担当営業所
渋谷営業所
運行区間
系統 | 区間 | 距離 | 備考 |
本 | 渋谷駅~青山一丁目駅~赤坂見附~虎ノ門~桜田門~有楽町駅~東京駅南口 | 8.435km | |
出入 | 渋谷駅~渋谷車庫←東2(田87) | 0.830km |
年表
系統 | 年月日 | 営業所 | 距離 | 概要 |
103 | S22. 6.25 | 渋谷 | *** | 駒沢~築地が開通、東急と相互乗り入れ |
103 | S22. 9. 1 | 渋谷 | *** | 駒沢~三軒茶屋~渋谷駅~六本木~東京駅南口に変更 |
103 | S23. 8. 1 | 渋谷 | 14.333km | 渋谷駅~溜池間を六本木経由から赤坂見附経由に変更 |
103 | S24. 5.25 | 渋谷 | 16.100km | 経堂駅~宮の坂駅~上町駅~三軒茶屋~渋谷駅~東京駅南口に変更延長 |
103 | S37.12.15 | 渋谷 | 16.500/16.100km | 宮の坂付近の一方通行の経路変更? |
103 | S41. 8. 1 | 渋谷 | 16.230/16.100km | 一部経路変更? |
東84 | S47.11.12 | 渋谷 | *** | 新番号化、東84とする |
東84 | S49. 8.15 | 渋谷 | 8.435km | 経堂駅~渋谷駅を短縮、東急との相互乗り入れを中止 |
東84 | S52.12.16 | 渋谷 | *** | 渋谷駅~東京駅南口を廃止 |
路線概要
東京駅南口から渋谷駅を桜田門・赤坂見附・青山通り経由で結んでいた。昭和49年までは、東急と共同で上町を経由して経堂駅まで運行していた。
東京駅南口を発車後は、現在の[都05](東京駅南口~晴海埠頭)と同じようにかつての都庁前を左手に見ながら有楽町駅のガードをくぐり、その先で晴海通りを[都05]と逆に右折して日比谷へと向かう。現在はこのように曲がる系統は劇場バスの国立劇場→東京駅南口の臨時便のみである。
日比谷の交差点は直進し、お濠を右手に見ながら桜田門交差点を左折、レンガ造りの法務省を見ながら官庁街を南下する。桜田門の次は霞ヶ関、次が虎ノ門とかなり開いていた。この辺りの経路はミニバスこと[東01](東京駅北口~新橋駅)と同じだが、ミニバスはこまめに停車していた。
虎ノ門で右折して外堀通りに入ると、霞ヶ関ビルの脇を緩やかにカーブして通り、溜池・山王下・赤坂見附と外堀通りを通る。左折し青山通りに入り、渋谷駅までは[茶81]と並行して青山通りを走っていた。
南青山五丁目(青山学院)からは[東82]~[東85]の相互乗り入れ系統が揃い、渋谷駅を貫通して大坂上方面へと抜けていたことになる。
渋谷駅を通った後は玉川通りを走り、三軒茶屋で世田谷通りに分岐する。[渋21](渋谷駅~上町駅)、[渋24](渋谷駅~成城学園前駅)などと同じ経路である。若林で環七を通り越し、道が二股に分かれるところが上町駅の停留所。[渋24]などは左に逸れていき「上町」バス停となるが、[東84]は直進した東急世田谷線の駅のそばで「上町駅」を名乗っていた。
この路線の見どころと言えば、何と言っても上町~経堂駅の狭隘区間であろう。上町駅からは東急世田谷線に沿って都道427号に入るが、都道とは言っても一方通行、大型車だと本当にギリギリの幅の住宅街の道路で、ここを大型のバスが通っていたとは俄かに信じがたい。しばらく北上して右手に宮坂区民センターを過ぎた世田谷八幡宮の角、宮の坂駅脇で左折する。左折した先は乗用車で2車線はある少しは太い道だが、住宅街の真ん中を進んでいくことには変わりない。
しばらく住宅街を進み、賑わいを見せる交差点を右折すると経堂商店街に入る。一車線しかない道路で左右には商店が並び、バスが通れそうな雰囲気はまるで感じないが、ここを苦労して分け入っていたという。この辺りに経堂商店街入口の停留所があった。大型車の幅ギリギリにも思える道幅の商店街を進むと、目の前に小田急線の線路が現れて終点の経堂駅となる。駅前というよりも、南口の改札を出た目の前の狭い路上の終点という趣だった。現在は高架化工事も終わり、往時の雰囲気とはかなり変わってしまったが周辺の道の細さは変わりない。
経堂駅を出ると、線路沿いの細道に入る。こちらも都道423号線を名乗るが一車線道路には変わりなく、経堂商店街と広さは五十歩百歩だ。しばらく進むと住宅街の風景に戻り、数百メートル走ったところで世田谷線の踏切に突き当たる。
バスは踏切を渡らずに右折し、世田谷線に沿って南下していくと先ほどの宮の坂駅前の交差点に到着する。ここで経路を合流したいところだが、残念ながら上町駅→宮の坂駅は昭和40年代に一方通行になったため、行きと同じ道路は通れない。そのため、ここで左に折れて踏切を渡り、世田谷二丁目付近を通って行く。左手には大きな境内を持つ豪徳寺の入口がある。その先の世田谷城跡公園の交差点では同名の停留所もあり、その辺りを南下して踏切を渡り、世田谷通りに戻るって渋谷駅からの経路とようやく合流し、戻って行くという経路であった。
歴史
