担当営業所
新宿支所
運行区間・運行回数
系統・枝番 | 起点、経由地、終点 | 備考 | キロ程(往/復) | 平日 | 土曜 | 休日 | |||
→ | ← | → | ← | → | ← | ||||
渋88出入-1 | 新宿車庫→西参道→北参道→渋谷駅西口 | 5.452km | 1 | 1 | |||||
渋88出入-2 | 新宿車庫←西参道←北参道←渋谷駅東口 | 5.522km | 1 | ||||||
渋88 | 渋谷駅~青山学院~六本木駅~神谷町駅~虎ノ門~新橋駅 | 6.367km | 31 | 31 | 23 | 23 | 25 | 25 |
現在
年表
系統 | 年月日 | 営業所 | 距離 | 概要 |
48 | S28.3.1 | 品川 | 1.830km | 新橋駅~内幸町~慈恵会医大が開通 |
48 | S33.12.24 | 品川 | 3.141km | 東京タワーの開業により慈恵会医大~東京タワーを延長 |
76 | S35.9.4 | 渋谷 | 4.663km | 渋谷駅~東京タワーが開通 |
76 | S42.5.15 | 渋谷 | 4.239/4.749km | 渋谷駅~南青山7の経路を南青山5経由から六本木通り経由に変更 |
76 | S44.10.26 | 渋谷 | 7.380/7.890km | [48]と統合、渋谷駅~東京タワー~新橋に延長 |
橋88 | S47.11.12 | 渋谷 | 7.380/7.890km | 新番号化、[橋88]とする |
渋88 | S54.11.23 | 渋谷 | 4.240km | 東京タワー~新橋を短縮、[渋88]とする |
渋88 | S59.3.31 | 渋谷 | 4.620km | 渋谷駅~南青山7間の経路を六本木通り経由から南青山5経由に変更 |
渋88甲 | H2.3.31 | 渋谷 | 8.092km | [東82]と統合、渋谷駅~東京駅八重洲口を[渋88甲]とする。従来の東京タワー発着は[渋88乙]とする。 |
渋88甲 | H6.7.1 | 渋谷 | 8.497/8.292km | 東京駅の終点を八重洲口から丸の内南口にして、経路変更 |
渋88乙 | H12.12.12 | 渋谷 | *** | 渋谷駅~東京タワーを廃止 |
渋88 | H12.12.12 | 渋谷 | 6.212km | 新橋駅北口~東京駅南口を短縮、渋谷駅~新橋駅北口を本系統とする |
渋88 | H18.4.1 | 渋谷 | 6.332km | 新橋駅北口~新橋駅を延長 |
渋88 | H20.4.1 | 品川 | *** | 品川に移管 |
渋88 | H21.4.1 | 新宿 | *** | 新宿に移管、はとバスに運行を委託 |
渋88出入 | H21.4.1 | 新宿 | 5.452/5.522km | [池86折]扱いだった渋谷駅~新宿車庫を[渋88出入]に番号変更 |
路線概要
渋谷駅と新橋駅を結ぶ。と書くと、第一に出てくるのは六本木を経由する[都01]、次に出てくるのは麻布十番を経由する[都06]だが、第三の経路が[渋88]である。前の2つに比べいかにも影が薄く、青山学院・六本木駅・神谷町駅を経由し、ジグザグに大回りするのが特徴である。
渋谷駅の乗り場は宮益坂下のもっとも交差点寄りとなる。かつては東急文化会館前から発車していたが、文化会館の取り壊しに伴って現地に移転してきた。跡地には東急ヒカリエが竣工したが、果たして乗り場も元に戻るのかは気になるところだ。
渋谷駅を発車すると金王坂を登り、青山通りに入る。かつては様々な系統が通った青山通りも、今ではこの系統が都営バスでは唯一である。左から宮益坂が合流すると、すぐに左手に都電青山車庫の跡地を活かした国連大学やこどもの城、右手には青山学院大学のキャンパスが見えてくる。青山学院の停留所を過ぎるとすぐに右折レーンに入り、南青山五丁目交差点で骨董通りに入る。根津美術館などがあったことで、戦後に骨董品の店が多く集まったことから自然発生した名前と言われるが、現在は小じゃれた店やオフィス・マンションが林立する。片側一車線とあって、ここで詰まることも少なくない。
数百メートルの道のりを抜けると、正面に首都高が見えてくる。交差点や首都高の出入口名は高樹町で、かつての町名を残すが、バス停は南青山七丁目。停留所は[都01]とは往復ともに結構離れている。
ここからは六本木通りを走る。バス停に乗客の姿も多いが、ほとんどは[都01]を待つ人たち。たまに、乗り込もうとするも、渋谷駅に行くには遠回りと聞かされて、後続の[都01]を待つ客の姿も見られる。
