担当営業所
深川営業所
運行区間
系統 | 区間 | 距離 | 備考 |
本 | 東京駅八重洲口~月島駅~豊洲1~豊洲駅~潮見駅 | 8.200/ 8.210km | |
折 | 東京駅八重洲口~月島駅~豊洲1~豊洲駅 | 5.860/ 5.750km |
年表
系統 | 年月日 | 営業所 | 距離 | 概要 |
9 | S40. 2. 1 | 洲崎 | 5.940km | 19(→門19)系統の折返を独立、東京駅八重洲口~越中島~ |
9 | S41.11. 1 | 洲崎 | 5.780km | 越中島~豊洲埠頭間を枝川経由から豊洲1経由に変更 |
9 | S42. 9. 1 | 洲崎 | 7.590/ 7.990km | 豊洲埠頭~枝川町2(現枝川3)を延長 |
9 | S43. 5.27 | 深川 | 7.590/ 7.990km | 洲崎営業所の深川への移転改称により深川に移管 |
9 | S47. 4.15 | 深川 | 9.980km | 東京駅八重洲口~八枝橋~深川車庫に変更延長 |
9乙 | S47. 4.15 | 深川 | 10.630km | 東京駅八重洲口~八号地入口~深川車庫を開設 |
東17 | S47.11.15 | 深川 | ( 9.965km) | 一部経路変更 |
東17乙 | (10.615km) | 同上 | ||
東17 | S47.11.12 | 深川 | *** | 新系統番号化、東17とする |
東17 | S54. 3.31 | 深川 | 7.780/ 7.590km | 出入庫の営業運転を廃止、東京駅八重洲口~枝川2終点に変更短縮 |
東17 | H 2. 3.10 | 深川 | 8.120/ 8.270km | 京葉線の東京駅延長により東京駅八重洲口~潮見駅に変更延長 |
東17 | H11.11.11 | 深川 | 8.200/ 8.210km | 枝川1付近の橋の架け替えにより一部経路変更 |
東17 | H12.12.12 | 深川 | *** | 東京駅八重洲口~潮見駅を廃止 |
路線概要
東京駅八重洲口から月島・豊洲駅を経由して枝川・潮見駅を結ぶ。朝夕のみの運転で、一部区間で急行運転を行っているのが特徴だった。
.
「急行」という文字がさりげなく方向幕に書かれている[東17]。どこが急行なのかというと、八重洲口を出て[東15]と並行し佃大橋を渡るまでである。八重洲通りを直進し、新川二丁目で右折して高橋を渡りすぐ左折して佃大橋たもとの交差点までは[東15]と同じ経路を走るが、途中で停まる停留所は新川二丁目・湊三丁目のみであった。ここから佃大橋を渡り、すぐに側道を下って月島駅で清澄通りを左折する。この区間には東京駅方面のみ陸橋下に佃大橋の停留所があった。
.
清澄通りで月島駅に停まり、相生橋を渡って次を右折し越中島に停車、商船大(現・東京海洋大)のキャンパスを脇に見つつ、今度は都立三商を右折して豊洲橋を渡り豊洲地区に入る。商船大学の停留所もなぜか通過となっていた。
豊洲駅を左折し枝川を過ぎ、首都高と三ツ目通りをそのまま直進し、枝川三丁目を経由して潮見駅で終点となる。朝夕のみの運転で、それぞれ終わりの時間帯は豊洲駅止まりとなっていた。
路線の歴史
[東15][東16]の影に隠れて地味な系統であったが、方向幕には「急行・潮見駅/東京駅八重洲口」と表示し、車内放送でも「このバスは、急行・潮見駅/東京駅八重洲口行きです」と盛んに「急行」を強調していた。昭和40年代までは、民営との相互乗り入れ系統で都心部を急行運転する系統がたくさんあったが、最後まで残った系統となった。
.
開業は昭和40年と比較的新しく、昭和39年架橋の佃大橋を渡って佃・豊洲方面へ速達する目的で設定された。[19](→[門19])の折返として走っていた東京駅八重洲口~(永代通り)~門前仲町~豊洲埠頭(開通年不明)を経路変更し、独立させる形で開通したようだ。
なお、当初は越中島~枝川~豊洲埠頭という経路だったのが、昭和41年には越中島~石川島播磨重工~豊洲埠頭に、さらに昭和42年に枝川町二丁目まで延伸された。地図を見るとかなりジグザグな経路に見えるが、当時はこれしか道路がなかったためである。
通勤輸送ということで朝夕のみの運転だったが、昭和60年の時刻表では休日も朝夕のみ東京駅八重洲口~豊洲埠頭で運転されていた。
.
書類上は昭和47~54年の間、深川車庫発着の枝系統が存在したことになっているが、出入庫を掲載していたのかは定かではない。
昭和50年代までは乗客も多かったようだが、昭和63年の有楽町線月島・豊洲駅開業、平成2年の京葉線越中島・潮見駅開業で大きな影響を受けた。このときに
廃止されず、潮見駅まで延伸したのは奇跡的とも言えるが、将来の発展を見込んで残しておいたのだろうか。平成2年の改正で本数が半減しおよそ30分間隔で走るようになり、休日運休となった。
.
昭和62年度までは1,600人/日程度あった乗客数も平成元年度には908人/日、平成5年度には739人/日と急減し、営業係数も平成5年度には189と都区内ワーストに近い数字になった。バスによる速達の役割も、中央大橋・新月島大橋の開業により平成5年に[東15乙]がこれらを経由して豊洲駅まで結ぶようになると、こちらが幹線化して[東16]として発展していった。
.
[東17]は細々とした需要を拾うだけの系統となり、平成12年12月の大江戸線改編で全廃された。この系統の独自区間は佃大橋、豊洲一丁目前後、枝川~潮見の区間があったが、佃大橋はビッグサイト臨時急行が催事のたびに大量に走るため路線免許は残っており、平成30年になって定期系統として17年半ぶりに[直行02](豊海水産埠頭→東京駅南口)が開通、豊洲一丁目は[門19]が経路変更して救済した。潮見駅側は代替がなかったが、後に江東区コミュニティバス「しおかぜ」で復活している。沿線の枝川・潮見エリアは京葉線開業後にマンションが次々に立ち並び、平成10年から30年の間で潮見は人口が1,000→6,000人と6倍に、枝川は6,000→10,000人と倍近くに増加している。江東区の中でも都営バスが手薄なエリアとなっているが、一般系統が再び設定される日は来るだろうか。
枝川二丁目終点
当初の終点は枝川の倉庫街をループするように折り返しており、時代により枝川町二丁目、枝川二丁目終点、枝川三丁目と停留所名が微妙に変わっていった。
ローマ字つきの「枝川三丁目」の方向幕は、V代の新車が入った平成元年7月から潮見駅に延伸される半年程度の間だけ見られたレアな表示だった。
都営バスは「終点」の名が好みなのか、本誌では有明終点、それ以外にも[新小29]の春江町終点(臨海の巻参照)、[里48]の足立流通センター終点(大塚・巣鴨の巻参照)などいくつかあったが、現在はいずれも廃止されている。