東急バスとの相互乗入路線の1期生である。昭和22年6月に[100](洗足池~東京駅→[東90])、[101](都立大学~東京駅→[東80])とともに開通した系統で、当時は駒沢~築地を結んでいた。経路は廃止末期とは異なっており、三軒茶屋から下り方面は世田谷通りではなく玉川通りを南下し、また南青山~溜池の区間は青山通り・赤坂見附経由ではなく、六本木通りを経由していた。終点も東京駅ではなく、晴海通りを直進して築地を終点としていた。当初は途中停留所が日比谷・虎ノ門・箪笥町(現六本木一丁目駅)・材木町(現六本木六丁目)・高樹町(現南青山七丁目)・渋谷駅・大橋・三軒茶屋・上馬に限られ、相当な急行運転を行っていたことが分かる。六本木を通過していたのが面白い。
これが3ヶ月後に東京駅南口発着に変更される。折り返し場所がないための臨時の措置だったのかは不明だが、相互乗入路線の最初期は、このような変更を短期間のうちに行っている例も多い。
そして、昭和23年8月に赤坂見附経由に変更される。六本木通りは[101]もあったため、まだバスの復活していなかった青山通り経由にしたのだろうか、興味深い変更である。変更前の経路は後に[123](→[東85]。昭和25年5月開業)が通っていた道である。
経堂に終点が変更されたのは昭和24年5月のことである。[100]が駒沢に延伸されたため、駒沢はカバーできたという判断だろうが、駒沢~三軒茶屋の区間は一旦都営バスが撤退する。これも[102](→[東82])が開通する昭和26年5月までは間が空くが、世田谷通り方面を優先したかったということだろうか。結局開通当初の路線要素は、[102](→[東82])、[123](→[東85])と3分割されていったことになる。
渋谷駅~経堂駅は、東急バスが戦後すぐの昭和21年9月に開通させた路線で、これと合体させて経堂駅~東京駅南口となって東急バスは経堂線を名乗った。東急は淡島営業所の管轄で、昭和34年に弦巻営業所の開設により弦巻に移管された。
昭和40年代の車両制限令により経路が変更された数少ない区間でもある。昭和41年8月までは上町駅~宮の坂の区間は上下で同じ経路を走行していた。現在は一方通行規制となっている区間である。
昭和40年代に入ると長距離路線は存在意義が低下していった。当初はかなりの急行運転だった系統も、昭和30年代に随時停車停留所が追加されていき、昭和43年の都電代替により100番台の急行だった系統もほぼ全て各停留所停車になったため、往時の速達性はなくなっていた。
そもそも渋谷駅~虎ノ門は銀座線と完全に並行していて、西新橋や新橋駅に寄らず、官庁街や日比谷公園くらいしか使い道のない桜田門を通っていたのも要因かもしれないが、昭和49年に分断され、都営は[東84]の番号をそのまま使い続け、東急は[渋22](渋谷駅~経堂駅)を名乗った。
▲交通局報 昭和49年号
漢字+数字2桁の系統番号は昭和47年から付与されたもので、渋谷駅は方面別に番台を割り振っていた。20番台は世田谷通り方面に割り当てられたが、既にこの時点で[渋21](上町)、[渋23](祖師谷大蔵)、[渋24](成城学園前駅)となり、22番は欠番となっていた。既にこの時点で分割を考慮に入れていたのだろう。
路線の多くの部分で銀座線と並行しており、都心部の路線としての役割は既に終えていたといってよい。昭和50年の大都市交通センサスでは3,094人/日、混雑度は15.2%と、混雑度で見ると渋谷の各路線の中でも最も効率の悪い路線だったことがうかがえる。結局、昭和52年12月の路線再編成で廃止され、分断後は3年と少ししか持たなかった。分断により渋谷駅の乗り場も西口に移り、現在は東急トランセの代官山循環が発車する35番乗り場から発車するようになった。また、直後の4月より東急の所管が大橋に移管された。
東急バスの[渋22]はその後も走り続けたが、あまり乗客の多い路線とは言えなかった。昭和50年代後半になると、昼間20~30分間隔であり、当時にしては本数の少ない路線だった。上町駅~経堂駅の狭隘区間は相変わらずで、特に経堂商店街は東急屈指の狭さといってもよく、いつも誘導員がバスの前を先導して旗を振りながら走っていた。狭いがゆえの痛ましい事故も起こったようだ。
昭和56年10月には、小田急線の北側にあった経堂操車所が廃止されて駅前ロータリーで折り返す必要が生じ、東急ではこれにあわせて同社初の中型車・日野RJ(K-RJ170AA)を6輛購入した。日野RJ系の導入は東京23区内では初のことで、リベットのない直線的なボディ、非対称型の前面窓など斬新なデザインは注目を集めたという。しかし利用者の減少は止まらなかったのか、昭和59年2月で路線そのものが廃止となり、車両も別の車庫へ散っていった。名物の誘導員は廃止のその日まで活躍していた。現在の経堂駅は高架複々線化され、駅の東側にあった検車区も名残はほとんどない。駅近くの路線バスは、小田急バスが駅の北側に発着するのみで、[渋22]なき後30年近くが経とうとしているが、いまだに南側にバス路線は復活していない。