担当営業所
目黒営業所
運行区間
系統 | 区間 | 距離 | 備考 |
本 | 四谷駅~溜池~首相官邸前~国会議事堂~日比谷~東京駅南口 | 7.399/ 6.590km |
年表
系統 | 年月日 | 営業所 | 距離 | 概要 |
62 | S29. 4. 1 | 新宿 | 16.400km | 東京駅南口~国税庁支所~首相官邸~国会図書館~半蔵門~労働省~東鉄管理局~小舟町~日本橋~東京駅南口が開通 |
62折 | S29. 6.25 | 新宿 | 4.400km | 四谷駅~霞ヶ関を開設 |
62 | S29.12.20 | 新宿 | 16.710km | 四谷駅~新富町循環に変更延長 |
62 | S30. 4. 1 | (目黒) | 16.710km | 霞ヶ関先回り(内回り)を目黒分車庫開設にともない目黒所管とする |
62 | S30. 6. 1 | 目黒 | *** | 目黒分車庫が目黒営業所に昇格 |
62 | S30. 9.10 | 目黒 | 13.086km | 四谷駅→霞ヶ関先回り→東京駅循環(内回り)に変更短縮 |
62 | S36. 9.18 | 目黒 | 13.016km | 国会議事堂付近の経路変更 |
62 | S37.11. 1 | 目黒 | 7.119/7.210km | 四谷駅~東京駅南口に変更短縮、目黒単独所管とする |
62折 | S37.11. 1 | 目黒 | 4.553/4.603km | 四谷駅~霞ヶ関を開設 |
62 | S39.12. 5 | 目黒 | 7.399/7.490km | 霞ヶ関付近の経路変更 |
62折 | S39.12. 5 | 目黒 | 4.833/4.833km | 同上 |
62 | S41. 7. 1 | 目黒 | *** | 四谷駅~東京駅南口・霞ヶ関を廃止 |
路線概要
かつての官庁街循環の南側にあたり、四谷駅から官庁街を経由して東京駅南口までを結ぶ。
四谷駅を出発後、四谷見附の交差点北側の四谷駅西口(四谷駅発のみ)、南側の四谷見附にも停車し、さらに現在の迎賓館前にてこの系統専用の国会図書館の停留所があった。昭和36年までは迎賓館を国会図書館として使っていたためだが、閉鎖後も引き続き廃止まで停車していたようだ。
その後は外堀通りを赤坂見附・溜池方面に進むが、山王下~溜池で中小企業庁(現山王パークタワー付近)に停まるなど停留所の数は他よりも多い。
溜池を直進して特許庁前で停車した後、左折して現在の内閣府前で「首相官邸」。現在は官邸のある左手には高い壁がそびえて中をうかがうことはできない。そのまま直進して、右手に国会の裏手を見ながら進み、通り過ぎる手前で参議院通用門。今は永田町の2番出口が近く、この通用門から現在でも参議院の見学を誰でも申し込める。
ここからは国会議事堂を回り込むように正門・衆議院側の角(財務省上)とほぼ国会を一周した後、現在の霞ヶ関停留所に停車し、現外務省の交差点で左折して桜田通りを北上、突き当りの桜田門で内堀通りを右折して日比谷へ至る。霞ヶ関~日比谷は四谷駅方面のみ桜田門近くで法務省前に停車するだけで、東京駅方面はノンストップであった。
日比谷からは他の系統と同じく、有楽町駅・都庁前(現東京国際フォーラム)を経由して東京駅南口が終点となる。
昭和37年までは北回りの部分も存在し、東京駅南口から先は現在の丸ノ内循環無料バスと同様に丸ビル前の通りを北上して丸ノ内の北側と大手町界隈に進み、JAビル付近で左折、東京国税局と労働省(現気象庁付近)に停留所があった。
労働省からは東西線竹橋駅の上に沿い、竹橋からは直進して北の丸公園に入り込んでいた。国立近代美術館や科学技術館のある辺りもかつては官庁があり、代官町、労働省分室の停留所があった。
北の丸公園を直進し、英国大使館から現在の半蔵門駅付近まで進んで三番町停留所に停車。そして新宿通りに合流して四谷駅で一周という環状の経路となっていた。
歴史
官庁循環線は元々は都営バスの路線ではなかった。戦後すぐに官庁の職員専用の連絡バスとして国際自動車(現在もタクシー会社の大手)が運行を開始した。