六本木六丁目で六本木ヒルズの入口を右手に見ると高架下の右折レーンに入り、アマンド前の六本木駅の交差点を右折する。六本木駅の停留所は右折した先で、ここも[都01]の乗り場とはかなり離れている(渋谷駅行きの乗り場は共用)。
外苑東通りに入ると、正面には東京タワーの姿がはっきりと見えてくる。一番前の席に座っている場合は、正面で見られる特等席と言えるだろう。飯倉片町で首都高都心環状線をくぐり、左手に麻布台の巨大な郵便局が見える頃には、タワーは視界に収まりきらなくなる。右にはロシア(旧ソ連)大使館があり、近隣でデモが起こると道路が封鎖され、[渋88]も大いにダイヤが乱れるというのもたまに見られる光景だった。
東京タワー入口とも言える飯倉の交差点で左折し、桜田通りに入る。[渋88]に東京タワー行きがあった頃は交差点を直進し、そのままタワー構内に入っていた。
桜田通りに入ると山の手の台地も終わりを告げ、急坂を下ると神谷町駅。整然としたビジネス街の雰囲気で、詰まることも少なく快走する。虎ノ門で右折し、外堀通りに入って[都01]と再び合流する。
ここからは遠くに見えるJRのガードを目指して、西新橋のオフィス街を一直線に走る。[都01]と同じく、新橋駅北口で大半の乗客は下車してしまうが、バスはJRのガードをくぐり、右折して新橋駅前ビルの前で終点となる。かつては[東82](渋谷駅~東京駅八重洲口)を引き継いで、新橋を左折して外堀通りで東京駅八重洲口に、末期はさらに八重洲口手前の鍛冶橋で左折して東京国際フォーラム側に出て丸の内南口を終点としていた。
このほか、新宿車庫~渋谷駅を結ぶ出入庫も[渋88]を名乗るが、本線とは全く関係ないところを走る出入庫ついでの系統で、車庫発は平日・土曜の早朝1本、渋谷発は平日の深夜1本のみ運転されるレア物である。
新宿車庫を出ると甲州街道に入る。新宿文化服装学院を出ると、次は新宿四丁目という放送が流れ、かなり停留所間隔が空くが、この路線のハイライトと言える区間で、新宿駅南口の坂を上り、駅南口の前を通過する。現在は新宿WEバスが走るため有難味は多少薄れたが、都営バスではこの区間を走る唯一の系統である。JR線を跨ぐ部分は大正14年に設置された跨線橋だが、老朽化が進んだこともあり、南口基盤整備事業として歩道・車道の拡幅やバスターミナルの設置工事が進んでいる(跨線橋の架け替えは平成24年度完了予定)。
跨線橋を降り、すぐに右折して明治通りに入ってからの経路は[池86](池袋駅東口~渋谷駅東口)と同じであるが、 [池86]と違うのは行先が「渋谷駅西口」となっていることである。ここからは、回送になって渋谷駅西口のバスターミナルを通り抜け、国道246号を回って渋谷駅東口の乗り場に付ける。なお、夜間の入庫は渋谷駅東口始発となる。
歴史
昭和35年に開業した[76]渋谷駅~東京タワーという路線が母体になっているが、もう一つの母体となった路線が存在する。昭和28年3月の[48](新橋駅~慈恵会医大)がそれである。所管は品川営業所で、都電が目の前に通っていなかった慈恵医大へのアクセスを狙って作られた路線なのだろう。1.8kmという短距離路線で、ノンストップだったのも特徴的である。今の[東98](東京駅南口~等々力)が通る道路を一直線に南下していた。
これが、昭和33年の東京タワー開業に際して、アクセス路線として、新橋駅~東京タワーへと延伸された。新橋駅から[東98]の通りへの出方も特徴的で、今の新橋駅北口停留所の近く、JR線のガード沿い、現在で言えばスーツカンパニーが入居するビルの脇から発車するといったん北上し、東京電力本社・勧銀(現みずほ銀行)の前の道路を経由して内幸町の交差点に出て、そこから[東98]と同じ経路で東京タワーへと向かっていた。今のみずほ銀行本店がある脇あたりに「内幸町一丁目」停留所があった。
▲昭和38年10月現在
対する渋谷側の路線開業は、東京タワーの開業と同時ではなく、2年近く後である。山手線内の一般路線としてはかなりの後発であり、西側からのタワーへのアクセス路線として新たに設定したのだろう。開通当初は六本木通りがまだ全通しておらず、渋谷駅~高樹町(南青山七丁目)は都電と同じく青山六丁目(南青山五丁目)・骨董通り経由であったが、昭和42年5月に青山学院下のトンネルが開通し、[76]だけは六本木通り経由となった。このとき、六本木通り上にも「南青山六丁目」停留所が増設されている。骨董通り上にある南青山六丁目とは全くの別物で、現在[都01]が停車する青山学院中等部のことであるが、紛らわしい。また、当時の路線図では、渋谷駅方面のみ「渋谷二丁目」に停車することになっている。青山通りに同名の停留所があるが、わざわざ渋谷方面のみが青山学院西門を経由して青山通りに一旦出ていたとも考えづらく、六本木通り上に同名の停留所が設けられたと考えるのが自然だろう。
