都営バス資料館

×茶80

[茶80]←[510]←都電10

担当営業所

渋谷営業所

運行区間

系統 区間 距離 備考
渋谷駅~青山一丁目駅~四谷三丁目~市ヶ谷駅~九段下~御茶ノ水駅~順天堂病院 9.587/ 9.167km

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要
510 S43. 9.29 (青山) ( 8.377km) 都電10(渋谷駅~須田町)の代替で渋谷駅~四谷3~順天堂病院が開通
510 S46. 1. 1 (青山) 9.587/ 9.167km キロ程変更
茶80 S47.11.12 (青山) *** 新番号化、茶80とする
茶80  S52. 3. 7 渋谷 9.587/ 9.167km 青山分車庫の廃止により渋谷に移管
茶80  S54.11.23 渋谷 *** 渋谷駅~四谷3~御茶ノ水駅を廃止

路線概要

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 都電10系統(渋谷駅~須田町)の代替で、渋谷駅と御茶ノ水駅(順天堂病院)を結ぶ。この区間を結ぶ系統としては、後まで残った後述の[茶81]が有名だが、その兄弟にあたる系統である。
 渋谷駅を出ると宮益坂を上って青山通りに出る。左手に青山車庫(現国連大学、こどもの城)、右手に青山学院大学を見て銀座線の真上を進み、青山一丁目駅で左折して外苑東通りに入る。
 赤坂御用地と神宮外苑の緑に囲まれながら信濃町駅前に出る。中央線をまたぐ橋の部分は、今の外苑東通りの部分が都電の線路跡で、道路は慶応病院の脇の小道を曲がっていた。
 新宿区に入ってそのまま北進、四谷三丁目で右折して新宿通りに出る。四谷駅手前の四谷見附交差点を左折して外堀通りに入る。四ツ谷駅には入らず外堀通り上の「四谷駅西口」停留所に停車していた。
外堀通りを走ると右手に濠が見えてきて、市谷八幡町で靖国通りに合流し、市ヶ谷見附でお濠をカギ型の経路で渡る。左手には市ヶ谷駅のホームからも見える釣堀がある。濠を渡り切ると市ヶ谷駅の停留所で、ここから靖国通りを直進する。青山一丁目で別れた[茶81]と靖国神社南門で合流し、九段坂を一気に駆け降りると九段下の交差点となる。
 九段下からさらに直進すれば、本の街神保町。専修大学、神保町、駿河台下と書店街を貫くように一つずつ停車、駿河台下の交差点を左折し御茶ノ水駅に到着する。
 バスはここでは終点ではなく、突き当りの東京医科歯科大前を左折し、再び外堀通りへと入り、次の交差点を右折し、東京医科歯科大と順天堂医院の間の小道に入ったところにポールが立っていて、そこが「順天堂病院入口」。その先の本郷通りを左折し、本郷二丁目交差点を鋭角に曲がって順天堂病院の正門前に「順天堂病院」の停留所があり、ここが書類上の終点となっていた。折り返しはそのまま発車して外堀通りに戻るループ状の折り返し経路となっていた。
※末期の[茶81]と同じく、順天堂病院入口が終点で、順天堂病院まで回送してそこから渋谷駅が営業運転開始という可能性もあるが、書類上の路線区間で記載した。
歴史
 渋谷駅から青山通り方面の都電は、相当古くから三宅坂から靖国通り方面と銀座・築地方面の2種類の系統が走っていた。当系統は前者の代替系統にあたる。
 都電時代の変遷であるが、昭和初期の時点では市電15系統(渋谷駅~九段下~小川町~松住町~上野駅)だったが、昭和6年頃に市電10系統(渋谷駅~須田町)となり、戦中もこの区間で通した。昭和20年5月の山の手大空襲で青山車庫が大きな被害を受けて一時運転を休止するが、昭和21年3月までに都電10系統(渋谷駅~神保町)として復活し、じきに須田町まで延伸され、戦前の経路に復した。
なお、昭和32年3月までは、宮益坂から山手線の下をくぐって渋谷駅ハチ公前に乗り入れていたが、文化会館前のターミナルに移転した。
 都電時代の末期に大きな経路変更が起こる。昭和38年10月に東京オリンピックに向かっての首都高の建設などのために青山一丁目~三宅坂の軌道が撤去されることに伴い、四谷三丁目・四谷駅・市ヶ谷駅経由と迂回運行をすることになったのである。昭和43年9月に廃止されるまでこの経路で走った。
 こうした経緯を眺めると、都電10系統には代替系統が2つある、と言える。廃止時の経路をなぞったのが[茶80]、昭和38年以前の経路をなぞったのが[茶81]である。 [茶81]の経路の話については以降の[茶81]の項で述べる。
 バス代替にあたり、須田町を終点とせず、駿河台下から左折して御茶ノ水駅を終点とした。須田町方面では適当な国電の駅に連絡しづらいこともあったのだろうが、須田町から岩本町近辺を循環するよりは使いやすいと言えるだろう。行先方向幕の表示は「御茶ノ水駅(順天堂病院)」という表記だった。渋谷駅では[茶81]と同じくかつての都電乗り場と近いところから発車しており、さながら兄弟系統のようであった。
 しかし都電の廃止経路を引き継いだはずの [茶80]の方が、乗客数不振もあり、昭和54年の再編成でさっさと廃止されてしまう。昭和50年の大都市交通センサスに伴う調査では、[茶81]の10,748人/日に比べて[茶81]は4,417人/日と乗客数に大きな差がついていた。
そもそも、昭和43年の代替直後の乗降客調査でも御茶ノ水駅着は1日63回と、当時の水準としては本数がかなり少なめであった。いかにこの経路での定着が悪かったか、以前の経路が流動に即していたかを物語っているだろう。
 余談だが、昭和54年12月には他でも複数の路線が廃止・短縮されるなどの改編が行われ、チラシが配布された。それぞれの廃止による代替措置も示されていたが、[茶80]の四谷三丁目~四谷駅西口~市ヶ谷駅~駿河台下については[秋72](新宿駅西口~岩本町、杉並の項を参照)をご利用下さい、という案内になっていた。しかし、[秋72]も4ヶ月後の昭和55年3月には都営新宿線の新宿~岩本町延伸による改編で全線廃止されてしまい、四谷駅西口~市ヶ谷駅はそもそもバスがなくなってしまった。
所管は代替直後から青山分駐所が管轄していて、渋谷駅~青山車庫(現青山学院)を出入庫で運転していた。昭和52年の青山閉鎖後系統廃止までの1年半は、渋谷車庫の管轄になっていた。
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▲廃止前の渋谷駅の[茶80][茶81]の時刻表

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