東京駅から新橋・溜池・赤坂見附・四谷・半蔵門・北の丸・大手町・日本橋を回る循環線と、郵政省(麻布台)から虎ノ門・溜池・東京駅・日銀・江戸橋を経由して茅場町に至る横断線の2系統が存在した。
職員専用という名目であったが一般客も実際は乗れたようで、昭和17年の陸上交通調整以来厳格に営業エリアが定まっていたこともあり、並行する都電や都バスが影響を受けるとして交通局は特に問題視した。今は路線を引くことも自由化されたが、当時はそうではなかったのである。
最終的にこの問題は国会にまで持ち込まれ、昭和29年にこの路線は車輛ごと買収することになり、都営バスの路線として営業されるようになった。これにより誕生したのが[62][63]の2系統である。[46](四谷駅~代官町~東京駅北口)、[62](東京駅南口~四谷駅循環)が循環線、[63](郵政省~茅場町)が横断線に相当する。[62]も開通当初は新宿の所管だった。
さて、この路線であるが、短い期間で路線が細かく変わっているので正確に経路に追うことが難しい。少なくとも当初は東京駅南口を起点とした一周型の循環線で、南口を出ると南側は都庁前・数寄屋橋・銀座四丁目から三原橋(昭和通り)を経由して新橋に、新橋からは現在の第一ホテル・みずほ銀行側から内幸町に出て国会議事堂方面に抜ける、いわゆるかつての[橋63]ルートを取っていた。ただし、内幸町~霞ヶ関停留所の間は外堀通りを経由する相当ジグザグなルートだったようだ。
北側も面白く、東京駅南口から永代通りに出て日本橋・茅場町まで進んだ後、日本橋川を渡り、小舟町・三越と川の北側を通って大手町に戻り、大手町からは概要で述べた経路を通っていった。[63]とともに茅場町方面にも寄っているのが面白いが、商業地域や証券街を結びたかったのだろうか。この当時、この沿線にあった国の機関は日本橋室町の公取委くらいしかなかったはずである。
昭和29年12月にはさっそくの経路変更を行い、四谷駅を起終点としたうえで、別途運行していた[8](東京駅乗車口~新富町・桜橋・日本橋循環)と統合したうえで四谷駅~新富町循環に改めた。[8]は東京駅から中央通り・平成通り(今の[錦11](築地駅~亀戸駅)の通り)・永代通りを回って東京駅に戻る路線だった。
正確な経路は不明だが、素直に考えるならば、四谷駅~新橋から三原橋まで来た後、築地から平成通りで新富町を経由して茅場町まで北上して元の経路に戻り、東京駅に寄らないようになったと考えられる。昭和30年4月には目黒開設に伴って移管されたが、内回りは目黒に、外回りは新谷町にそれぞれ移管された。このような移管は都営では唯一の例と言える。
しかし、この新富町経由も1年と持たず、同年6月には四谷駅~東京駅の循環に短縮され、中央区の三原橋や平成通り、日本橋川沿いの区間には行かなくなった。とりあえず引き継で路線を引いてみたものの、試行錯誤している様子がうかがえる。新富町付近の経路は都電があるため不要と判断されたのだろう。東京駅~蠣殻町については[46]が引き継いで延長されたが、昭和37年に短縮されている。
昭和36年~39年には国会付近の道路が大幅に変更されて経路変更された。当時の地図と現在を見比べると、国会から官庁街にかけての道路が大きく引き直されている様子がうかがえる。
この系統も着眼点は悪くないと思うのだが、どうも乗客は少なかったようだ。昭和37年には北半分が廃止され、四谷駅~東京駅だけの折り返し運転となった。代官町~北の丸公園にあった官庁群がこの時期にはなくなっていたはずで、例えば跡地に建った科学技術館のオープンは昭和39年である。北半分を結ぶ意義が薄れたこともあったのだろう。
そして昭和41年には全線で廃止されてしまった。都営バスとしての全体的な路線整理が始まるタイミングよりはかなり早く、相当な不採算だった可能性が高い。
官庁街へは、その後も昭和49年にミニバス(東京駅北口~新橋駅)が開通して新たな可能性を探るが、時代が早すぎたのか10年経たずに廃止されてしまった。こちらの経緯については[東01]を参照のこと。コンセプトが早すぎたバス、と言えるだろう。