東京タワーを境に10年以上別々の系統として運行されてきた[48]と[76]だが、昭和44年に統合され、新生[76](渋谷駅~東京タワー~新橋)となった。新橋側で内幸町を回る経路も変わらず、全体としてかなり独特な経路と言えるだろう。昭和47年の新番号化で[橋88]と名乗った。しかし、交通局の同一区間の系統集約や赤字路線廃止という流れの中で、昭和54年11月に東京タワー~新橋の間が廃止となり、[渋88]と名を変え渋谷駅~東京タワーの区間運転に戻った。
残った区間の需要は高く、1日100回以上の高頻度運転がなされた。特に渋谷駅~六本木で骨董通りを通らない速達系統として利用価値が高かったのだろう。
しかし、昭和59年3月、[橋89](渋谷駅~新橋駅)が都市新バス化され[都01]となる際に、経路を交換して[渋88]が骨董通り経由とされた。これにより最大の長所であった速達性を手放した結果、昭和58年度には8,309人/日のピークであったものが59年度には5,523人/日と30%以上の減となった。その後も下げ止まらず、60年度には4,619人/日、61年度には3,804人/日と3年で半分以下になってしまった。収支の面でも、営業係数が80台と優秀に推移してきたのが、昭和59年度以降は110~120と赤字が目立つようになった。 [都01]が増発されていくのを後目に、[渋88]は昭和61年の改正で4割近くも本数が削減されてしまった。
また、この経路変更で[東82](渋谷駅~東京駅八重洲口)と渋谷駅から東京タワーの手前までは完全に並行して走るようになった。[東82]は[渋88]よりもさらに収支が悪いこともあってかり、平成2年3月に統合し、新[渋88]として渋谷駅から東京駅八重洲口・東京タワーの2系統体制となった。このとき東京タワー発着の本数は微増となった一方、東京駅発着の本数が削減された。夕方以降は東京駅側の需要が極端に落ちることから、新橋駅北口折り返しとなったのも特徴的である。
これ以降も[都01]に利便性で圧倒的に劣る上、渋滞の多い路線環境で収支は130台と良好とは言えなかったらしく、東京駅八重洲口発着を中心に年々本数は減少していった。平成6年7月には八重洲口が高速バスの増加で手狭になったこともあり、(丸の内)南口発着に変更された。それでも、このときは東京駅方で20分間隔程度で運転されていたが、平成8年頃の改正で大きく削減され、平日は30分間隔、休日は40分間隔となった。朝方も新橋駅北口折返しとなり東京駅発着は日中のみとなった。さらに平成11年1月の改正では東京駅方は平日昼は60分間隔に削減された。
平成12年12月の大江戸線全通時の改編で、ある意味予想通りではあったが東京駅から撤退することとなった。これにより、外堀通りの数寄屋橋~鍛冶橋の区間からは都営バスの路線が消滅した。
しかし意外なことに、[渋88]は東京タワー発着を廃止して新橋駅北口発着に一本化した。新橋方で見れば毎時4本程度とかなりの増発となったが、これは[四92](品川車庫~四谷駅)の廃止により、桜田通りの飯倉~虎ノ門の区間からバスがなくなるための代替として措置されたものと思われる。
しかし、この改編には疑問が残る。廃止系統の代わりに別の場所に向かう系統を増発しても、乗客が引き継げるかというと答えは否で、[東82]が、[渋88]が苦戦して本数を減らしていった区間であったことは歴史が証明している。
結局、歴史は再度繰り返された。改正ごとに[渋88]は本数を減らしていき、平成20年春の改正では約30分間隔と再編直後から半減している。これでも[都01]と比べガラガラという感じは否めず、ジリ貧と言わざるを得ないだろう。
ところで、平成12年の短縮時も、以前の名残で新橋駅北口止まりとなっていたが、平成18年に[都01]と同じく新橋駅まで営業運転するようになり、新橋駅ターミナルに新たに乗り場が設けられた。平成20年には長らく渋谷担当だったのが品川担当となった。これはなかなかの驚きで、営業所の担当バランスの都合だったようだが、品川にとっては初の渋谷駅ターミナル乗り入れとなった。
しかし、この担当は1年限りで終わり、平成21年4月からは運行をはとバスに委託され、新宿担当となった。新宿は[都01]の一部運用を担当していたが、このとき[都01]から撤退しており、受け持ち運用分がそのままスライドしたような感じである。ここ4年程度は本数が下げ止まっているが、このまま維持されるのかは気になるところである。