸町駅から都営新宿線沿いのエリアを東西に走り、砂町地区北側の大規模団地を結び、東大島駅を終点とする。江戸川営業所管内では短めの系統となっている。
東大島駅を発車したバスはロータリーを抜け、番所橋通りを葛西橋方面へと下っていく。このあたりは東大島駅に近いこともあり、大規模なマンションが建ち並んでいる。
番所橋を渡ると左側に都営東砂二丁目アパートが見えてくる。そこの交差点を右折すると東砂団地の停留所となる。ここから乗車する客も多く、住民の足として根付いている様子がうかがえる。この先は小名木川沿いの道を進んでいく。東砂団地を抜け都内では珍しいヨークマートが見えてくると東砂一丁目。このあたりも比較的大規模なマンションが建ち並んでいる。仙台堀川を渡ると車窓には戸建て住宅や低層マンションが建ち並ぶようになる。
丸八通りで[亀21]と交差すると北砂五丁目団地が見えてくる。昭和52年に住宅都市整備公団(現 独立行政法人都市再生機構)が工場跡地に開発した団地で、都心にも近いことから人気も高く、なかなか空室が出ない状況らしい。
前方にアリオ北砂が見えてくると、小名木川交差点を右折し、明治通りを北上するが、[都07][錦18]など
と異なり、西大島駅前を左折、新大橋通りに入る。 [錦28]の前身である[36]の開設以来、この区間は新大橋通りを運行しており、路線の原型をとどめている唯一の区間ともいえる。
住吉駅前の交差点を右折したあとは、四ツ目通りを北上、錦糸町駅で終点となる。なお、錦糸堀の停留所の反対側には錦糸町駅前(降車専用)の停留所があるが、ここは江東の路線専用となっているのか、[錦28]は停車せずにバスターミナル内まで終日乗り入れて終点となるのも特徴と言えば特徴である。
歴史
開通当初とは似ても似つかぬ形に変貌した系統は都営バスにも色々あるが、その中でも転換が上手くいった数少ない例と言える。
この系統の祖先は、昭和26年10月に開通した[36](今井~東京駅降車口)である。今井から今井街道・京葉道路を経由して小松川橋を渡り、亀戸駅通りで左折してトロリーバスと別れ、大島二丁目(現・西大島駅)から新大橋通りを都心に直進し、新大橋を渡った先の浜町中ノ橋を左折、茅場町から永代通り経由で東京駅降車口(北口)を終点とした。
当時、今井街道沿いから都心に直通する交通機関としては同時期にトロリーバス(上野~今井)も開業していたが、日本橋・東京駅への直通の足としては本系統がメインルートの役割を期待されたと言えよう。
昭和36年になって、番所橋通りの北側部分が通れるようになったためか、浅間神社先で曲がり南下、現在の東大島駅入口から新大橋通りに入る[36乙]を開設した。従来の亀戸駅通り経由([36甲]と。交互に両方合わせて1日70~80回程度運転していたようである。
昭和38年度には今井から浦安橋を渡り浦安橋東詰まで延伸、さらに昭和45年には操車所の集約で浦安終点まで延伸したが、延伸区間は僅かな本数にとどまり、基本的には今井発着であったようだ。東京駅から浦安まで18kmという長大路線となったが、渋滞もあってか、昭和48年には全便が再び今井止まりに短縮された。また、昭和47年2月には最初に開業した亀戸駅通り経由も廃止しており、1系統に絞られた。同年11月の新系統番号化で[東28]を名乗った。
一方で、昭和46年に船堀橋が架け替えられており、バスが通れるようになっていた。昭和52年3月に[東28]名義で従来の出入庫の経路を変更し、東京駅北口~大島七丁目~(船堀橋)~江戸川車庫という運行が設定された。(新)船堀橋を渡る初の系統で、江戸川車庫止まりが比較的多く設定されたたようだ。側面表示も「船堀橋経由」を強調する表示だった。
この時点では本線は小松川橋経由のままだったが、昭和53年12月に都営新宿線の第一期区間(岩本町~東大島)が開業すると、路線の大半が重複する本系統に大幅な改編が行われるのは当然とも言えた。
具体的には、住吉駅以西を全廃して錦糸町駅発着に付け替えるとともに、小松川橋経由も取りやめ船堀橋経由で東小松川一丁目から今井を終点とするようになった(この時点では船堀橋東詰以東の新大橋通りは未開通である)。系統番号も[錦28]に変更された。都心への需要は地下鉄に任せ、バスは繁華街のある錦糸町駅と結ぶことで棲み分けを図ったのだろう。乗客数を昭和52年度 (7,600人/日)と55年度(6,100人/日)とで比較すると、2割程度の減少にとどまっている。
▲上から昭和53年まで、昭和53年、昭和58年、昭和61年、昭和63年~
むしろ影響が大きかったのは昭和58年12月の都営新宿線東大島~船堀の開業時である。[錦28]も船堀駅に一旦立ち寄るように変更され、今井街道沿線から船堀駅への足としても機能するようになったが、船堀地区の乗客減の影響は大きく、昭和59年度は4,700人/日に減っている。さらに昭和61年9月に新宿線が篠崎まで延伸されると、今井街道から総武線への連絡は[上26]や[新小22]もあるからだろうか、錦糸町駅~船堀駅に短縮された。こうなると船堀以西の存在意義も弱まり、昭和62年度には2,600人/日、運行回数も40回程度にまで減った。
ところが、ここから、鉄道開業に伴い短縮→減便→廃止というスパイラルに陥った多くの系統と異なる展開を示す。昭和63年6月に、番号はそのままながら、路線の半分近い距離にあたる西大島駅~東大島駅の区間について、小名木川を挟んで南側の通りに大胆に経路変更したのである。新経路の沿線には北砂五丁目団地・東砂二丁目団地といった大規模団地があるにもかかわらず従来は路線がなく、住民の要請もあったようだ。都心直通系統の名残を残す系統が、一転して駅と団地を結ぶ系統へ変わった瞬間であった。
このとき、大半の便が東大島駅折返しとなり、船堀橋を渡って船堀駅まで行くのは出入庫の20往復程度に限られるようになった。当初は[錦28甲]が東大島駅、[錦28乙]が船堀駅行きとなったが、平成2年3月に新[錦28乙](東大島駅~平井駅→臨海[平28]を参照)を開通するのに伴い、甲乙の区分けは消えた。なお、橋を渡る都合上、船堀駅行きは東大島駅に停まらなかった。
同時に営業所の受け持ちバランスを考慮し、臨海から葛西に移管された。そして、船堀駅発着は効率化と乗車率を考慮し、12月に全便東大島駅発着となった。そのため、短期間ではあるが葛西車の船堀駅行きを見ることができた。
以来20数年間、本数も維持ないし微増となっており、需要が底堅い系統といえる。荒川西岸のみを走る路線であるが、平成16年の(新)江戸川営業所設置後も、葛西から(新)江戸川に引き継がれ所管が継続している。
東砂団地
東大島駅短縮後は、始発の錦糸町駅行き、終発の錦糸町駅発が東砂団地発着となっていた。一旦東大島駅に入って営業所に出入庫するより、番所橋通りから直接車庫に行ったほうが速いためだろう。
専用表示も用意されていたが、平成16年の江戸川移管時に全便東大島駅発着に延長され、この設定はなくなった。