都営バス資料館

志村営業所(廃止)

基本データ

住所 〒174 板橋区東坂下2-21-19
開設期間
交通機関
基本配置 旧基本車種:日産ディーゼル

沿革

年月日 できごと
S34. 5.27 大塚自動車営業所志村分車庫を開設
S36. 1. 1 志村支所に格上げ
S41. 5.21 志村自動車営業所に格上げ
S57. 3.29 志村自動車営業所を廃止

歴代所管一覧

年月日 所管開始時の区間 所管開始 所管終了 備考
105→東55 浦和駅~東京駅北口 S34. 5.27 S53.10.31 廃止
127 蕨操車所~浅草寿町 S34. 5.27 S47.11.11 廃止
42 王子駅~赤羽駅東口 S34.11. 1 S44. 4.24 →延長140
64→王54 王子駅~常盤台教会 S37 S53.10.31 廃止
116 川口駅~新橋駅 S37 S47.11.11 廃止
都電代替 志村車庫~巣鴨駅 S41. 5.29 S43.10.31 廃止
140→王53 都営志村車庫~王子駅 S44. 4.25 S53.10.31 廃止
104→東50 常盤台教会~東京駅北口 S46. 3.17 S50. 9. 2 廃止
117→東52 上板橋~東京駅北口 S46. 3.17 S52.12.15 廃止
66[2]→王78 新宿駅西口~王子駅 S47. 7. 2 S57. 3.28 →移管(杉並)
王57 赤羽駅東口~豊島5団地 S47.11.12 S57. 3.28 →移管(北)
王41 王子駅~新田1 S53.11. 1 S57. 3.28 →移管(北)
王45 王子駅~足立区役所 S53.11.1 S57. 3.28 →移管(北)

営業所の歴史

 昭和30年6月に都電巣鴨線が志村坂上から志村橋まで延長され、41系統(志村橋~巣鴨駅)が開通した。さらに将来の都電網の発展を見越して、中山道沿い、現在の板橋区東坂下二丁目に電車車庫用地として確保されたのが志村営業所のはじまりである。
 昭和33年ごろには、20輌ほど収容可能な都電車庫の設計までされたものの、結局それが実現することはなく、昭和34年に、需要が増え続ける相互乗入路線を専門に担当するバスの車庫として開所したのである。その後も所管路線数は増え続け、板橋区や北区の路線を主に担当してきた。昭和36年には支所に、そして昭和41年には営業所に格上げされた。もっとも、様々な方向に路線を拡張させようと意気盛んだったものの、国際興業エリアのど真ん中でもあり、思うように改廃ができなかったという一面もあったようだ。
 昭和41年には、都営6号線(三田線)建設のため、志村まで延長された都電もわずか10年で廃止され、志村営業所は代替バスの運行にあたった。朝1分、昼4分毎の運行で押し寄せる乗客を捌いていたらしい。昭和43年には新しい庁舎も完成した。
 しかし、同じく昭和43年に6号線が開業し、47年に日比谷まで延伸されると風向きが変わる。渋滞で所要時間が増大したバスは利用率が低くなっていき、都心直通の相互乗入系統は短縮・廃止を繰り返していった。昭和47年には都電代替バスの大幹線[王57]が開通したものの、その他の旧来の路線は全て廃止対象になり、昭和53年の[王53][王54][東55]を廃止した改編で、国際興業との相互乗入は全て廃止され、営業所の前を通る営業路線は消滅した。この時点で営業所ごと廃止になってもおかしくなかったが、滝野川から[王41][王45]を移管されることで何とか存続していた状態であった。
 結局、昭和57年に営業所は廃止され、[王78]は杉並へ、それ以外は北へと移管され、乗務員は半数が北、半数が巣鴨へと異動、そして車輌も北を中心に転属し、20年余りで志村営業所は消滅した。現在では、板橋区の広場になっており、目の前には国際興業の「三軒家」バス停がある。ちなみに、国際興業にも志村営業所があったため、都営は「都営志村車庫」と名乗っていた。
 ちなみに車輌は、開設から昭和38年度までのツーマン専用車はいすゞ車が導入されたが、またそれ以降に購入したワンマン・ツーマン兼用車については日産車が導入された結果、昭和53年度をもって特定車を除き日産車に統一され、その特定車も昭和55年に転出して廃止時は全車が日産となっていた。
 廃止時には乗合車76台、特定車3台が在籍した。乗合のうち約4割にあたる30台が昭和46年度購入のX代で、最新車は“鈴木カラー”と呼ばれた黄色と赤のK代だった。

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